明治維新の近代・16 : 「戦没学生の手記」と日中戦争ー『きけわだつみのこえ』『夜の春雷』を読む
- 2019年 12月 24日
- スタディルーム
- 『きけわだつみのこえ』子安宣邦戦没学生
泥濘は果てしない曠野を伸び
丘をのぼり林を抜け
それは俺達の暗愁のやうに長い
田辺利宏「従軍詩集」
1 「戦没学生の手記」
東大戦没学生の手記『はるかなる山河に』が刊行されたのは昭和22年(1947)11月であった。私がこれを記憶しているのは、当時中学3年であったわれわれの教室に臨時教員として来ていた東大生が刊行されたばかりのこの本をもって現れ、強い思いをこめてこの書を紹介したからである。この『はるかなる山河に』の続編として日本戦没学生の手記『きけわだつにのこえ』は昭和24年10月に刊行された。この書の編集顧問であった渡辺一夫はその序(「感想」)で、「僕は、出版部の人が苦心してガリ版にされた分厚い原稿を机の上に置き、二三枚読んだ時、黒い野原一杯に整然と並んだ白い十字架を見た。そして読んでゆくうちに、その白い十字架の一つ一つから、赤い血が、苦しげに滲み出るのを見た。このやうな十字架は、二度と立ててはならぬ筈である。たとへ、一基でも」[1]と書いている。渡辺が見たのは彼の教え子たちの十字架であろう。私たちが見たのは十歳ほど年長の兄たちの十字架であった。
『きけわだつみのこえ』に代表される「戦没学生の手記」を戦後のわれわれは、戦没学生がわれわれに残していった〈遺書〉として読んでいった。手紙・手記・日記として残された〈遺書〉に、彼ら戦没学生たちの遺念を読みとり、それを受け継ごうとした。あるいは彼らの発しえなかった言葉を聞きとろうとした。渡辺一夫があの「感想」の文末に訳して載せたジャン・タルジューの短詩は、「戦没学生の手記」に対してとったわれわれの姿勢を美しい、簡潔な言葉で示していた。あるいはこの詩が彼らの「手記」に対するわれわれの姿勢を決めていったといってもよい。
死んだ人々は、還ってこない以上、生き残った人々は、何が判ればいい?
死んだ人々には、慨く術もない以上、生き残った人々は、誰のこと、何を、慨いたらいい?
死んだ人々は、もはや黙って居られぬ以上、生き残った人々は沈黙を守るべきなのか?
「生き残った人々は沈黙を守るべきなのか」という問いかけとともに、われわれは「戦没学生の手記」を受け取ったのである。戦没学生たちを兄たちの世代としてもつわれわれにとって、反戦の意志表示としての行動が、あの問いかけの答えとしてあった。1949年初版の『きけわだつみのこえ』をわれわれは戦没学生の〈遺書〉として受け取ったのである。初版『きけわだつみのこえ』という書は、戦没学生の遺念として〈平和〉へのメッセージを伝えようとした編者と、〈反戦〉の姿勢をもって彼らの遺志を受け取ろうとした読者とによって成立した書だと私は思っている[2]
「戦没学生の手記」を生き残ったものへの〈遺書〉としての性格だけで見ることに疑問が出されてきたのは、1960年代にいたってである。戦争からすでに15年を経た時間と時代とが、日本の戦争を主観的な受難の相をこえて見ることを可能にし、またそれを促したのである。アジアに対する、ことに中国に対する戦争責任論を放り出したまま日本は、再び加害の側に身を置きつつあるのではないか。それはベトナム戦争が日本に突きつけた問題でもあった。『きけわだつみのこえ』第二集の編集に向けての日本戦没学生記念会の活動を動機づけたものはそこにあった。第二集はまず『戦没学生の遺書にみる15年戦争』[3]として実現された。その書の「あとがき」には、この新たな遺稿集の編集に携わったものの立場がこうのべられている。
「新しいこの遺稿集は、戦争の進行に伴う国家政策の変更と国民生活の逼迫の推移をえがき出し、それと対応して国民ひとりひとりの生き方がどのように変貌し、また変貌をしいられていったかを提示するものでなければならないであろう。要するに、強さも弱さも含めて戦争下日本人の生活と感情と思想ーーその総体が戦争体験と呼ばれるーーを、十五年戦争の客観的な推移と関連してとらえうるものとすること、これが・・・本書を編集するにあたってのわれわれの基本的立場であった。」
