「3.1独立運動」101周年の記念日に:「広島同人誌 あいだ」より 文英愛さんの二つの寄稿 On the 101st anniversary of the Korean 3.1 Independence Movement — Two essays by Moon Yong-ae, a Zainichi Korean law instructor
- 2020年 3月 4日
- 評論・紹介・意見
- ピースフィロソフィー
朝鮮3.1独立運動の101周年を迎えます(参照:100周年の昨年の記事)。新型コロナウィルスの話で持ち切りの日々ですが、日本人が忘れてはいけない日であることには変わりはありません。在日朝鮮人の友人、文英愛(むん・よんえ)さんとは共通の友人の紹介で2017年の年末に出会いました。広島県内の専門学校で法律を教え、学科長を務めています。文さんからは、私が日本で日本人として生まれ育って気づかなかったことを数えきれないほど教えてもらっています。その文さんが『広島同人誌 あいだ』2018年12月の創刊号、2019年12月の第二号に寄稿した二つの文章「明治一五〇年とわたしの在日朝鮮人史」と、「朝鮮民主主義人民共和国首都・平壌を祖国訪問 福岡空港で土産品没収される」を、許可をもらってここに転載します。昨年8月私は、文さんと妹さん、沖縄の友人と4人で朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)を訪ねました。文さんの二つ目の寄稿は、その旅の帰りに福岡空港で文さんと妹さんが体験した、屈辱的な土産没収についてです。外国人観光客として行った二人は没収されなかったのに、祖国訪問で行った文さんと妹さんが、在日朝鮮人であるがゆえにターゲットにされて所持品を奪われたのです。植民地支配を行った側の日本が、その植民地支配の歴史を背景に日本で生まれ育った、朝鮮をルーツに持つ人たちに対して行った仕打ちは、人道にもとる権利侵害です。
『広島同人誌 あいだ』2号
文さんの寄稿は、一人でも多くの人に読んでもらいたいと思いました。そして、豊かな祖国と家族の歴史を背負って朝鮮人として今の日本を生きる文さんの文章から、私自身が突きつけられる日本、日本人としての自分に向き合う必要性を感じました。(前文 乗松聡子)
『あいだ1』(2018年12月発行)より
明治一五〇年とわたしの在日朝鮮人史
戦争や経済のために利用され続けた女性観、翻弄される女性たち。その沿革について改めて触れ、このような過ちを繰り返しては決していけないと感じる。しかし一方でセクハラなどを生む女性の対象化はいまだ蔓延しており、問題提起があっても時の経過とともに忘れ去られがちである。明治期に醸成されたゆがんだ女性観は、今なお連綿と現在に繋がっている。
こうした日本において、在日朝鮮人女性として生きている(生きた)私の曾祖母ら、祖母ら、母について、私の見聞きしたことを少しだけ綴りたい。
一、わたしのストーリ―
私は朝鮮籍を保有する在日朝鮮人三.五世である。
「朝鮮籍」とは、戦前の朝鮮半島出身者およびその子孫を意味する「記号」であり、日本政府が作ったものである。「韓国併合」(一九一〇年)以降、日本国籍を有することになった朝鮮人は、サンフランシスコ講和条約(一九五二年)発効により選択の自由なく日本国籍を喪失させられ、この記号がつけられた。在日朝鮮人のなかには、その後、「韓国」政府の樹立とともに「韓国籍」を取得する者、日本国籍を「再取得」する者も多くある。
