廣松渉没後25周年によせて その1
- 2019年 11月 10日
- 評論・紹介・意見
- ブルマン!だよね廣松渉
廣松死してはや25年、関連してこの間いくつかの講演会が催されたようだが、私が見る限り廣松をただ消費するに終始しているように受け止めるほかない。今や廣松も「信者」たちがあれこれと解釈を垂れる「経典」と化しているのではないか。廣松はこれをどう批評するだろうか。「お前達な、俺があの世に行ってとっくに25年もたっているのに、いまだに俺の周りをうろついて、いったい今まで何していたんだ?!」とでも毒づく廣松の声が聞こえてくるようだ。いまだプロレタリア世界革命ならず!おっとと、私も黄泉の国から永山則夫を呼び出し語らせて悦に入っている、自称廣松一番弟子、ナルシスト系霊媒師の某君のようだ(獏藁)。
25年は短い期間のようでもあるが、昨今の世界の流動化加速度感からすれば、かつての1世紀にも相当する時間が流れていると感じるのは私一人だろうか。
私自身はこんたびのどの集まりにも都合がつかず参加叶わなかったが、現代史研が20周年に開催した集いには参加して、いくつかの点で廣松の基本的構えについて疑問と批判を申し上げた。
その点については現時点でも全く変更はない。
廣松物象化論では、まずある特定の社会関係内部にいるものは、その特定の社会を根底的に規定する協働連関態にからめとられ、それを相対化することが出来ずに、物象的自然秩序とみなす事態が必然化するというのだが、とすれば廣松自身はいかにして自らの物象化論を根拠づけるのか、そこがパラドックス化しているのではないか、廣松は自分だけは(マルクス大先生と並んで)そうした物象化的倒錯視を見通すことのできる特権的位置にあると、言ってみれば「神の視点」を採っているのではないのか、それが第一の疑問と批判である。このことを廣松派と思われる論者に何度か問いかけたが、明快な回答は依然としてえられていない。
廣松批判に血道をあげている「マルクスの物象化」の著者である佐々木隆治は、横レス的にそうした物象化批判は「哲学的認識批判」であって、マルクスは「哲学」の閉域から脱却している。だからそうした物象化的な錯視に陥らないように「自覚して」日々実践するのだと、こうした疑問と批判自体を切って捨てて見せる。「自覚」と「実践」で消去できるような物象化ならまったく世話がないだろうに。「赤信号みんなで渡れば怖くない」とどれほどの径庭があるというのか。
これを批判その1とすれば、その2は、直ちに廣松物象化論では、特定社会の内部からかかる協働連関関係を自覚的に突破変革する主体を説き得なくなる、その点に関してだ。
(つづく)
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〔opinion9165:191110〕
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