『六四と一九八九』(石井知章・及川淳子編著)を論ず―天安門流血語るべし忘るべからず―
- 2020年 2月 6日
- スタディルーム
- 岩田昌征
石井知章・及川淳子編著『六四と一九八九 習近平帝国とどう向き合うのか』(2020年、白水社)を一読した。令和元年・2019年6月1日に明治大学現代中国研究所が主催した国際シンポジウム「六四・天安門事件を考える」の報告集成である。
私=岩田は、そのシンポジウムに聴講者として出席しており、そこでの議論に関する意見を「ちきゅう座」の「スタディルーム」に発表している。即ち、「北京天安門8964とワルシャワ8964」(令和元年7月6日)と「中国憲政自由主義者は自由を如何に使うのだろうか」(9月13日)である。本書を一読してあらためて気付いた論点をここに記す。
1.共産党の正統性
第一の論点は、中国共産党の正統性問題である。本書第2章胡平論文に言う、「1978年から、中国は・・・、資本主義の傾向を有する経済改革に着手し始めた。・・・。そうした改革は共産党の革命と共産党政権の正統性に対する自己否定を招くことになった。なぜなら、共産党の革命の宗旨は、資本主義を消滅させ、社会主義を建設することであり、共産党が一党独裁を実行する目的は資本主義の復活を防止することだからだ。・・・したがって、この経済改革は共産党の革命と一党独裁を自ら完全なものにするのではなく、根本的な自己否定なのである。」(p.56)
第4章張博樹論文に言う、「天安門事件は現代中国の分水嶺だ。天安門事件での鎮圧はかつて、中国共産党の正統性を空前絶後の危機に陥れた。」(p.150)「天安門事件での危機はまさに、統治者に経済的な実績によって正統性を再構築しなければならないと認識させたことだ。」(p.152)「2010年、中国の国内総生産(GDP)は世界第二位に躍り出て、党=国家は新たな(正統性の)元手を得た。そこで正統性の転換が図られ、『民族の復興』、『大国の台頭』が正統性を支える新たな原動力となった。その次が習近平の『中国の夢』だ。」「今日の紅い帝国の堂々たる出現は、天安門事件の鎮圧後に中共が何度も正統性の転換を繰り返したことによる予期せぬ結果だ。中共政権の生存能力、学習能力と自己調整能力の高さを証明しており、人々はこれらを過小評価しすぎていたのだ。」(p.153)
東ヨーロッパやロシアの共産党にあっては、胡平氏が論述する論理がまともに効いて、その地域の共産党は自己否定⇒自己崩壊を市民革命の演劇空間をみずから演出し、あるいは許容して歴史的役割を閉じた。そこでは、マルクス的社会主義の実現こそが立党の唯一の根拠であったが故だ。
それに対して、アジアの植民地・半植民地の共産党の場合、社会主義建設は結党の本音ではなく、建前であって、民族救亡と独立国家創建こそが本音であった。欧米植民地宗主国の体制イデオロギーが自由主義・リベラリズムであったが故に、植民地・半植民地の民族独立闘争を植民地のリベラリスト的独立運動家は徹底的に闘い抜くことができなかった。宗主国で弾圧される側のマルクス=レーニン主義を採用すれば、欧米や日本と徹底して対抗できる。要するに、アジアの共産党にあっては、マルクス的社会主義は、目的というより手段であった。それ故に、マルクス的社会主義をわきにおいて、資本主義を経済システムの主要ウクラードに設定して、民族救亡の成功をはるかに超えて、旧ソ連とは違った形で、資本主義(超)大国アメリカとEUとに対抗できるようになったのだ。
張博樹氏と胡平氏が中国共産党の正統性危機を自由主義者の立場から批判的に論ずるとき、自由主義・リベラリズムが植民地本国に抵抗する心底からのエトスを生み出すことができなかったという歴史が反省されていない。
さて、共産党=マルクス・レーニン主義党の正統性消滅のロジックについては、「ちきゅう座」の「スタディルーム」(令和元年・2019年12月11日)に発表した私の旧稿「党社会主義の思想と実践―社会主義への移行と資本主義への移行」(2010年・平成22年3月に行った東京国際大学での私の最終講義)の「3.涸渇しきった正統性」、「4.無機的独裁と有機的独裁」、「6.20世紀の遺産としての三角形MPC」を読んで欲しい。そこには、張博樹氏の嘆く「新たな雍正帝を迎えてしまった」(p.153) ような事態をも有機的独裁として示唆してある。
2.私有化の正統性