「朝鮮籍」を保持する者のモチベーションは多岐にわたり、統一した祖国でなければ受け入れたくないという思い、朝鮮民主主義人民共和国を積極的あるいは消極的に支持する思い、日本や「韓国」などの国籍に変えることに違和感があるという思い、国籍に頓着せずありのままの国籍でいたいという思いもあるかもしれない。ともかく、「朝鮮籍」保有者の思いはそれぞれであり、「朝鮮籍」がなにか一つの信条を表すものではないということを強調したい。在日朝鮮人において家族親族のなかで国籍がまちまちであることは珍しくなく、私の親族の場合も朝鮮、「韓国」、日本とバラエティーに富んでいる。
在日朝鮮人の「朝鮮」は、戦前の朝鮮半島出身者およびその子孫という意味として用いる。「朝鮮」という言葉には様々な含蓄、感情が持たされてきたため、「在日韓国・朝鮮人」や「在日コリアン」といった表現が存在する。
日本の社会ではいまも、『私は「在日朝鮮人」です』と名乗ることを躊躇する雰囲気がある。根強い在日差別やネトウヨの蔓延により、どこにレイシストが潜んでいるかわからないという恐怖がある。また、在日朝鮮人の「朝鮮」は特定の国籍を意味しないが、朝鮮民主主義人民共和国に対する偏向報道による影響を受けるリスクもある。
私自身が出自を明かす場合「在日朝鮮人」を自称するようにしている。奪われた祖国「朝が鮮やかな国」はとても美しい名前だと感じるからである。
「在日~世」の正確な定義があるかについて寡聞にして知らない。在日朝鮮人は海を渡って内地にたどり着いた一世から起算するが、世代を重ねるごとに父方と母方とでずれが生じる。その場合、私が育った在日朝鮮人社会において見聞きした情報によると、①父系による、②世代を多く重ねたほうによる、という二通りがあるようだ。そこで私は、母が三世を名乗り、父が二世をそれぞれ名乗ることから、「在日朝鮮人二世と三世の間の子」として「三.五世」を名乗ることにしている。
二、曾祖母たちのストーリー(資料参照)
曾祖母たちについては母方についてのみ記述している。父方の曾祖母たちは日本に渡っておらず、また詳しく知る人にあたらなかったためである。
1 母方の祖母の母(以下、曾祖母)(資料:①)について
母方の祖母の父(以下、曽祖父)はもともと朝鮮の慶州(キョンジュ)に住んでいたが、九州のどこかの炭鉱で徴用にとられ働いたという。ある日、トロッコ事故に巻き込まれ、九死に一生を得たが、「このままでは殺される」と思った曽祖父は、事故の混乱に紛れ、その日のうちに炭鉱から逃げ出す。当時の時世を考えると、もしも逃亡に失敗し捕まっていたら見せしめに殺されていたかもしれない。その後の経緯は明らかでないが、当時、内地にいた朝鮮人の慣例もあり、朝鮮の同じ郷里である慶州から、曾祖母を呼び寄せ結婚した。二人は結婚するまで面識はなかったという。
結婚後、現在の下関市菊川町に疎開したが、息子を兵隊にとられ畑を耕す者を探していたという農家の日本人から、疎開したその日のうちに畑を借りることができた。小作料として農産物の大半は農家に入れるが、幸いにして食い扶持には困らなかった。曽祖父母は農作業をしながら九人の子を産み育てた。お金はなくても子が宝、というのが当時多くの朝鮮人の考えだったという。そのため多産が多い。
ある日、近所に住む日本人が猟銃で曽祖父を狙い、撃ったという。泥酔していたためか狙いが外れ、曽祖父は無傷だった。しかし、放置すると子どもたちを危険にさらすことになり、差別が激しかった当時警察は当てにならないと思ったことから、実力行使に出た。つまり、後日加害者宅に赴き、相手が死なない程度に滅多打ちにしたそうだ。
母から聞き取った内容はおおむねこんなところだが、曾祖母の話題が少ない。亡くなった曾祖母は穏やかな印象だったが、きっと九人も子を育てながら農作業の主戦力でもあったことから、とても慌ただしい毎日を送っていたに違いない。
2 母方の祖父の母(以下、曾祖母)(資料:②)について