「戦没学生の手記」は「強さも弱さも含めて戦争下日本人の生活と感情と思想」を、すなわち日本人の「戦争体験」を知らせる〈記録〉としてあらねばならないとされるのだ。そして戦没学生とはそれを記すに足る知性と感性とを具えた選ばれた人びとである。時代の矛盾も圧力も、人びとがもった偽りの希望も絶望も、彼らによってもっともよく伝えられるだろうし、伝えられたはずである。こうして『第二集・きけわだつみのこえ』(岩波文庫・1988)が刊行され、『新版・きけわだつみのこえ』(岩波文庫、1995)が編集し直されていった。「戦没学生の手記」はいまその精神の強さ、弱さを含めて、戦場や兵営・病床、あるいは戦犯の獄舎における彼らによる戦争体験の〈記録〉という事実の重さによって再び編まれ、読まれるものとなったのである。この〈新版〉から見るとき、〈初版〉は敗戦後日本によって創出された〈遺書〉という性格を免れがたくもったものであることが明らかになる。〈初版〉冒頭に掲げられた上原良司の遺書自体がすでに編集者によるハサミの入った文章であった。
私が「戦没学生の手記」によって日中戦争という昭和の戦争体験を見ようとするのも、この「手記」を大陸における戦争体験の〈記録〉という事実の重さに立った〈新版〉編集の立場に同調してである。
2 日中戦争は「支那事変」であった
昭和の戦争とは基本的には中国との、中国大陸における戦争であった。だがほとんどの日本人はそのように思っていない。昭和の戦争とは太平洋におけるアメリカやイギリスに対する戦争であったと考えている。事実、アメリカは広島、長崎に原爆を投下し、日本の殆どの都市を焼き尽くしたし、日本を占領し、その戦後処理に当たったのもアメリカであった。だから敗戦にいたる日本の戦争はアメリカに対するものであったと考えるのは当然ともいえる。だが15年戦争といい、いまではアジア・太平洋戦争という昭和の戦争の歴史過程を少しでも見るならば、昭和の戦争とはまぎれもなく中国との、中国大陸における戦争であり、そして終えることのできないその戦争の最終処理を日本は米英との戦争(世界大戦)に委ねていったことを知るはずである。だが昭和の戦争にほかならない日中戦争について、昭和の戦争過程にあったその時期から〈戦争〉だという自覚を国民はもっていなかった。日中戦争とは宣戦の布告なしの戦争、誰に対して、またいかなる理由による戦争であるかも不明確な戦争であった。それは「支那事変」と呼ばれ、〈戦争〉ではなく〈事変〉であり続けたのである。
昭和16年12月8日の大東亜戦争の開戦時、私は小学校の3年生であった。開戦と真珠湾攻撃の臨時ニュースをその口調とともによく覚えている。その翌年、4年生の時、子供の目にはかなり年配の婦人と見えた担任の先生が、「日本は長い戦争をしています」というのを聞いて不思議に思った。戦争は始まったばかりと私は思っていたのである。たしかに大陸で兵士たちが〈事変〉に従軍していることを知っていたし、南京陥落の旗行列も少年の記憶にはあった。だがそれらを日本の戦争として考えることをしなかった。少年だけがそうであったのではない。私の周辺の大人たちもそうであった。昭和16年の開戦の衝撃と感動とを多くの人たちが語った。開戦直後の新聞・雑誌はその感動を語る言葉で埋め尽くされている。人びとは「支那事変」がもたらしてきた鬱屈がこの開戦によって一気に晴らされたかのような感動を味わったのである。大陸における〈戦争〉という事態を隠蔽し、それに直面することを避けて〈事変〉とし続けた日本人は、その〈事変〉から心理的にも重い負担をもち続けていたのである。日中戦争とは日本人にとって「支那事変」という自己欺瞞の戦争であった。
