映画「テルアビブ オン ファイア」を見る
- 2019年 9月 11日
- カルチャー
- 宇波彰宇波彰現代哲学研究所
去る2019年8月28日に、私はサメフ・ゾアビ監督のイスラエル・ベルギー・ルクセンブルグ・フランス合作映画「テルアビブ オン ファイア」(2019年)を試写で見た。イスラエルの都市テルアビブに住むパレスチナ人の男が、仕事場のあるパレスチナ自治区のラマッラー(以前は「ラマラ」と表記されていた)に毎日通っているうちに、検問所のイスラエル軍の責任者の将校と知り合うようになり、その男の意見を入れて、人気テレビドラマの脚本を書いて行く。そのテレビドラマがスクリーンに写されるから、観客は、映画の話とテレビドラマの話という二つの物語が交錯して進展するのを見ることになる。きわめて巧妙な展開の仕方である。タイトルが示唆するものとは全く異なる、コメディ、娯楽映画として十分に楽しめる。
しかし、同時に私はこの映画がわずかに垣間見せているものに注目した。そのひとつは、イスラエルとパレスチナ自治区とを隔てるために作られた、とてつもなく高く長い壁である。いま、世界のあちこちに「壁」が作られているが、この映画でちょっとだけ写されているような巨大な壁は、多分ほかには存在しないであろう。この映画の主役であるパレスチナ人は、その壁を見ようともしない。強固なその壁は非常に高く、非常に長く作られている。それを乗り越えて行くことも、そこに穴を開けることも全く不可能である。李白ならば、「その壁は高く、天との間は一尺しかない」というであろう。
「壁」というと、われわれは「ナマコ壁」のようなものを想像しがちであるが、英語のwall,フランス語のmur,ドイツ語のMauerなどには、もっと大きな障壁の意味がある。英語でGreat wall は「万里の長城」のことである。「ベルリンの壁」も想起される。9月1日の毎日新聞には、モロッコと西サハラとの間には「砂の壁」があるという記事があが、この「壁」には地雷が埋められているのだ。もちろん「壁」は物理的な「隔離」を目的として作られるものであろうが、壁には象徴的・記号的な意味を持つにすぎないものもある。万里の長城も、ハドリアヌスの壁も完全な「隔離」を可能にしていたとは思えない。これに対して、「テルアビブ オン ファイア」のスクリーンには収まりきれないような巨大な「壁」は、完全な隔離、非情な分離を直接的に行なっている。
たまたま私は、フランスの美術史家ジョルジュ・ディディ-ユベルマンの新著『欲望する 服従しない』(Georges Didi-Huberman,Désirer désobéir, Minuit, 2019) を読んだところだが、その「壁を背にして」の章には第二次大戦中のワルシャワで、ユダヤ人を閉じ込めるために作られた「壁」の写真が何点か載っている。壁の前で餓死しつつある子どもの写真もある。この壁は、戦争中にドイツがユダヤ人に建設の費用を負担させて作ったものである。映画「テルアビブ オン ファイア」に写っている壁はその延長線上にある。実際、この著作にはイスラエルとパレスチナとを隔てる小規模の壁の写真も収められている。つまり、ワルシャワとイスラエル・パレスチナとが、通時的に結びつけて考えられている。
映画「テルアビブ オン ファイア」では、境界にある検問所のイスラエル軍の責任者と、テレビドラマの脚本を書く男とが交流するという話になっている。実際にそうあればいいのだが、おそらく現実は映画とは全く異なるものだと考えなくてはならない。最近、私はミシェル・アジェ『移動する民』(吉田裕訳、藤原書店、2019)を読んだ。これはいま話題になっている、ヨーロッパへの難民・移民の問題を、なんとか「歓待」という考えなどによって解決できないかという意見を示したものである。この原書のタイトルはLes migrants et nous, comprendre Babel(CNRS, 2016)で、「移民たちとわれわれ バベルを理解する」という意味である。(この原書は5ユーロのパンフレット状のもので、邦訳にはほかの論文も加えてある。)難民・移民とヨーロッパ人は、「バベルの破壊以後」的な状況、つまり言語・意志が相互に通じない状況にあり、その対立を改める方法が求められる。20世紀後半から激化したイスラエル人とパレスチナ人との対立状況は、これよりもはるかに過激である。対立というよりもむしろ「敵対」であろう。この映画では、その「敵対」が具体的に描かれているわけではない。しかし、「1967年」「インティファーダ」「オスロ合意」「ホロコースト」といったことばが瞬間的に出て来ることは確かである。他方、イスラエル軍の将校と、パレスチナ人のシナリオライターとは、「バベル以後状態」を脱して、コミュニケーションが可能となったようにも見える。しかし、この映画はあくまでも「イスラエル・ベルギー・ルクセンブルグ・フランス合作映画」であり、イスラエル側の考えが無視されているとはいえない。「歓待」は、実は不可能ではないかと考えざるをえない。
内藤正典の『ヨーロッパとイスラーム』(岩波新書、2004)は、難民・移民の問題を考えるための基本的文献のひとつである。その結論と見えるものは、次の数行に要約されるであろう。(ヨーロッパとイスラ-ムという)「両者の規範が異なることは、すでに明らかとなった。本書で例に挙げたドイツ、オランダ、フランスという三国の状況は、イスラーム的規範と西洋文明の規範が、いかなる局面においてぶつかりあうかを示している。」(p.199)内藤正典は、両者の規範が「ぶつかっている」と考えているのである。ヨーロッパにおいてさえ、「衝突」の状況であり、パレスチナ・イスラエルでは、それは「敵対」の状況にほかならない。映画からは離れたかもしれないが、見たあとの私の感想を述べた。
(2019年9月4日)
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