少数民族から見た中国革命70周年(2)
- 2019年 10月 25日
- 評論・紹介・意見
- チベット中国阿部治平
――八ヶ岳山麓から(294)――
2019年10月1日は中国共産党にとって建国70周年だったが、少数民族にとっては過酷な日々の始まりの記念日だった、と前記(八ヶ岳山麗から(294))で書いた。とりわけチベット人にとっては、今年はダライ・ラマのインド亡命60周年であって、パレードどころの話ではない。
前回に引き続いて、中国における民族問題を考えるために、社会主義化直前のチベット人社会の概略と、その社会に進攻した中共軍が本来どの様な性格をもっていたかを述べたい。
チベット人地域は各地各様だった
現在のチベット人居住地域は、総面積で中国全土の5分の1の及ぶ広さで、その文化と産業もさまざまである。強いて共通点を求めるならば、①ダライ・ラマ崇拝を伴ったチベット仏教と、②河谷低地における家畜の多頭飼育をともなう穀物農業と、牧畜ということになるだろうか。
チベット人は自分の居住地域を中国の行政区分を無視して、3地区に大別する。①現チベット自治区の大半を占めるウ・ザン、②青海省の大部分・甘粛省南部・四川省のアバを合わせたアムド、③自治区内のチャムド・青海省玉樹・四川省甘孜を合わせたカムである。これら3地区の方言は互いに通じないが、語法や文字は同じであるうえに、熱い仏教信仰がチベット民族としての一体感をもたらしている。
ウ・ザンでは前述のように、ラサ政府が支配者だった。アムドやカムでは、伝統的支配者を歴代王朝が地方行政官に任じた「土司」と寺院が支配していて、さらに国民党時代になると、これに軍閥の支配が加わった。
土地制度は多様化していた。ウ・ザンでは巨大寺院と貴族の荘園が多く、アムドやカムでは農民に土地所有権のない地域もあれば、地主・小作や自営農が支配的な地域もあった。牧畜地帯では牧野は集落ごとの共同所有であったが、家畜は個人所有だった。
ラサ周辺の農民についていうと、彼らは荘園貴族の直営地ではたらき(労働地代)、さらに自身の小作地の収穫から現物地代を納めていた。通説では、地代は収穫物の70%だったとされる。チベット高原では、ハダカムギなどの穀物の1人当り生産量は200キロから400キロ程度であった。来年のための種子の取り置きや、役人の出張費用を負担する「ウーラ」や、寺院への布施、さらには高利貸の搾取もあるとなると、70%を搾取されては、どんなに多めに見ても、口に入る食料は年100キロにも満たないことになる。そうならば、飢餓や逃散が起こり、大半の集落は消滅するはずである。ところがチベット人社会は、中共支配に至るまでちゃんと存続していた。「通説」が誇張であることがわかる。
アムドには自営農もあった。青海省黄南蔵族自治州チェンザ県で、1949年、中共軍が進駐直後に行なわれた調査では、3402戸のうち93%を占める一般農家が耕地の80%を、5%を占める中等農家が耕地の7%を持っていた。これ以外は、2%を占める地主・封建領主が耕地3%を、寺院が3%を持っていた(『黄南州誌』上)。
合わせて98%の農家が農地の87%を持っていたのならば、軍閥や土司からの重税を負担せざるを得なかったとしても、この地方には自営農民が広範に存在したことになる。
アムドでは社会の基礎は集落共同体であった。集落首長や長老会が慣習法によって灌漑用水や放牧の管理、他集落との紛争とその調停、集落内の裁判などを行い、軍閥政府や土司のために徴税もした。彼らの多くは世襲だったが、輪番や選挙で選ぶ地域もあった。
地方の寺院は土司とともに統治者であり、地主であり、高利貸でもあった。高僧は農牧民の崇拝の対象であり、寺院はときには窮民を救い、農牧民の悩みや訴えを聞き、民衆の精神的よりどころにもなっていた。
中国では通常、かつてのチベット人社会を「奴隷制遺制をともなう農奴制社会」と一括する。封建制を「現物地代と経済外的強制」とみなし、家内奴隷の存在を勘定に入れると、そういいたくなるのであろう。
中共軍はどのような軍隊だったか
