2019.ドイツ便り(1)<出発の日>
- 2019年 6月 24日
- カルチャー
- 合澤 清
6月21日(金)、天気は曇り空で蒸し暑く、今にも雨が降りそうだ。
早朝3時過ぎに起き出す。なにせ、6時半ごろ出発の羽田空港行きのバスに乗らなければ、飛行機の出発2時間前には到着できそうもないため、うかうかと惰眠をむさぼるわけにはいかなかったのである。
早起きのもう一つの理由は、たまたま再読していた、柴田三千雄の『フランス革命』という岩波から出ている本の中で柴田が恩師・高橋幸八郎の『市民革命の構造』から「経過的統一体」という概念を紹介している個所が気になったからだ。ここだけはノートにとって、ドイツ滞在中に考えてみたいと思っていた。
実は、今回のドイツ滞在中に、マチエの『フランス大革命』(全3巻、岩波文庫)を読もうと決めていて、前もって読んだ、ミシュレの『フランス革命史』(中央公論社)と、柴田のこの本とをその際の参考にしたいと考えていた。
生来の無精者たる私は、せめてドイツ滞在中だけでも、何か一冊はまとまった本を読まなければならないと、やっと近年考えるようになった。昨年はマックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)をやっとの思いで読みあげた。
ミシュレも非常に面白かった。彼は歴史を単なる事象の無味乾燥な羅列にとどめず、ある種の物語性として捉える必要があるということを大胆に提起している。しかし、この「物語性」は、なかなか難物である。ともすれば、手前勝手な「物語Geschichite 」のでっち上げになりかねないからだ。小説ならいざ知らず、学問としての歴史学の方法論として、そのような恣意的な考え方が通用するはずはない。
ミシュレは、ヘーゲルよりもおよそ30歳年下で、マルクスよりも20歳年上である。彼はカントを読んでいるようだが、ヘーゲルについてのコメントは(少なくともこの本の中には)ない。しかし、プルードンとは知り合いだった、というよりもプルードン主義に近かったようだ。ということは、プルードンを介して、ヘーゲルについての知識も持ちあわしていたとも考えられる。そして、「歴史の物語性」という考え方は、ひょっとするとヘーゲルの『歴史哲学』辺りから構想されたとも推測できるのであるが、残念ながらそれを確定できる証拠はないし、ミシュレが「関係論」(「歴史の物語性」は関係性の洞察の上にのみ構築されうると思われる)の上に立って考えていたということも必ずしもいいえない
高橋=柴田の「経過的統一体」論に話を戻す。この考え方の面白さは、互いに対立する関係に立つ二つの階級(ブルジョアジー、富農とプロレタリアート、貧農)が、反封建体制、反絶対王政の立場で協力して闘いながら、その過程で、互いの利害関係の対立が表面化してくるということを明確化した点にある。高橋=柴田の「比較史」では、例えば、明治維新の位置付け、あるいはロシア革命や中国革命の位置付けなどとも絡んでこの概念が展開される。この理論の面白さは、頑迷固陋に一義的に解釈されて適用される「革命観」(ブルジョア革命論にもプロレタリア革命論にも言えることではあるが)に対して、多様さを対置したところにある。しかし、ここではこれ以上の深入りは差し控えたい。
とりあえず、こういう問題意識を抱えながら慌ただしく出立した次第である。
最近は歳のせいもあり、羽田まではもっぱら直行の高速バスを利用している。重い荷物を引きずりながら、電車を何度か乗り換えるのはさすがにきつくなってきた。その点、バスは便利だ。荷物は預けたままで、ゆっくり座っていける。時間的にも不思議に思えるほど正確である。
高速バスの運行も、羽田での搭乗手続きも、また飛行機の中での居心地も、全く問題なくスムーズに行った。もちろん、飛行機のエコノミークラスの座席の狭さゆえの窮屈さはいつものことであるが…。元高級官僚だった友人から、ファーストクラスで、ゆったりと海外出張をこなしていたという話を聴いたことがある。何ともうらやましい限りだ。
<ドイツ到着>
フランクフルト空港へは、予定時間より30分ぐらい早く着いた。大変上手な機長だったのか、離着陸での揺れもあまり感じなかった。