第二の論点は、国有資産・公有資産の私有化の正統性問題である。この点に関しても、第2章の胡平氏の主張が注目に値する。胡平氏は、ロシア・東欧における私有化が民主的で公平に実施されたが故に正統性あるに対して、中国における私有化は、「六四のために、党内と民間の民主勢力は押さえつけられ、・・・最低限の民主的な参与と公共の監督が不足する状況で行われることになり、そのために権貴私有化[威勢をふるう既得権益集団による私有化]を免れることができず、共産党の役人が私有化してしまった。・・・。私有化の改革は一気に達成され、役人たちはさっと身を翻して地主や資本家になったのだ。」(pp.65-66)
民主的で公平なロシアと東欧の私有化方式は、胡平氏によれば、次の如し。「あらゆる資産を金銭に換算して株式に変え、それからすべての人民が一人一株という具合に分配した。こうした方式のよいところは、とても公平で、誰もがみな受け入れる点だ。・・・。すべての人民に平均的に分け与えることだ。これを大衆私有化という。」(p.65) 「二十数年来、これらの国々では何度も政権交代が行われたが、財産権の配置の結果は公認を得たもので、『再調整』あるいは『一段落した後での総決算』という問題がなかったのだ。」(p.71)
胡平氏が中国における権貴私有化に感じている怒りは、私=岩田のような第三者の観察者にも十分納得できる。しかしながら、ロシア・東欧の私有化を上記のように丸ごと肯定する姿勢には全く同感できない。ここでアメリカのハーヴァード大学ロシア・ユーラシア研究所教授の証言をやや長くなるのをいとわず紹介しよう。ロシアではと胡平氏が肯定的に描いた、「大衆私有化」の実態が暴露されている。
――政府が70年にわたって所有し経営に当たってきた。そこへ突然、首相と国会が決定する。すべてを国有から私有に移すことにする。・・・。国民の一人ひとりがそれぞれに分け前を受け取るというのが理の当然であろう・・・。・・・。実際にはそうはならないで、新しくオーナーになるのが一握りのごく少数の連中だと分かったとき、どんな反応が起きるだろうと。この連中をわたしたちはオリガルヒと呼ぶことにしよう。・・・。かれらのうちすくなからぬ者は、私有化が始まるまえは闇市場で商売をし、あやしげな取引で悪名をあげつつあった。・・・。ほんの15年まえまでは財産とよべるほどのものは何一つもっていなかったこれらオリガルヒのうち、17人が、アメリカの雑誌『フォーブズ』が毎年発表する世界の億万長者リストに突然そろって登場するのである。同時に・・・、国民の三分の一が、一夜にして貧困線以下の生活をするようになる。――(マーシャル・I・ゴールドマン著/鈴木博信訳『強奪されたロシア経済』NHK出版、2003(平成15)年、pp.7-8)
――オリガルヒは、ちょっぴりでも起業家精神を発揮してそんな大金持ちになるのかといえば、そんなことはほとんど何もしないのである。・・・。かれらの富は、所有権を強奪することで手に入れるものなのである。・・・。このじつに少数の人間がじつに豊かで、じつに多数の人間がじつに貧しいという比較的新しい環境のもとで、このプロセス全体にたいしてふかい恨み・つらみの感情が蓄積されていくのは避けようがない。――(p.8)
――かれらがしたことといえば、国有財産―なかでも国の天然資源―の所有権をむしりとって自分のものであると宣言しただけのことであり、それ以上のことはほとんど何もしたわけではない。・・・。オリガルヒが奪取していく獲物―「盗品」といってよい―の膨大さを目のまえにしながらも、ロシアの国民大衆は比較的受け身だった。・・・。だが、おもてむきは受け身に見えるものの、こんにちの平均的ロシア人が私有化の手順がデザインされ実施されたやり口に胸がかき乱され、おさまらない気持ちになっていることに、うたがいはない。そのことは世論調査にも反映されており、70%(ときには90%)もの人が、結果をもとにもどして私有化をやり直すこと、に賛成と回答している。――(p.11)
マーシャル・I・ゴールドマン教授は、エリツィン政権の改革担当者たち、すなわちガイダールとチュバイス、そして「西側からやってきた助言者たち」に責任があるとする。「そんなグロテスクな結果を」もたらすことを意図したものはおそらく一人としていなかっただろうが、しかし、起きたことはかれらに責任がある。」(p.9) 更に、ゴールドマン教授によれば、「私有化担当者の顧問をつとめたアメリカ人のうち二人の主要人物が、じつは私有化にかかわるインサイダー情報を使ってポケットをふくらませていたことが発覚した。(p.175) アメリカの司法当局の提訴、「原告、アメリカ合衆国マサチューセッツ地区裁判所対被告、ハーヴァード・カレッジ総長とフェロー」(p.175)。
