ぶどうの郷の「藤切り祭」とワインの旅(2)
- 2019年 5月 13日
- カルチャー
- 内野光子
翌日の朝は、雲も広がり、やや冷え込み、薄いセーターが手離せなかった。宿のすぐ隣にある萬福寺に立ち寄ってみた。山門をくぐると、すぐ左手の巨樹の太さに圧倒される。「山梨の巨樹・名木百選」の札があり、ムクノキということだ。お寺のホームページによれば、境内5000坪、創建604年推古の時代。右手には、大きな石があり、その横には「馬蹄石」と刻まれている。聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って、天から降り立った?際の馬蹄の跡があるという。時代は下って、1228年には、親鸞が、聖徳太子を偲んでこの寺を訪ね、食事の後、用済みの杉の箸を庭に挿すと、立派な杉の木に育った!ところから「杉の坊」とも呼ばれているという。本堂の手前、右手には芭蕉の句碑があった。
山門からムクノキと本堂と六角堂を見る。
写真の奥から、山門、馬蹄石、句碑であり、左奥には鐘楼が見え、句碑には「行駒の友を慰む やどりかな 芭蕉」とある。
今日の最初の目的地は、日本のワイン製造発祥の地「宮光園」である。宿の奥さんから、大通りを歩くよりは、日川沿いの道を歩いてみては、ということで、描いてくださった地図を持っていたのだが、最初の交差点で間違ったらしく、ブドウ園は続くが、なかなか橋には出会わない。白百合酒造というおしゃれな店があったので、尋ねてみると、やはり、交差点までもどるように言われる。二人で一人前にもならない方向感覚である。途中、「宮光園⇒」の小さな札があったので、立ち止まって思案していると、車を止めて「どこへゆくの?」と聞かれる。ともかく道なりに進んで、橋につきあたるから、あとは川沿いに行けばよい、ということであった。進む道は、ぶどう畑の間を縫う道で、畑では、作業中の人たちをよく見かけた。ようやく日川に沿って歩き始めた。ぶどう畑には、石の道のようなものが残っていますよ、気を付けてみてください、と出がけに奥さんから言われていたが、なるほどと思う、その石積みの道に何度も出会った。いまは水が少ないが、この川沿いは、よく洪水に見舞われたといい、人々は、少しでもその被害を食い止めるために、川とは直角に石を積み上げたような道を何本も設置して、水流を弱めたという。その遺構が、ぶどう畑に残っているというわけだ。
続くぶどう畑で、見かけた石積み、いまでは、農作業に邪魔なような・・・。
やがて見えてきたのは「ぶどう橋」、左手には、つつじの植え込みで囲まれた赤い建物の盛田甲州ワイナリー、その向かいはシャトレーゼのワイナリーのはずである。宮光園は右手の坂をのぼるとすぐに見えてきて、その向かいには、メルシャンの工場が広がっていた。
まず目に入ったのが、背の高い「天覧葡萄宮光園」の碑であった。そして立派な門をくぐると、正面には細長い二階は洋風、1階は和風の建物があるのだが、門のすぐ右手には「写真館跡」という8畳ほどか、土台が残っている。進めば若槻礼次郎首相訪問記念碑、富士山の姿に似ている巨岩が目についた。係の人に「お時間ありますか」と尋ねられ、見せてもらったのが、大正から昭和にかけて1922年~1927年に撮影された「宮光園」の13分ほどのフィルムだった。宮光園創業者の宮崎光太郎(1863~1947)は進取の気性に富んだ人だったらしく、1877年創業後、養蚕農家を買い取っての母屋をはじめ、事業においても、フランスに研修に行った二人の技術者とともに、日本人の口にあったワインを模索、営業・広報・宣伝についても、アイデアマンだったらしい。さまざまな資料や製造過程をフィルムに残していて、その一端が、最初に見た修復されたフィルムで、敷地内に写真館まであったことにも表れているのではないか。
正面にはワインの貯蔵庫
「白蔵」と呼ばれる白ワイン貯蔵庫。
甘口の「赤玉ポートワイン」全盛の時代、甲斐産ワイン、葡萄ジュースの普及のため、皇族たちとも交流を深め、「宮内庁御用達」のブランドや招待を続けたらしい。1922年昭和天皇の皇太子時代の訪問に続き、若槻首相、伏見宮、義宮、照宮、久仁宮など続々と来園している。太平洋戦争中は、ワイン製造過程でできる酒石酸をソナー(音波探信機)に使用するとして軍に収め、ワインを、侐兵品として、軍に寄贈していた。
