青山森人の東チモールだより…鎮魂の季節
- 2019年 11月 16日
- 評論・紹介・意見
- 青山森人
東チモールの“お盆”
日本では11月3日「文化の日」が日曜日に重なったため 11 月最初の週末は二日間以上の連休にな ったことでしょう。東チモールでも 10 月 31 日(木)から11月3日(日)まで、4日間の連休となり ました。11 月2日が「マテビアンの日」と呼ばれる、日本の「お盆」のような日となっており、4日間 の“お盆休み”となったわけです。
「マテビアンの日」という呼び名ですが、「マテビアン」(Matebien,テトゥン語で[死者の魂][聖な る魂])がポルトガル語の「死者、故人」を表わす finado のテトゥン語式表記 finadu がとってかわって 使われ、「死者の日」という呼ばれ方がされる傾向があります(あれ~、昔からそうだったかな?) 。こ の傾向には抵抗を感じます。ポルトガル語の finado に「魂」の意味が含まれるなら話は別ですが、「死 者の日」では味気が無さすぎます。Matebien は山の名前にもなっている重要な固有名詞ですから、 Matebien を用いて「マテビアンの日」(死者の魂の日)という厳かな呼び方が相応しいと思います。
それはそうと、日本の「お盆休み」のように東チモールの“マテビアン連休”でも、大勢の首都の住
民は墓参りをするために故郷・出身地に帰省するため、首都がスッキリと閑静なただずまいをみせます。
この連休中、日中の非常に暑い時間帯に外を出歩いても、自動車や人の往来が極端に少なくなった環境 では、涼しさを感じるほどでした。
パルミラ母さんの墓参り
拙著『東チモール 未完の肖像』(社会評論社、2010 年5月)の最終部で、わたしの最初の下宿先で あった家のパルミラ母さんが 2009 年2月に亡くなったことを描きましたが、今年「マテビアンの日」 にわたしはパルミラ母さんの墓参りをしました。墓は「サンタクルス墓地」にあります。同拙著でも登
場したパルミラ母さんの三男・エウゼビオ君と一緒です。エウゼビオ君は「サンタクルスの虐殺」の生 存者でもあり、自嘲気味に「死に損ない」と自称します。
”お盆休み”で極端に人口が減って閑散とする首都ディリ(デリ、Dili)ですが、例外的に「サンタ クルス墓地」周辺は墓参りをする人びとで賑わっていました。警察によって車両規制がかけられていた
「墓地」入り口付近には屋台が連立していました。「墓地」内にある小さな礼拝堂で祈りを捧げる聖職 者の声が拡声器で流れていたので、この音がとりわけ「墓地」周辺の賑やかさを演出していました。
パルミラ母さんの柩が「サンタクルス墓地」に埋葬された 10 年前と比べ、あきらかに「墓地」は墓
のすし詰め状態になっています。パルミラ母さんのお墓にはもう一体、パルミラさんの姉妹の柩が埋め
られています。埋めるといっても場所が不足しているので、二段ベッドのように柩が重ねられており、
地上に出る”上段”の柩はセンメントとタイルで覆われます。欧米の映画やテレビドラマでよく見る墓
地では、墓碑銘が刻まれる墓石は地中に埋められる柩の出し入れの妨げにならず、土を掘り返せば遺体
を回収できDNA検査ができるようですが、東チモールではそのようなわけにはいきません。もし遺体 を検査するとなれば、土を掘り返すまえに”墓石”を取り壊さなければなりません。
ともかく「サンタクルス墓地」は2~3年前すでに飽和状態になり、現在は新しい柩が埋葬されない
墓地となっています。普通に歩ける空間は正門から小さな礼拝堂につづく小路までのわずかな空間だけ
で、目当ての墓に辿り着くには、他人様の墓を踏むなどという罰当たりなまねはできませんから、墓と 墓のわずかな隙間に足場を見つけながらゆっくり歩かなければならないのです。
したがってもし現在のこの密集状態で「サンタクルスの虐殺」が起こったら、ビデオ映像で見られる ように(you tube で見ることがきる)若者たちは、正門から小さな礼拝堂につづく小路から隠れるため の墓へ向かって走ることはできないと思います。銃弾から逃れるために狭い正門に殺到した若者たちは
当然のごとく狭い正門を塞いでしまうことになります。現在の「サンタクルス墓地」ならばこれと似た ようなことが、正門から小さな礼拝堂につづく小路と墓石密集地の境目で発生したことでしょう。
「サンタクルス墓地」前に屋台が立ち並ぶ。 TVニュースで、売り上げは去年と比べて低いと店主が語っていた。 消費者の財布のひもを固くするのは政治的袋小路か? 2019 年 11 月2日、ⒸAoyama Morito.