本書『六四と一九八九』第八章で矢吹晋は、「天安門事件以後三十年、中国における民主化はなぜ挫折したのか。私は次の三つの要因を指摘した。」(p.259)として、第一に旧ソ連の現実を論じている。「なるほど旧ソ連の人々は、政治的自由は得たが、経済生活は却って貧しくなった。このような解体以後のソ連の政治経済の現実を長い国境線でロシアと接する中国の人々は日常生活の種々の局面から熟知している。こうして彼らは『民主化も悪くはないが、生活が貧しくなるのは困るね』とペレストロイカを切り捨てる。」(p.259)
矢吹氏は、「ペレストロイカ」に焦点を合わせているが、ペレストロイカの延長線上にあるエリツィン政権下、すなわち共産党秩序体制崩壊下、国有資産盗奪闘争の嵐で一挙に貧困化するロシア民衆と一足飛びに超富豪化するオリガルヒとの実像をその頃大量にロシアに入った中国人小商人群衆は自分たちの目で実見していた事を言い忘れている。
私=岩田の仮説であるが、ロシアの私有化は盗奪であり、中国のそれは腐敗であろう。ロシアの場合、既存の国有財産を盗奪し、経済的無政府状況の下で「盗品」を神聖な私有財産であると宣言する。欧米諸国によってその私有財産宣言が黙認・公認される。その次の段階で私有財産が堂々とマーケット・ビジネスに登場する。中国の場合、先ずマーケット・ビジネスのチャンスが在って、それを誰よりも早く有利に実現するために、国有財産の横領に近い私有化が実行される。天安門大流血を断行して、中国共産党秩序体制が維持された。そのような秩序条件下では、ロシアのオリガルヒが実現してきた盗奪タイプの私有財産蓄積は困難であったろう。
マーシャル・I・ゴールドマン教授の著書の主テーマは、「オリガルヒというあの一群の人たち、なかでもソ連時代には権力周辺からはずっと外にいた人びとが、どのようにしてあれほど急速に、あれほど富裕化したのか、についてのいますこし立ち入った説明である。」(p.18ゴシックは岩田) 要するに、盗みの手口の説明である。中国の場合、「権力周辺からはずっと外にいた人びと」は、まず自分の力でビジネス・チャンス、ニッチ需要、新需要を発見し、開発し、財をなし、やがて権貴集団と結託し、国有財産を浸蝕する。盗みではなく、腐敗であろう。道徳的に見て、ともに没倫理にしても、盗奪は腐敗よりも不道徳である。経済成長力から見ても、盗奪は腐敗よりも弱々しい。
3.新自由主義導入の先後
第三の論点は、中国と東欧のどちらが「新自由主義」体制をより早く導入したのか、に関する事実問題である。序章で石井知章氏は、「ポスト1989年で創出された政治経済システムにおいて、まっさきに『新自由主義』体制を導入したのは、『社会主義』体制が崩壊した東欧ではなく、むしろ『血の弾圧』によって専制的権力の基礎をより盤石なものにした『現存する社会主義』、すなわち他でもない一党独裁国家そのものとしての中国だったからである。」(p.19)と主張する。石井氏の事実認識の是非如何によって、序章で展開する岩波書店『思想』〈一九八九〉特集号批判と汪暉批判の根拠の有無が決定される。それ故、これは石井氏にとって重大な問題であろう。
事実は、1990年1月に施行されたポーランドのバルツェロヴィチ・プランとユーゴスラヴィアのマルコヴィチ・プログラムが資本主義志向経済体制へ根本的に歩み出した最初の大改革であった。その当時のIMF専務理事カムデシュスが「あっと息をのむ大胆な」と驚いたほどであった。胡平氏によれば、「『六四』以後の一、二年のうちに、・・・、政治面で資本主義に反対するだけでなく、経済面でも資本主義に反対するようになった。そこで、資本主義の傾向を持った経済改革は停滞に陥り、ひいては後退がみられるようになった。しかし、1992年春、鄧小平が南巡講話を発表すると、経済改革の歩みが加速し、社会主義か資本主義かということは問わなくなった。」(p.61)
社会主義経済から資本主義経済への移行・転形を議論する西側のいわゆる移行経済学において、一挙に全面的に瞬速で体制転換を志す「ビッグバン」や「ショック療法」と一歩一歩段階的に諸々の資本主義的制度を導入すべしとする漸進法とが大別される。ロシア・東欧では「ショック療法」が優勢であって、中国の経済改革は漸進的・段階的転換論の代表的実例とされている。中国が「新自由主義」体制、すなわち、経済生活全般がすべてマーケット法則に依存し、国家の産業政策が排除される経済体制を「まっさきに」(p.19)導入したとする石井氏の主張の実証的根拠を知りたい。そもそも産業政策なしに、中国の高速新幹線網が創建できたであろうか!