母方の祖父の父(以下、曽祖父)、それから曾祖母ともに慶州で生まれ育った。当時、女の子は結婚したら他所者だからと女中のように扱われ育てられるのが常であったが、曾祖母は末っ子長女だったこともあり、文字通り箱入り娘であった。幼少期は父親の膝の上が彼女の定位置だったという。花嫁修業は一切受けず、女中付きで次男である曽祖父と結婚した。当時、家事が全くできない女性と結婚するのは考えられないことだが、曽祖父曰く「かわいかったから」決めたという。やがて妻の実家からの「婿養子」扱いに嫌気がさして内地に逃亡した曽祖父であったが、すでに夫の子を身ごもっていた母方の父の母は、夫を追いかけて内地へ追っていった。曾祖母の父は「孫を父なし子にしてはかわいそうだ」と涙をのんで見送ったという。女中はさすがに内地にはついてこなかったという。
かくして、内地を永住の地とした曽祖父は、建設会社などを営むようになった。曽祖父は放蕩の限りを尽くす人物だったようだ。たとえば趣味の競馬で競走馬がけがを負いこのままでは種馬になるということがあれば、馬がかわいそうだとペットとして引き取ったり(馬は天寿をまっとうしたそうだ)、出張先で戦争孤児(?)を見つけ、引き取ってその子が結婚するまで面倒をみたという。一〇年ほど前に戸籍を辿ったというその「女の子」から祖母に電話があり、祖母は「そういえばそんな女の子がいた」と何十年ぶりかに思い出したという。
そんな曽祖父に寄り添った曾祖母は、「キセルをよく吸い長い髪に簪(ピニョ)を挿し、眼が大きくぴかぴかした、厳しい女性」だったという。そしてやはり最後まで家事はまったくできなかったそうだ。
三、祖母たちのストーリー
3 母方の祖母について
母方の祖母は九人きょうだいの長子であった。内地の小学校卒が最終学歴であるため朝鮮語が話せない。一七歳で結婚し、焼き肉、ビアガーデン、喫茶店など祖父の家族が経営していた様々な飲食店を切り盛りし、最終的には大阪で修業をしお好み焼き屋を営んだ。お好み焼き屋ではあるが、夏はかき氷、冬はおでんが出た。常連用の裏メニューがたくさんある。盆や正月に遊びに行くと、バイトのお姉さんやお客さんに連れ出してもらい遊んだ。私にとっては思い出の多いお店である。今は両親が引き継いでいる。
働き者で料理の腕がぴかいちの祖母は、五〇手前で夫を亡くした。最近になり「車の免許だけは取っておくべきだった。夫にはわしがどこでも連れていってやると言われたが、死んでしまった」と言っていた。
4 父方の祖母について
父方の祖母は漢学者(中国文学学者)の父の影響か、叔母とともに一四歳のときに「勉強をするため」に大邱から内地へ渡った。
第一子であった祖母は、「男の名前」を付けられる。次に男児が生まれることを願って、女児に男の名前をつけることが慣習としてあったそうだ。そんな祖母のきょうだいに一人だけ男の子が生まれたが、病気にかかってしまった。何も薬がなかったため壁の土を溶かして飲ませたり(!)したが、残念なことに夭折した。弟が亡くなったとき、祖母は弟の亡骸を背負った父とともに、火葬するため山を登ったという。そのとき、いつもカッ(紳士用帽子)をかぶり厳格だった祖母の父が「くそう、くそう」と悔しがり涙を流していたという。
祖母の弟は格別に大切に育てられたのだろう。祖母は「横になった母親に母乳は片方だけ飲むよういわれたのに、おなかが空いて全部飲んでしまった。弟の分の母乳がなくなっていることに気づき怒った母親に家を追い出された。オンマ(ママ)、許して、許してと泣いたことをよく覚えている」と笑いながら語ったことがある。
祖父は、夕張の三菱炭鉱で徴用に出て一旦朝鮮に戻り、とある経緯で再び内地に赴いた。祖母はそんな祖父と一五歳で結婚した。どぶろくや朝鮮あめを売ったり、八百屋を営んだこともあったそうだ。当時市内で二つの家庭にしかなかった(祖母談)カラーテレビを購入するなど、裕福だった時代もあったようだが、何度も火事に見舞われた。そのため父には幼少期の写真がまったくないという。祖母は現在、白島の長寿園アパートに居住している。