いま昭和の戦争が何よりも中国大陸におけるものであったことを数字をもっていおう。1941年(昭和16年)に中国本土に投入された日本陸軍の兵力数は約138万名であった。それは当時の陸軍の総動員数の65%に当たる。この時、日本本土に在置する兵力は約56万5千名であり、全兵力の27%であった。太平洋戦争の開戦後、南方戦線の兵力数が中国戦線の兵力数に上回るのは1944年(昭和19年)にいたってである。それでもなお126万の兵力が中国戦線に投入されていた。だが大陸における戦局の悪化にともない国内兵力が動員され、敗戦の1945年には中国戦線における兵力数は164万となり、南方戦線の兵力数を34万も上回ることとなった。ここに挙げた数字は纐纈厚の『日本は支那をみくびりたり』[4]によっている。纐纈はこれらの数字を挙げた後、こういっている。「要するに、中国戦線の比重は日本の敗戦時まで、一貫して極めて大きく、日本軍は泥沼化した中国戦線で足を取られ、兵力も国力も消耗を強いられていたのである。・・・「勝利なき戦い」を一貫して強いられるなかで、時間の経過とともに国力の限界点を超え、ただひたすら現状を維持するのに汲々としていたのである。」
3 日中戦期の二つの作品
昭和の戦争とは本質的に中国における戦争であり、敗戦とはその戦争による日本の挫折であることを、日本人は直視することをしなかった。昭和前期のその当時においてそうであり、戦後においてもそうである。それゆえわれわれはこの戦争の実態についての日本人によるドキュメンタリーも文学的形象というべきものをもっていない。わずかに石川達三が『生きてゐる兵隊』で戦線の日本兵士による残虐を小説に描いた。それは『中央公論』の昭和13年3月号に発表されたが、即時に発売禁止の処分を受けた。石川は火野葦平のように兵士として従軍した作家ではない。彼は昭和12年12月に中央公論社から派遣されて、従軍記者の腕章ひとつをたよりに日本軍に攻略された南京に向かった。南京の陥落は12月13日であるが、石川が上海から鉄道で南京に入ったのは翌年の1月であった。したがって彼はいわゆる〈南京事件〉という惨虐が大規模になされた場面を直接には見ていない。だが石川は惨虐事件後というよりは、その末期の南京に従軍記者として足を踏み入れたのである。彼は〈南京事件〉に関与したとされる第16師団第33聯隊をもっぱら取材し、市内外の戦後の惨状を視察した。石川は1月中旬には帰国し、直ちに執筆を始め、2月11日の未明までに330枚の原稿を仕上げたという。それが『生きてゐる兵隊』である。われわれが戦後にえた日中戦争と南京攻略戦における日本軍の惨虐をめぐる知識によって『生きてゐる兵隊』を読むとき、この小説における兵士たちの行き着く先には必ずや〈南京事件〉があることを知るのである。石川は〈南京事件〉を、南京攻略に向けての戦争過程における日本軍の惨虐事件として小説中に表現し、あるいは再現させているように思われる[5]。この「生きてゐる兵隊」を載せた『中央公論』昭和13年3月号は発刊とともに発売禁止の処分を受けたゆえ、この小説が戦中の国民に読まれることはなかった。
火野葦平は作家として従軍したわけではない。軍は昭和13年3月に芥川賞を受賞した作家火野に玉井勝則伍長のまま火野葦平であることを命じたのである。火野は昭和13年5月の徐州会戦に玉井伍長として従軍したのである。かくて彼は兵隊として行軍し、兵隊として疲労し、兵隊として戦闘の中にい、兵隊として辛うじて生き延びたのである。彼はそれを記録し、従軍日記『麦と兵隊』として発表した。これは兵隊であるものの戦争・戦場の実体験的記録として大きな反響をもって国民に迎えられた。『麦と兵隊』は『改造』(昭和13年8月)に発表され、直ぐに単行本としても刊行され、百万部をこえる空前のベストセラーとなった。火野の「年譜」[6]を見ると昭和12年の項に「十一月五日、第十八師団は杭州湾北沙に敵前上陸、南京入城後、年末杭州に入城して駐留した」とある。これによれば火野は〈事件〉の生起する南京に入城したとみなされる。だが彼の書くものに〈事件〉を思わせる痕跡はどこにもない。戦争が刻む負の痕跡は戦争の意味を問いつけるものであるだろう。火野はただ戦争を与えられた生の場として黙々として生きる兵隊の姿を綴っていくのである。なぜかくも苛酷な行軍を、どこに向かって、何のためにするのかを問うこともなく、自分の足のようではなくなった足でひたすら歩き続ける兵隊たちがそこにあるのである。杉山平助は「戦場の経験を持たず、大陸の野で同胞がどう戦つてゐるかを知りたがつてゐた国民は、火野によつてはじめて、そして最も傑れた戦場の実感の記録を得た」[7]と文学史に記している。私がここで日中戦争をめぐる二つの文学的表象あるいは記録を見たのは、「戦没学生の手記」というもう一つの記録を読むための準備としてである[8]。