4.労働者運動
第四の論点は、天安門事件と労働者運動の関係である。石井知章氏は、第6章において「労働者を巡る民主化」を議論しており、他のすべての本書執筆者が職業政治家や職業知識人に関心を集中させている中で、マルクス思想がクラシカルな生命力を誇っていた時代の美しい残り香をただよわせるかのように下からの自主的な労働者運動を取り上げる。「社会主義中国の成立以来、はじめての自主管理労組である北京労働者自治連合(工自連)の天安門広場での突然の出現(五月十八日)。・・・。すべての職場での合法的な代表者を監督するにとどまらず、労働者の合法的な権益を最終的に保証するために『共産党を監督する』ことを求めつつ、学生主導によるハンストと行動をともにしていたのである(二十五日)。」(p.190)
石井知章氏は、工自連に象徴される「下からの」労働者運動の意味を次のように説く、「これらの論者たちは、世界史的コンテクストで実際に起きた『天安門事件』が、むしろこの『新自由主義』の台頭を未然に抑えるべく、労働者による『下から』の『民主化』を実現し、『新自由主義』ではなく、『社会民主主義』として自らの社会政策を堅実かつ現実的に実現しようとする健全なる『社会運動』に対する『血の弾圧』であったという事実を意図的に隠蔽している。」(p.21) ここに言う「これらの論者たち」とは、「こうした『新左派』を熱心に擁護する日本の歪んだ『進歩的』知識人たち」(p.21)、すなわち岩波書店『思想』〈一九八九〉特集号(2019年10月)の論者たちである。
ここに言う「『社会民主主義』として自らの社会政策を堅実かつ現実的に実現しようとする健全なる『社会運動』」の勝利の歴史的実例が1989年6月4日準自由選挙におけるポーランド自主管理労組「連帯」の完全勝利であり、同年9月における「連帯」主導内閣の成立、そして、1990年末の労働者出身大統領レフ・ワレサの誕生である。私=岩田が「ちきゅう座」の「評論・紹介・意見」欄や「スタディルーム」欄で何回となく書いているように、勝利した「連帯」は、権力掌握の当日からネオリベラル資本主義の方向へ突進して行ったのである、社会民主主義には目もくれずに。
「連帯」指導部の中で労働者レフ・ワレサと並んで大衆的人気を誇ったヤチュク・クーロンは、「連帯」主導内閣の労働社会政策相の職にあったが、自分たちのネオリベラルな体制転換があれよあれよという間に放出した失業者・失住者の大群に対して、自らが先頭に立って街頭に出て、欠食者たちに無料の豆スープを配ることしかできなかった。この豆スープは、「クーロン・スープ」kuroniówkaと呼ばれた。余談であるが、このような社会福祉活動は、30年後の今日クーロン家の家業となって、「クロニュフカ」kuroniówka基金に成長している。
ポーランドのネオリベラル的体制転換によって、1990年から1993年末までに300万人に達する失業者の群生が起った。人口比で中国に換算すれば、9千万人から1億人の失業者に当たるであろう。顧みれば、1980年8月、グダンスク造船所の労働者ストライキの契機は、年金生活に入る直前の溶接工アンナ・ヴァレンティノヴィッチ一人の解雇であった。彼女を守るために労働者階級がストライキに出る。労働者の権利実現を支援すべく、心ある知識人グループがグダンスクにかけつける。そして、ポーランド自主管理労組「連帯」が誕生した。10年後に共産党体制を打倒し、権力を握る。そして即座にネオリベラル資本主義を目指す体制転換に突進する。当然、職場や所得や住宅を失う恐怖に直面して労働者たちはストライキを打つ。しかしながら、時代は変わった。ことさら「ネオ」をつけなくてもリベラリズムの時代だ。自己責任の時代だ。社会主義であれ、社会民主主義であれ、「社会」の名が付く制度や思想が拒絶される時代だ。西ヨーロッパ諸国から政・資・労と市民社会が一体となって「連帯」を支援した時代とは違って、今度の労働者ストは進出する欧米資本にとって迷惑この上もない。ポーランドの知識人層は、言論の自由も出版の自由も結社の自由もすでに獲得している。自分たちの自由な判断に従って、ストをする労働者たちを見捨てる。かくして、群発する労働者ストも各地で無縁・孤立して敗北し、国有大工場の解散か私有化か、いずれかが進行する。