祖母は六〇代に入ってから「高校生」になった。県立西高の通信制で字を学び、自伝を書いた。住み慣れた朝鮮を離れてまで勉強したいという一〇代の思いが、少しは叶ったのかもしれない。文字は書けなかったのかもしれないが、祖母は大邱(テグ)と広島の言葉を自由に使いこなした。二ヵ国の通販で「なにかいいもの」を手に入れる趣味もあった。あるとき祖母は韓国の通販会社に電話していたが、相手の日本語が不慣れだったようで、広島弁を途中から大邱方言に切り替えた。その様子は鮮やかだった。しかし、(ソウル)標準語らしき電話口の相手が大邱のさらに田舎の独特な方言をどの程度理解できるのかはわからないけれども。
四、母のストーリ―
母は下関にあった朝鮮高級学校を卒業後、朝鮮大学校理学部に進学した。当時の山口県の朝鮮人のなかでは女子が高校に進学する例すら少なく、大学進学など考えにくいことだった。比較的勉強ができた母のために、高校の担任が実家に赴き母を朝鮮大学校に進学させるよう祖父母を説得した。母は寮生活を送っており実家は山口県東部にあったこともあり、祖父母は娘の担任の訪問に驚きつつ、ともかく進学させることにした。母は大学に行けるようになっただけでありがたかったが、希望を言うと薬剤師になりたかった。しかし薬科大は学費が高く、とても言い出せなかったという。
母が入学した年の理学部は異例に女子が多く、大学生活は充実していたようだ。私がやはり朝鮮大学校に在籍したときの学長は母が大学一年の時の担任であったが、その学長から「あなたのオモニ(お母さん)は勉強をたくさんしたんですよ」と言われたのを覚えている。
母は大学卒業後、地元の朝鮮学校で理数を教える。そして三年ほど働いたのち、結婚を機に下関で専業主婦になった。
母は私やきょうだいを本当に丁寧に育ててくれたと思う。服や身の回りのものは手縫いや手編み、手作りを与え、口にするものは素材から厳選した。幼児のころ母がスカートを誂えてくれた同じ布のポーチが手許にあるが、懐かしい柄を眺めるたび当時の記憶がよみがえる。手作りでなければとうに捨てていたとも思う。
それだけに、母が、もう一度人生があるなら結婚などせず働きたいと言ったことは衝撃であった。母ほどに家事を楽しみ、料理にはあくなき探求心を見出すひとであっても、やはり専業主婦では物足りなかったのだ。あなたたち子どもに出会えたことには感謝していると、前置きしてはいたけれども。
五、わたしの現在
在日朝鮮人の家庭は世代や時代によって変化があるが、朝鮮の儒教思想と日本の家父長制の影響、それから日本社会に巣くう朝鮮人差別の負の連鎖が絡み合い、日本人や朝鮮、「韓国」のどの家庭より保守的に感じる。たとえば、長男をなにより大切にし、ほかのきょうだいとの差別は当たり前な家庭が多くある。姉より弟の方がおかずやおこづかいが多いこともある。男児を産まなかった妻は離婚されたり、そのことで責められたりした。性別の決め手となる染色体は男にあるのに科学的にも理不尽である。男女別姓であることも、女性は子を産む道具に過ぎず仲間外れの発想からであって、決して誇れることではない。
また、女性は族譜(チョッポ)と呼ばれる家系図にも通常入れてもらえない(現在は女性を入れることもあるようだ)。祭祀(チェサ)では段取りだけさせられ、「汚れる」からと行事が行われる部屋には入れてもらえない。もちろん、地方や家庭により変化があり、母方の実家では祭祀のときの食糧調達から片付けまで男性のみで行うそうだ。それならばまだ一貫性があるように思う。
在日朝鮮人の多くの家庭では、民族同士の結婚が好まれる。マイノリティ文化を守るため、あるいはかつての植民地支配への反発から日本人との同化を拒む感情もあるだろう。
