最終処分の不可能性という最終問題
- 2011年 5月 28日
- 時代をみる
- 宇井 宙放射性廃棄物最終処分
今話題の映画『100,000年後の安全』(マイケル・マドセン監督)を観てきた。世界で初めて高レベル放射性廃棄物の最終処分場に決まったフィンランドのオルキルオトで建設中の地下処分場の映像なども交えつつ、この計画に携わった様々な専門家や政府関係者へのインタビューを重ねたドキュメンタリー作品だ。「オンカロ」(フィンランド語で「隠し場所」の意)と呼ばれるこの施設は、地下500メートルまで岩盤を掘削して建設され、原発から出る大量の放射性廃棄物を銅や鉄の容器に入れて保管し、人間から危険な放射能を遮蔽するため、10万年間にわたって貯蔵できるように設計するという。完成するのは2100年の予定である。映画では、というかこの計画では、放射性廃棄物が人体にとって無害化するのに10万年かかるとされている。ところが、広瀬隆氏の『原子炉時限爆弾』によれば、アメリカ政府は2009年2月に「高レベル放射性廃棄物は100万年監視しなければならない」と発表したそうだ。また、同書によれば、高レベル放射性廃棄物に含まれるプルトニウム、アメリシウム、ラドン、セシウム、ストロンチウムなどの放射性物質から出る放射能の毒性を合計したものは、1年後ではウラン鉱石の100万倍だが、1000年後でも10万倍、100万年後でも500倍、1000万年後でも30倍も残るという。10万年後と100万年後では大きな違いであるとも言えるが、人間には想像もつかず、ましてや責任など到底追いきれない遥かな未来である、という意味では同じようなものだとも言える。ちなみに、今から100万年前と言えば、原人がようやくアフリカから世界各地へと移動を始めた頃であり、10万年前と言えばネアンデルタール人がマンモス狩りをしていた頃である。クロマニョン人はまだ誕生すらしていなかった。
ともあれ、オンカロは10万年の耐久性を持つ構造物にするというのだが、本当だろうか。人類はこれまで1万年の耐久性を持つ建造物すら作ったことがないのに、10万年もの間、壊れたり腐食したりせずに持つとは私には到底信じられない。確かに、フィンランドの地質はおよそ18億年前に形成されたもので、たかだか1万年ほど前にようやく現在の列島の形が形成された日本とは地質の古さにおいて格段の相違がある。しかし、フィンランドが古い地質の上にあるということは、その間、その地形が全く変化しなかったことを意味しない。『地球のしくみ』(新星出版社)によれば、オンカロのあるあたりは、過去3000年間に80~100メートルも地殻が隆起したことがわかっている。6万年後と予想される氷期が来れば、そのあたりは分厚い氷河に覆われ、再び地殻は沈降するだろう。こうした地殻の巨大な変化にも耐えうる建造物が作れるとは思われない。しかし、映画の中ではなぜかそうした点はほとんど問題とされず、地下は地上に比べて相対的に変化が少なく安全だ、という大雑把な議論で片付けられていた。
議論の多くは、未来の人間がオンカロに侵入するのを防ぐにはどうすればいいか、ということに費やされていた。様々な議論があったが、結局のところ、その答はある専門家が述べた次の一言に要約される。「誰にも何も全くわからないのです(Nobody knows anything at all.)」。この計画は、10万年間管理し続ける、というものではなく、100年後に施設が完成し、放射性廃棄物の貯蔵が完了すれば、入口を完全に密封し、二度と開けない、というものである。つまり、人間が侵入しない限り、この施設は10万年間、核のゴミを安全に貯蔵し続けるだろう、という想定の下に、後は放置する、というのである。なんとも無責任な計画ではないか。もちろん、日本も含め、原発を運転している世界の30カ国は、フィンランドと(同様の計画を持つ)スウェーデンを除き、未だに最終処分方法すら決められないまま運転を続けているわけだから、徹底した情報公開と議論を重ねてこのような処分方法を決めたフィンランドは日本などよりはるかに誠実であるとは言えるだろう。しかし、未来の子孫に対しては無責任の誹りは免れないだろう。もっともこれはフィンランドの責任というより、最終処分方法も決まらないうちに見切り発車で原発の操業を開始した原子力産業全体の責任である。その口実として言われたのは、石油や石炭などの化石燃料はもうすぐ枯渇するという宣伝だったが、ウランに至っては石油や石炭よりもはるかに埋蔵量が少ないのだから、笑う以外にない。もちろん核燃料サイクルなどできないことはすでに世界で実証済みである。人間が今後も原発に依存し続けるという愚かな選択をとったとしても、ウランの可採年数はせいぜい数十年から100年である。一方、原発から出る高レベル放射性廃棄物は10万年から100万年という途方もない(人間の寿命から見れば永遠にも思える)長期に亘って危険性を持ち続けるのである。現代人がわずか数十年ないし100年程度原発を使ったために、何十万世代にもわたる子孫に危険なゴミを押し付ける、などということをこれまで原子力産業は平気で行ってきたのである。正気の沙汰ではない。つい最近まで知らなかった自分の無知にも呆れるが、これほど馬鹿げた産業が存在するというのは本当に驚きである。「処分できないものを生み出しながら、発電を続ける原子炉を認める者はすべて、子や孫の将来世代に対して重大な罪を犯していることを、人間として恥じるべきである」と広瀬氏は述べている(前掲書228頁)が、この言葉に反論できる人がいたら教えてほしい。この最終処分場問題は、原発の最大の問題点を浮き彫りにしていると言えよう。
ところで、最近気になるニュースがあった。自国内で最終処分場を見つけることのできない日米両政府が、なんと最終処分場をモンゴルに建設する計画を極秘に進めていた、というのである。その見返りに日米が原子力の技術支援を提供する、という「ニンジン」(麻薬)をぶら下げて「核のゴミ」を押し付ける、という手法は、これまで日本政府と原子力業界が電源三法交付金等をばらまきながら過疎地に原発を押し付けてきた構図と全く同じである。それを今度は国家間でやろうというのである。日本原子力研究開発機構(旧動燃=旧核燃機構)はかつて、人形峠から出たウラン残土を自分で処理することもできず、アメリカ先住民の土地に捨てにいったという前科がある(小出裕章『隠される原子力』82頁。またこの問題について詳しくは「米国に搬出されたウラン鉱石残土の行方」http://uranzando.jpn.org/uranzando/j_sosho/59.htm参照)。だから、今回の計画も、いかにも卑劣な原発推進派の考えそうなことだとも言えるが、他国に「麻薬」を飲ませて核廃棄物を押し付けるなど、絶対に許されることではない。自国が出した「核のゴミ」は、安全な最終処分方法が見つかるまで、自国内で保管し続ける以外にないだろう。もっとも、核廃棄物の最終処分問題は日本だけの問題ではなく、世界的な問題なので、この問題を討議・研究する国際会議の開催を提唱することも検討すべきであろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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