昭和天皇は、1947年10月15日に宮光園に立ち寄っている。戦後の行幸は、すでに、1946年2月に始まり、1954年8月まで続く。あたらしい憲法は、47年5月3日に施行されたばかりで、GHQによる種々の改革が進む一方、天皇の地位自体が不安定な時期でもあった。1946年5月に始まった東京裁判のキーナン首席検事「天皇訴追せず」の表明はあったものの、天皇の戦争責任論や退位論もメデイアを賑わせており、宮内庁としては、天皇と国民との関係強化、天皇制支持を確固としたものにへの政策の一環で、戦災者・引揚者などへの慰問が主目的として行幸を実施した。GHQは、民心の安定や産業復興への激励を意図していた。山梨県の記録によれば、47年10月の行幸目的は「県内事情の御視察、御慰問、御激励」となっていたが、宮光園の滞在予定時間は11分と記されている(山梨日日新聞1947年10月14日)。
戦後、ウィスキーも手掛け、大黒葡萄酒はオーシャンと名を変え、1961年、メルシャンブランドを傘下に入れたが、合成酒で有名な三楽酒造の傘下となった。さらに、1990年、社名をメルシャン変更したが、2006年には、キリンビールとの業務提携を経て、現在はキリンビールの完全な子会社になっている。創業者宮崎家の手から離れて久しく、.現在のように、かつての宮光園の建物を修復し、資料も一部整理され、展示室として整えられたのは、管理が甲州市になった比較的最近のことらしく、公開は2011年だった。遺されたフィルムや写真など未整理のものもかなりあるらしい。
奥まった庭園にはいくつかの石碑があったが、着目したのは「貞明皇太后御歌碑」であった。1948年9月14日来園した折に読んだ二首であった。皇太后は、翌年の5月12日にも、県内の織物工場を訪ねた時に立ち寄っている。
「貞明皇太后御歌碑」、万葉仮名で読みにくいのだが、案内板には、次の二首が記されていた。
・昔わが住みにける里の垣根には菊や咲くらむ栗やえむらむ
・もの心知らぬほとより育てつる人の恵みは忘れさりけり
つぎは、ふたたび、車で「ぶどうの丘」へ向かう。早めのランチということで展望レストランへ。シーズンオフとは言え、お客は私たちだけ。斜面に広がるぶどう畑やビニールハウス、近景の山なみ、遠景の山なみのかなたには、雪をかぶる南アルプスがかすんで見える。次に向かうワイナリーの「錦城ワイン」はどこかとスタッフに聞けば、「見えるでしょう、あの道のビニールハウスが並んでいる右手の建物、「ぶどうの丘」の入り口を出て下り、右に行けばすぐですよ」とのこと。ゆっくりと食事を済ませて、教えられたとおりに、丘を下り始める。
向かう「錦城ワイン」は、昨年、NHKの「小さな旅」で紹介されていた小規模のワイン醸造所で、ご近所のぶどう園農家と連携して、手堅く醸造を進めている会社ということであった。直ぐのはずの錦城ワイン、斜面のぶどう畑の間の狭い道をくねくねと下り、どこまで続くか、なかなか平地につかない。途中で、作業中の人に聞けば、ここが近道かもしれないと、さらに細い道を教えてくれる。ようやく広い道に出ても歩くこと、歩くこと、まず歩いている人とは出会わない。30分近く歩いて、店の前で車から降りる人に聞いてみると、すぐ先だよ、ということだったが、広い長いぶどう畑を過ぎると、ようやく見えてきた看板にホッとする。
ぶどうの丘を見上げる。見降ろした時は、そう遠くはないはずだったのに・・・。
夫は、試飲の後、店頭限定の蔵出しの赤の「東雲」、白の「小佐手」を選んだ。命名は、近くの地名によるものらしい。自家用と親戚と知人の二方にも送る手続きをして、車を呼ぶ。
明日の午前中、夫は、急遽、所用のため大阪に向かう。10時半には新大阪に着かねばということで、明朝は、5時半には宿を出なければならなくなった。私は、新横浜で別れることになっている。
初出:「内野光子のブログ」2019.05.12より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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