グザヴィエ•ボーヴォア監督の映画「田園の守り人たち」を見る
- 2019年 5月 18日
- カルチャー
- 宇波彰
去る2019年5月2日に、私は試写でグザヴィエ・ボーヴォア監督のフランス•スイス合作映画「田園の守り人たち」を見た。第一次大戦中のフランス農村を舞台とするこの映画は、男性がいなくなったフランスの田園・農村の状況を描いている。100年前のフランスの農村での麦蒔き、麦刈り、脱穀、乳搾りなどの情景が展開される。これはまさに「動くミレー」であり、それだけでもこの映画を見る価値がある。
この映画の原タイトルはLes gardiennes(「レ・ガルディアンヌ」)であり、「守る女たち」という意味である。つまりこのタイトルは、「田園の守り人たち」がまず第一に「女性たち」の行動を描いた映画であって、主役が女性であることを示している。次に、その女性たちが、田園を「守った」ということを示している。田園とは、陶淵明のいう田園であり、農業が行われている場、つまり農場・畑のことであが、それと同時に、あるいはそれ以上に、彼女たちが守ろうとしたのは「家族・家」にほかならない。 実際にこの映画では、舞台となる「家」のイメージが、その家が保有している農場のイメージとともに、極度に反復されているし、さまざまなかたちでの家族の絆が強調されている。その家族の中心に位置しているのが、ナタリー・バイが演じるこの大農家の寡婦オルタンスである。オルタンスの「存在感」の重さがひしひしと伝わってくるのは、この女優のすぐれた演技を引き出したボーヴォワ監督の力量である。
しかし、「守る」というのは、敵対するものがあって、それに対して「守る」ということである。この映画におけるその「敵」とは、国家にほかならない。国家は、本来は国民を守るものであるが、戦争となると、それは「家族にとっての敵」という側面をあらわにする。ポーランド生まれのイギリスの社会学者ジクムンド・バウマンは、現代の国家・社会が「液状化」したと指摘した。戦争のときには、国家は個人を「戦力」とみなし、兵士として徴集する。国家は、個人・家族を守ってくれなくなるばかりか、その「敵」になる。この映画は、そのような意味での「敵」である「国家」に対して、自分の家族を守ろうとして行動した女性の物語である。
オルタンスの長男は戦死、次男は戦場に赴いたが、戦後は帰還する。オルタンスの長女の夫はドイツ軍の捕虜になるが、彼も帰還する。オルタンスの「家族」は、崩壊寸前だったのである。彼女の使命は、そのようにして、国家によって崩壊されかかった「家族」を守ることにある。その意味では、この映画を「反戦映画」として見ることも可能であろう。しかしボーヴォア監督は、けっして声高には語らない。戦場の場面もごくわずかしかスクリーンに写されていない。監督は、見る者に密かに語りかけているように思われる。
この映画のさらなる魅力は、オルタンスが雇った若い女性フランソワーズの存在と行動である。彼女は「田園の守り人たち」のひとりとして、農耕にも、牛たちの世話にも、きわめて有能である。雇われた身であるにもかかわらず、彼女は次第にオルタンスの家族の一員へと変化していく。そのプロセスは、きわめて演劇的・映画的であり、観客は彼女がどういう運命をたどって行くのかと、はらはらせずにはいられないであろう。ボーヴォア監督によるその紆余曲折の描き方は、並のものではない。(2019年5月8日)
初出:「宇波彰現代哲学研究所」2019.5.8より許可を得て転載
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