4 「泥濘」
私は『新版・きけわだつみのこえ』の第1章「日中戦争期」を読んでいった。昭和14年に華中で戦病死した目黒晃は、「これから船に乗ってどこに行くのか、全然私どもには解りません。何してもただ命あるままに、大君のみことのままに進むだけの事です」と父親宛に書いている。どこに行くのか、どこに連れられていくのか、まったく解らないとは、ことにこの時期の中国戦線に従軍した兵士たちが一様に抱かざるをえなかった感想であろう。すでに中国における戦争自体がまったく見通しを失っていたのである。浜田忠秀も昭和17年に、「はるばる杭州までの悪路を考える時「何でもいい、このままここで果ててしまいたい」これもまた赤裸々な気持ち」と書き留めている。これもまた中国大陸における戦いの苛酷な実状をいっている。その戦いは果てしない悪路の行軍であった。ほぼ同じ時期に私の兄も杭州で戦病死した。私は浜田の手記を読みながら、兄の姿を投影させた。果てしない悪路の行軍という大陸における戦争の苛酷な実状は、田辺利宏のあの「泥濘」の詩に結晶された表現を見出すことになる。
寒い泥濘である。
泥濘は果てしない曠野を伸び
丘をのぼり林を抜け
それは俺たちの暗愁のやうに長い。
・ ・・・・
愛と美しいものに見離されて
ただひたすらに地の果てに向い
大行軍は泥濘の中に消える。
ながい悪夢のやうな大行列は
誰からも忘れられて夜の中に消えるのだ。
私は田辺のこの「泥濘」の詩が中国における戦争とそれに従事した兵士たちの実状をもっとも感銘深く伝えるものと見てきた。〈初版〉を読んだ時にそう思い、〈新版〉を再読してあらためてそのことを確認した。もちろん〈新版〉には篠崎二郎の「支那の戦線に来て、抗日思想の根強さ、第三国の経済的援助と野心に、今さら驚きました」の認識があり、上村元夫の「まさしく何時まで経っても、もう、早く戦さが終って欲しいなどと思うものは一人もいない。終りっこないのだから。何時かは何時の日にかは、漢民族の復讐にわれわれの子孫は泣くようなことになるであろう」という、「支那事変六周年記念日」に当たってのどきっとするような、〈初版〉が削る記述がある。それでも「泥濘」だけが、兵士において体験されたあの戦争の実状を確かにわれわれに伝える唯一のものだという私の印象に変わりはなかった。だが〈新版〉は「泥濘」の詩をわれわれに残した兵士田辺利宏に「戦線日記」があることを教えている。それは「泥濘」の詩が、そして田辺の名を多くの人びとに刻んだ「夜の春雷」「雪の夜」の詩が、中国戦線のいかなる地帯から、従軍する兵士のいかなる境遇から生み出されたかを教えるものである。
5 「戦線日記」
私は田辺の「戦線日記」を「従軍詩集」とともに一冊に編集した『夜の春雷』[9]を書棚から探し出した。私はかつてこれを詩集として読んでも、詩人でもある従軍兵士の戦線における「私の記録(日記)」としては読んでいなかった。私はあらためてこれをあの詩を生み出した兵士の戦線における記録として読んでいった。
田辺の「戦線日記」は昭和14年(1939)12月の蘇州兵站における記録に始まり、昭和15年(1940)4月から5月にかけての皖南(かんなん)作戦、さらにその年の9月にいたる宜昌作戦、そして10月の江南作戦、その年の年末にいたる漢水作戦、翌昭和16年(1941)1月から3月にかけての予南作戦の従軍の記録が書き継がれ、そして徐州を経て淮陰(わいいん)に移駐した同年8月9日の記入をもって「日記」は終わっている。8月24日に田辺は戦死した。彼はこれらの作戦に従軍した過程で3度も南京を出入りし、3度にわたって揚子江を溯った。大別山脈を越える山岳地帯の作戦にも従った。長い悪路を往きては戻り、また往くといった作戦に従うことで兵士たちはひたすら身心を消耗させた。そして虚無の人となった。