墓参りを終えた家族は余った花やローソクを最後ここに投げる。迎え火と送り火が一緒になった炎だろ うか。 2019 年 11 月2日、ⒸAoyama Morito.
正門から小さな礼拝堂につづく小路。28 年前、銃弾を避ける若者たちがこんなに狭い門に殺到した。 2019 年 11 月2日、ⒸAoyama Morito.
28年目の「サンタクルスの虐殺」の日
今年 2019 年は、独立を決めた住民投票と多国籍軍が上陸した 1999 年から 20 年目、ローマ法王によ る東チモール訪問から 30 年目、そして世間ではほとんど語られない「ビケケ・ウアトラリ・ウアトカ ルバウの反乱と虐殺」から 60 年目、と歴史的な出来事に切りのよい数字がついてまわる年となってい ます。しかし「サンタクルスの虐殺」が起こったのは 28 年前の 11 月 12 日、これには0で終わる十進 法の数字はつきません。
11 月初旬の「マテビエンの日」から 11 月 12 日へとつながるこの時期は、死者への魂とくに解放闘 争に身を捧げた“殉教者”にたいする想いを一層強くする季節となっています。
1991 年 11 月 12 日、朝8時前、インドネシア軍に殺害された若者セバスチャン=ゴメスの死を悼むた め、モタエル教会から「サンタクルス墓地」への大行進が始まりました。行進に参加したのは子供とい
っていい血気盛んな大勢の若者たちです。ゆっくり歩くことなんてかったるくてできないのか、小走り に走りながら行進したので目的地までは1時間もかからず、約 50 分で着いたと当時の行進参加者がい います。
2019 年 11 月 12 日、モタエル教会で追悼ミサが終了したあと、9時 20 分ごろ、当時と同じコースを 歩く行進が始まりました。老若男女を問わず大勢の人が参加しました。太鼓をたたき、旗をもつ民族衣
装をまとった若者たちが行進の先頭をとったので、歩みは当然ながらゆっくりとなります(本来の行進 らしく)。この歩みで、「サンタクルス墓地」まで約 70 分かかりました。若者たちが小走りに走りなが ら行進したならば、なるほど確かに 50 分ほどしかかからなかったことはうなずけます。
それにしてもこの 70 分はきつかった。日中の強烈な陽射しが頭上からそしてアスファルトに反射し て足元のから容赦なく身体にそそがれたからです。たぶんこの照り返しの熱は当時にはなかったのでは ないでしょうか。あったのは自由を希求する熱のみだったことでしょう。
「サンタクスル墓地」の前には式典のためにステージが設置され、11 時半にルオロ大統領が黙祷の指揮 をとり、そのあと一連の演説と続きます。お決まりのパターンです。一部のお偉いさんだけが仮設テン
トの日陰で柔らかな椅子にふんぞり返って座り、「虐殺」の遺族にたいしてさえも日陰の席は僅かにし
か準備しておらず、ほとんどの人は炎天下の陽射しにさらされながら立たなくてはならない式典会場の 設置の仕方には大いなる疑問が残ります。インターネット報道機関 Tempo Timor(テンポチモール)は、 多くの遺族が炎天下に立たされる不備な会場にもかかわらず、この日の行事に 15 万 3000 ドルもかけて いると不効率なお金を使い方を暗に批判しています。一部のお偉いさん方がふんぞり返って出席する式 典を見るたびに、指導者たちと民衆の絶望的な溝を感じてしまいます。
28 年前を回顧する行進の先頭部。東チモール国旗と解放軍(FALINTIL)の旗は当然として、ポルトガ ル国旗(写真、右)の存在がちょっと理解に苦しむ。 2019 年 11 月 12日、ⒸAoyama Morito.
行進の後尾部。この行進を遮るものは何もない。陽射しを遮るものも何もない。 2019 年 11 月 12日、ⒸAoyama Morito.
青山森人の東チモールだより 第403号(2019年11月13日)より
青山森人 e-mail: aoyamamorito@yahoo.com
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9183:191116〕
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