中共軍は軍紀が厳格で、民衆のものを略奪したり暴行したりすることはなかったといわれている。だが、1935年「長征」途上、四川省北部を通過した紅軍(=中共軍)司令官徐向前の部隊について、范長江(1909~70)のルポルタージュには、次のような記述がある。
「(中覇の町は)平常は3万内外の人口があって、百物雲集し、取引はなはだ盛んである。徐向前は今年中覇を通った時、中覇の貨物を全部、一物も残さず略奪してしまった。記者の行った時は、最近逃げ帰ったごく少数の商人が、簡単な商売をやっているキリで、息が詰まるほどの寂れ方だ(注:中覇の覇は土へんがつく)」
「農民のうち、一部の壮丁(成年男子)は徐向前に徴発されて行き、他はおおむね逃亡して、家に帰ったものは絶えて少ない」
「朱(徳)・毛(沢東)・徐向前等共産軍の糧食は胡(宗南)軍以上に困窮していたけれども、彼らは直接徴発の手段に出て当座を凌いだ。チベット人もこれには如何ともできなかった」(松枝茂雄訳『中国の西北角』 筑摩叢書、原書は1938年出版))
「長征」から14年ののちの1949年、中共軍はふたたびチベット人地域に進攻した。このとき、チベット人は彼らを「仏の軍隊」として歓迎したといわれ、日本でも権威ある学者らが進攻した中共軍が温和な態度で臨み、「緩やかな社会改革」をしたとしている。
得られた資料を検証すると、これはほとんど間違いであることがわかる。ほとんどというわけは、短期間だが「おだやかな態度」で少数民族に接した事実があるからである。
四川省ニャロン(現新龍)出身のアテンは、インド亡命後にダライ・ラマに面会した時、「進駐した中共軍は強姦や略奪をしなかった。こういう漢人の軍隊をはじめて見た」と語っている。彼はそのおだやかで友好的な態度に感激して中共に接近し、新政権の役人に任命されたのだった。
その後アテンは中共の「民主改革」政策に耐えられなくなって、1958年「カムパ叛乱」に参加し、敗れてインドに逃亡したのではあるが(『中国と戦ったチベット人』日中出版)。
その一方で、中共軍の蛮行の記録がある。
49年毛沢東の建国宣言直前、彭徳懐と習仲勲(習近平の父親)率いる第一野戦軍が蘭州と西寧を制圧すると、次には王震率いる第一兵団がイスラム教諸宗派のモスクが集まる臨夏(河州)に進攻した。10月当地に到達するや、臨夏の「金持」に対し過度の量の食料供出を命じ、応じないと身柄を拘束した。また国民党系の回族(ムスリムの漢人)に無条件降伏を求め、民衆の銃を強制的に取り上げた。さらに国民党軍回族の「犯罪者」を多数拘束し、捕虜を(指を切るなどの)肉刑に処したり殺したりした。
このため臨夏に起きた反乱は、参加者1万人近くに及び、死傷した漢回大衆は1000人余、住居を失って流浪したもの10万余、被害大衆は30~40万人だったと伝えられる(『甘粛統戦史要』)。
現甘南蔵族自治州夏河県にはラブラン大僧院がある。ここを占領したのもやはり王震部隊の一部である。彼らも進駐するや、チベット人に対して過大な食料の供出を要求し、これを渋ると殴打などの暴行に及んだ。また将兵は買春、収賄、没収した黄金・アヘン・銃などの私蔵や隠匿、銃や物資の横流しに走り、裁判抜きで人を銃殺し、有夫の婦人を横取りするなど、臨夏の部隊と同じような非行をやってのけた。
これに反発した僧侶と農牧民は食料供出などを拒否し、中共軍通訳や中共の手足となったチベット人を殺すなどの挙に出た(『中共夏河県党史資料』)。
王震部隊の非行が例外か否か断定は難しい。だが戦略物資の現地調達を原則とした軍隊がやることは、どこの国のどの部隊でも同じである。
1952年になって毛沢東は、少数民族の宗教・風俗習慣を尊重せよ、命令主義は厳禁するといい、「(地主階級の反動思想であり、かつ少数民族を侮蔑・差別する)大漢民族主義に反対せよ」と発言した。漢人の「幹部特殊化風」つまり少数民族に対する漢人幹部や軍将兵の横暴が目に余ったからであろう。この軍隊が上記のような社会に進攻した時どうなるか。(つづく)
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