昭和15年6月16日(宜昌作戦)
インターヴァル
一枚のアンペラの上に坐し
徴発した支那酒をのむわが目に
何のイデーもなく意志もなく思い出もなく
自己すらもない。
すぎゆく時間と蠅の繁殖。
されば我も亦一人の午睡者となり
この大きな倦怠を消耗してゆくだけだ。
6月21日
今日はまったくの泥濘だ。三たび漢水を渡り前線にむかう。泥濘の深さ、長さ。死を賭しての前進。・・・渡河後まもなく、避難民がいたりする。前線へ。道程のための道程。われわれは軍旗のうしろにいる。
7月2日
夕蝉が松林に鳴いている。熱い足のうら。戦争への倦怠と厭悪。夕焼空。茫々と果てしない大陸を、われわれは一体どこまで歩いたら帰れるのだろう。平和と文明というものの美しさが、故郷のようにしたわれる。さてこれから一眠りだ。
7月3日
塩をかけての夕飯。夜行軍。・・・はじめのうちは何事もなかったが、はたして敵は射ってくる。しかしわれわれは、べつに止まりもせず、疲れはてた強行軍。途中、小雨まで降り、馬にひきずられ幾度か闇のなかをすべりころぶ。まったく絶望的な気持ちだ。歩いても歩いても目的地は来ず、水はとうになくなったが、補給もできない。
死の人足
俺達は濁流を泳ぐやうに
闇の中を進んだ。
敵火は間断なく夜を引き裂いてゐた。
俺達は全く疲れはて
その音を死の呼声とも思はなかった。
・ ・・
俺達は半ば眠り半ばうごき
果てしない泥と闇の中へ
重い背負袋をかつぎ
死の人足のやうに進んだ。
昭和15年11月2日(漢水作戦)
南京出発。またもや重い荷を負い埠頭へ。・・・岸壁には砲軍がならび、歩哨が立って警戒している。われわれの意志からではなく、軍の大きな意志によって、われわれはどこへでも、荷物のように運搬されてゆく。だから、目的地につくあいだというものは、われわれの精神というものはどこか空白である。
遡江
三たび揚子江をのぼり
三たび戦線に向ふ。
満々たる濁流にさからひ
溷濁した意識を越え
前進とは何といふ勇ましく寂しいことだ。
待ちまうけてゐるものは
荒野千里の晩秋である。
・・・
昭和16年3月6日(予南作戦)
自分というものの最近のくだらなさ。decadenceでもなく苦悩でもなく、死滅でもない。消耗品として、まったくいいかげんの給養をうけながら戦争のintervalを生きているというだけの生き方である。酒も煙草もほしいとは思わない。大きな倦怠と、精神の疲労。
3月10日
昨日は下痢をしに例の吊便所へ出てゆくと、揚子江は雨である。おまけに凄い雷雨だ。春雨というにはあまりに豪壮な感じだ。
夜の春雷
はげしい夜の春雷である。
鉄板を打つ青白い電光の中に
俺がひとり石像のやうに立ってゐる。
・・・
共に氷りついた飯を食ひ
氷片の流れる川をわたり
吹雪の山脈を越えて頑敵と戦ひ
今日まで前進しつづけた友を
今敵中の土の中に埋めてしまったのだ。
はげしい夜の春雷である。
ごうごうたる雷鳴の中から
今俺は彼等の声を聞いてゐる。
・・・
ある者は脳髄を射ち割られ
ある者は胸部を射ち抜かれて
よろめき叫ぶ君達の声は
どろどろと俺の胸を打ち
びたびたと冷たいものを額に通はせる。
黒い夜の貨物船上に
かなしい歴史は空から降る。
明るい三月の曙のまだ来ぬ中に
夜の春雷よ、遠くへかへれ。
友を拉して遠くへかへれ。
この「戦線日記」にあるのはただ悪夢のごとき泥濘中の果てしない行軍である。どこまで、何を目的にこの悪路を重荷を負って歩かなければならないのか、彼らには何も知らされていなかった。そして戦いがあり、倒れた友を土中に埋めて彼らは揚子江を戻っていった。悪路を再び往くためのインターヴァルとして彼らは原駐屯地に戻った。これが華中における戦争であった。