私の手元にB5版よりやや小さめ、335ページの研究書が在る。Jacek Luszniewicz, SOLIDARNOŚĆ SAMORZĄD PRACOWNICZY TRANSFORMACJA SYSTEMU, SGH w WARSZAWIE, 2008(ヤツェク・ルシニェヴィチ著『連帯 労働者自主管理 システム転形』、SGH、ワルシャワ、2008年)である。著者はポーランドの大工業企業17社の自主管理労組ネットワークが作成した経済改革に関係する60余点の文書を分析・検討した結果、バルツェロヴィチの最高度に市場志向でリベラルな経済改革構想にすでに1980年と1981年の段階で当時のポーランド巨大企業17社の「連帯」労祖指導部は到達していた、と結論する。
――いわゆるバルツェロヴィチ・プラン、あるいはより広く見て、ポスト共産主義(タデウシ・マゾヴィエツキ内閣からの)ポーランドの経済政策を「裏切り」(ゴシックは岩田)であると、それほどではないにせよ、「連帯」の労働者的基盤の反対派エリートたちによる放棄であるとみなすとすれば、かかる方向転換の起源は、「円卓会議」(1989年2月:岩田)より前に1980年代後半の「連帯」経済思想の新リベラル的転回より前に・・・求められねばならない。「裏切り」は、第一次「連帯」時代の空気にはっきりとただよっていた。「連帯」の指導者や専門家のエリートたちは、そんなことは外部へもらさなかったとは言え、経済におけるリベラリズム、資本主義、私有化に賭ける精神的準備が一般に出来ていた。そしてまた、物質的価値の優先性、社会的保護の限定、景気循環、自生的独占化等々に馴れ合って行く事とも。彼等は、何よりも先ず地政学的理由で(ソ連の介入に口実を与えないため:岩田)自主管理かつ社会指向性をカモフラージュとして利用した。――
――それに対して、組合員大衆は、現存社会主義を大変憎んでいる者達でさえも、一般に社会主義的な社会理想を評価していた。社会保障や賃金の相対的平等主義に訣別するつもりはなかったし、構造的失業、賃金所得格差、資本の横暴を歓迎するつもりもなかった。――(pp.274-275)
私=岩田は、ポーランド自主管理労組「連帯」の知られざる実像をやや長く紹介した。それは石井知章氏が高く評価し、日本の岩波好みの知識人達が「一切触れることはない」(p.20)、中国の下からの「民主化運動を一貫して支え続けてきた『リベラル』な知識人、弁護士、法学者、社会運動家」(p.20)に関しても個々人の資質の話ではなく、層としての知識人にポーランド「連帯」知識人と共通する面がありうるからである。
5.ハヴェルの「平和主義」
第五の論点は、第七章及川淳子論文のヴァーツラフ・ハヴェル評価が見落としている側面についてである。「ヴァーツラフ・ハヴェルと劉暁波の平和主義という共通点」(p.236)と及川女史は書く。
劉暁波の平和主義が本物である事は、『劉暁波と中国民主化のゆくえ』(花伝社、2011年)で矢吹晋氏が天安門広場1989年6月4日未明における劉暁波の行動を描写している個所(p.24)から確信できる。人の思想の真実は、文章よりも危機における動作からよく伝わる。
ヴァーツラフ・ハヴェルに関して、私=岩田は、中欧風人権思想の底の浅さを実感している。それは、私が旧ユーゴスラヴィアの多民族戦争のリアリティをBiHボシニャク(ムスリム)人の現地新聞・週刊誌、クロアチア人のそれら、そしてセルビア人のそれらを同時に購買し比較検討してきた長年の経験に基づく。
アメリカを先頭とするNATO諸国は、1999年3月24日から6月10日までベオグラードを始めとするセルビア各地を連日空襲した。国連安保理の承認なしにであった。ハヴェルは、かかる大空爆を肯定して、人類史上初の「倫理的な戦争」、「国益のために行われたのではなく、むしろ原則と価値の名において行われた戦争」であると讃辞を呈した。ミロシェヴィチ大統領とセルビア民族をヒトラー総統とドイツ人になぞらえた。また、スターリンやポルポトにも言及していたかもしれない。(しかしながら、空爆中大量に発射された劣化ウラン弾による被害、悪性腫瘍の激増等に言及もしない。平和主義者ならば、対米抗議があってしかるべきだ。)