ところが、フランクフルト空港で、またまた予想外のことが起きた。私の旅行用かばん(Koffer)を引きずるための伸縮自在の取っ手部分が完全に破損(割れていた)し、どうやっても伸びないのである。この重い荷物を引っ提げて行くほどの体力はもはやない。困ってしまった。幸い、ANAの客室乗務員がいたので、連れ合いがこの破損のことを話し、係(若い日本人男性)と交渉することになった。構内に修理屋もあるとのことだが、何しろ目的のゲッティンゲンにはホームステイ先のドイツ夫人が時間を決めて迎えに来てくれる手はずになっている。ぐずぐずする時間はない。先方が50ユーロの補償はするというので、すぐにそれで手を打った。
Sバーン(電車)でフランクフルト中央駅まで出て、中腰で大きなカバンを引きずりながらゲッティンゲンを経由するICE(ドイツの新幹線)のホームで待つ。いつもながら到着は遅れている。しかし、この日は満席ではなくて、座席だけはすいていた。しかし、日本の新幹線にならされた身には、これでも新幹線かと思えるほどひどいのろのろ運転であり、途中で何度もストップする有様だ。新幹線を自動車に変えて考えれば、日・独の事情は逆転する。日本の高速道路などの日常的渋滞のひどさは、およそ普段のドイツでは考えられないからだ。
結局、(空港での遅れと、ICEの遅れを合算して)予定より2時間ぐらい遅れてゲッティンゲンに着いた。
有り難いことに、それでも彼女は愛犬を連れて待っていてくれた。
行きつけのイタリア・リストランテ(レストラン)で本場のピザを食べ、久しぶりのドイツビールを堪能する。
彼女の家について、大荷物を開けてまたもびっくり。私の方ではなくて、連れ合いの方のトランクの中に入れていたミヤゲ用の焼酎(陶器)が完全に破損していて、彼女の衣服は全てびしょ濡れ状態だった。これは空港では気がつかない。衣服にくるんでいたから液体も外に漏れ出さず、外観は異常なしだったから余計にそうだ。憤慨しても後の祭りである。
良いことがあれば悪いこともある、と諦めるしかない。
<旧友たちとの再会など>
翌日は、意外に早く起き出した。「時差ボケ」だったのかもしれない。毎年恒例の早朝散歩(6時半から)に出掛ける。外は、日本では考えられないほど寒い。長袖のシャツをもう一枚着てくれば良かったと悔やみながら40分ばかり歩き、7時に開くスーパーマーケットに買い物に行く。初日の買い物はいつも大変だ。リュックいっぱいと手提げの買い物袋がいっぱいになる。
朝食後は日本への「到着の知らせ」、またドイツの友人たちへの連絡、ゲッティンゲンの行きつけの居酒屋への予約の電話(近年は満席が多いため、席を予約しないと大変なことになる)。そしてこの家の犬の散歩や再度の買い物(翌日の23日が日曜のため、スーパーは休業)などに追われる。
午後5時過ぎに、バスでゲッティンゲンまで行き、なじみの居酒屋に行く。6時頃に着いたのだが、既に客でいっぱいになっていた。ウエイターが4人(新人が一人いたが、3人とは旧知の仲)、厨房をのぞき挨拶する。お客の中にも何人かの古い顔なじみがいて、旧交を温める。不自由なドイツ語を何とかこなしながら、この店の女主人や大男だが親切で優しい友人とも久しぶりの挨拶を交わす。やっと、ドイツの故郷に帰ってきた感じだ。
このところの目立った傾向は、ベトナム人の就労者が多いことだ。厨房にいた若いベトナム人の男性は、日本にも2,3年いた(研修生)経験があるとのことで、片言の日本語を喋っていた。客の中にも数人のベトナム人がいて、この店の店員と母国語で喋っていた。ベトナム人は真面目で勤勉だというのが、日・独共通の評判である。
ベトナムは急速に伸長しているというのが私の感じたことである。
夜の10時過ぎ、まだ店はいっぱいの客だったが、われわれは、ホームステイ先の女主人の迎えの車で帰宅とあいなる。彼女と喋っているうちに、不覚にも眠ってしまい、気が付いたら家の前にいた。
こうしてドイツでの生活が再開することになった。夢うつつに聞いた話では、来週のドイツは、すごい暑さの到来で、何でも42℃位になるということだ。ビール漬けの生活にならないよう、気をつけなければ。
6月23日 記
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