昭和14年(1939)の中国大陸における戦争指導は、次期国際転機(第2次世界大戦)に備えるために、占領地域の拡大をはかることなく、作戦地域を限定し、兵力を節減しながら治安の回復と資源の獲得をはかることであったと精細に中国における15年戦争の過程を記した古屋哲夫[10]はいっている。ここから作戦は、(1)蒙彊・華北・華中東部では治安の回復と維持、(2)武漢・九江方面では、国民政府中央軍の抗戦企図の撃破、(3)華南では補給路の遮断であった。(2)の作戦とは、反攻のために集結した中国軍に打撃を加えて原駐屯地に戻る形のものであったという。恐らく田辺たちが従った作戦とは(2)の作戦に属するものであったのであろう。田辺の「戦線日記」を読みながら私は、悪路を往っては帰り、また出かけては戻りして疲労する兵士たちの姿を見て、これはいったいいかなる戦争なのかと怪訝に思った。中国軍に打撃を与え、重慶の国民政府の戦争意欲を失わせることを目的にしたこの作戦の結果、消耗していったのはただ日本軍であったのである。中国戦線の日本軍は点と線とを確保するのみであったという。だが田辺の日記を見れば、点である都市のすぐ背後に中国軍(中共軍か)が出没し、攻撃を加えていたことを知るのである。
田辺たちは何度も長路を行軍し、進軍した。彼らが通り過ぎる路傍に、山野に打ち捨てられ、腐敗した中国兵の死骸が数知れずあった。これもまた「日記」の不思議な記述である。彼らはすでに戦いのあった跡を再び進軍し、彼我の新たな死を重ねていったのである。これはどうしようもない戦争である。日中戦争とはそういう戦争であった。1945年4月の老河口(湖北省西北部)、芷江(しこう)(湖南省西南部)飛行場への攻撃作戦で日本軍は大打撃を被ったという。「日中戦争がこのまま続いていたら、日本軍が態勢を立て直した中国軍に撃破されたであろうことは、この両作戦をみても明らかであった」と古屋はいっている。だが日本は太平洋戦争の敗北としてアジアのことに中国における15年戦争を終えてしまった。
日本の戦後は太平洋戦争の敗北から、もっぱらアメリカとの関係で生み出されたものであって、15年戦争の敗北からアジア・中国との関係において生み出されたものではない。この重い重い帰結をわれわれは現在もまだ引きずっている。
[1]「感想」『きけわだつみのこえー日本戦没学生の手記』東大協同組合出版部、1949.
[2]戦時的体制下に書かれた戦没学生の手記が戦後の社会状況に悪い影響を与えるものであってはならないという方針で、その手記の編集がなされたことは渡辺の「感想」にもいわれている。この編集方針によって手記は、後に「改竄」と非難されるような編集者の手が加えられたことは事実である。
[3]『戦没学生の遺書にみる15年戦争』わだつみ会編、光文社、1963.
[4]纐纈厚『「日本は支那をみくびりたり」ー日中戦争とは何出会ったのか』同時代社、2009。
[5]石川は戦後、彼の事後的見聞における〈南京事件〉を積極的に語っていたが、後年の石川は事後的体験としての〈南京事件〉も、さらに〈南京事件〉そのものをも否定するようになる。
[6]「火野葦平年譜」『尾崎士郎・石川達三・火野葦平集』現代日本文学全集48、筑摩書房。
[8]私はすでに『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社、2012)でこの二つの作品をめぐって詳しく語っている(十一章「日中戦争と文学という証言」)。
[9]田辺利宏『夜の春雷ー一戦没学徒の手記』信貴辰喜編、未来社、1968.
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2019.12.23より許可を得て転載
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〔study1097:191224〕
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