複雑に歴史的、宗教的、言語的、民族的諸利害が錯綜する紛争・抗争で、超大国アメリカが自国政治や自国資本の利益に従って、抗争当事者の一方に加担するときは、必ず敵役に人権侵害者のレッテルをはりつける。自分が組する側は、必ず人権被害者とする。現場の状況は、大なり小なり、双方に人権加害と人権被害が存在する。NATO大空爆の場合、ローマ教皇やポーランドのワレサ前大統領は、アメリカを一方的に支持することはなかった。
ハヴェルに質問したいものだ。「倫理的な戦争」で「国益のために行われたのではない戦争」であったとすれば、空爆終了後アメリカはベトナム戦争以後最大の軍事基地をセルビアから分離独立させたコソヴォに建設し、今日に至るまで維持しているのは何故か、と。また、ハヴェルの「平和主義」を強調する及川女史にも訊ねたいものだ。
そう言う訳で、当然、セルビア人はハヴェルのNATO空爆讃辞に腹を立てていた。しかしながら、ハヴェル大統領の第二次大戦前旧財産所有者への国有財産返還法は、セルビア社会の一部で高く評価されている。ベオグラードの日刊紙『ポリティカ』(2019年12月2日)の投書欄に「財産返還はある者にとっては母であり、ある者にとっては継母だ」という投書が載った。
そこにヴァーツラフ・ハヴェルの名が登場した。「10月5日政変(セルビアのミロシェヴィチ大統領打倒:岩田)以後、基本的な誤りが犯された。最初にレスティトゥツィヤ(旧所有者への財産返還)が行われるのではなく、プリヴァティザツィヤ(私有化一般)が行われた。チェコスロヴァキア大統領は、自国の共産主義打倒後最初の仕事として、レスティトゥツィヤを命令した。ところで、セルビアのヴァーツラフ・ハヴェルは何処にいるのか?
ヴァーツラフ・ハヴェルは、現在の有産者階級一般のではなく、戦前からの、70年前の旧有産階級の子孫たちの希望の星である。返還を実施した後に、大衆私有化を行ったからである。
第七章のタイトル「『一九八九年』の知的系譜―中国と東欧を繫ぐ作家たち」が示す様に、及川淳子女史は、東ヨーロッパの異論派・反体制の動向に精通しているようだ。劉暁波の「〇八憲章」とハヴェルの「憲章七七」の関係性・連帯性について本書(pp.221-222)で詳説している。ところで、「憲章七七」は、1989年より12年前であり、「〇八憲章」は1989年より19年後である。その間に、東ヨーロッパ諸国で勝利した民主主義社会の経済的リベラリズムの下で貧困化した民衆の悲惨、例えば少女の人身売買や腎臓売りますの新聞広告、電気料金値上げショックによる焼身自殺多発等々、新しい自由主義的悲劇が多発した。
劉暁波の論説「ヤミ煉瓦工場の児童奴隷事件の追求を継続せよ」(花伝社本、pp.307-323)のレベルにおける劉暁波と東欧の勝利したリベラリスト達との間で意見交換が在ったのか否か、それとも「憲章七七」のレベルにとどまったままの両者間の交流だったのか、及川女史にご教示願いたい。
最後に一言。
6月10日に60年安保闘争の60周年記念集会が憲政記念会館で開かれる。今も忘れていない人々がいる。
あの闘争の死者は一人だった。天安門事件の流血死の規模とは比較にならない。だが、日本の戦後史において、あの闘争の帰結(敗北)によって、すくなくとも日本社会の国家的自負の高低・強弱・濃淡が決まってしまった。
天安門事件がその後の中国にとって有した意味は、6.15の何百倍であろう。天安門事件の参加者達が今も1989.6.4を考え語り続けるのは、極めて自然である。
6.15の国会南通用門にて機動隊の集団的突貫力によって吹っ飛ばされただけの一人としてそう思う。
令和2年2月2日(日)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1102:200206〕
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