一方で、私自身が大学校まで一貫して受けた民族教育から学びとったことは、どの民族や文化も等しく尊いというものであった。私が日本人男性と結婚したとき、祝いはしつつも苦言を呈したのは父方の祖母ただ一人であった。祖母は朝鮮人であるがゆえに日本人から多くの虐待や理不尽を受けたはずだ。これは植民地由来の差別リスクなのだ。
ちなみに、日本人と結婚した外国人は制度上戸籍に入れず、苗字も変わらない(当該外国の法律にもよる)。ただし、相手の苗字を通称名登録することはできる。国際結婚は夫婦のいずれも苗字を変える必要のない点で、気楽な結婚ともいえる。
六、初めての故郷訪問
二〇一七年一一月、私は生まれて初めて故郷(「韓国」)に行った。同じく朝鮮籍の両親が、統一祖国しか受け入れないという意志を持っていることもあり、多少の背徳感を感じての訪問であったが、記録を兼ねて少し述べておきたい。
済州島に行き、当時済州大学校で教鞭を取っていた在日の先輩にお会いし、済州島出身の在日と済州島民との絆を知った。また、済州島をさらなる米軍の要塞にすることを防ぐため第二空港建設に反対する方たち、東アジア最大の米軍基地を臨む江汀(カンジョン)を守る方たちと出会い、やはり来てよかったと思った。
ひとつの祖国となったら(統一したなら)南の地を踏みたい、その思いは少なからず私も共有していた。けれども、朝鮮半島の民主化・平和への願いを共有し活動する同じ民族が、同じ時代に生き、南の地に住んでいる。当たり前のことだが、彼ら彼女らと直接会い、話をすることは必要なことだと感じた。
大邱に住んでいる父方の祖母の末の妹、イモハンメ(慶尚道の言葉で大叔母)にも会いに行った。祖母が内地に渡った後に生まれたイモハンメは「福女」というが、日本語の感覚としても「女性らしい名前」である。きっと祖母の妹が生まれた頃、祖母の両親は、祖母の弟の死後さらに男児を産むことをあきらめていたのだろう。イモハンメとはそれ以前に会った記憶がなかったのだが、とても気さくで優しく、同じ部屋に一晩寝泊りした。 連絡がなかなかつかず突然の訪問であったのに、シッケ(甘酒のようなもの)や手作りの料理もたくさんいただいた。足が悪くなかなか広島に行かれないが、こんどまた姉に会いに行きたいと話していた。日本にいる姉のほかにきょうだいはすでに亡くなり、夫にも先立たれたというイモハンメは少しだけ寂しそうだった。
旅のなかで、在日朝鮮人女性としてあらたな「境界」を感じた出来事を一つ紹介したい。 ソウル市にある「戦争と女性 平和博物館」において、ベトナム戦争時、韓国兵がベトナム人女性に対して行った性加害について特別展示があった。入り口には「私たちは被害者でもあり加害者でもある」とあった。「従軍慰安婦」についてここでは詳述を避けるが、日本政府に対して責任ある対応を願うと同時に、どの立場であれ、この問題をナショナリズム一辺倒に扱う考えには強い違和感を感じていた。そのようななか、最初にこの標語をみたとき、なんて的を得ているのだろうと感じ、日本に帰ってから何人かの友人に話し、共感を得たりした。
しかし、ある友人に話したときに『「私たち」とは誰か。これらはすべて男性の女性に対する加害である』と指摘され、衝撃を受けた。私は在日朝鮮人の女性という立場であるにもかかわらず、そのことを見落としていたのである。もちろん、性的搾取は必ずしも男性対女性の問題のみではなく多様な被害者に寄り添う必要がある。しかし、少なくとも植民地主義の視点、ジェンダーの視点は双方が欠けてはならない。
二〇一八年の四月から、縁あってベトナム人を多く含む留学生に労働法などの講義を行っている。ベトナム戦争があったとき、分断した祖国はそれぞれ別の立場からベトナム戦争に参戦し殺戮し合った。とりわけ「韓国」兵によるベトナム人女性への性的加害に胸を痛める。ベトナムと「韓国」のダブルの子をライダイハンと言うそうだが、結婚で産まれた子供だけではなくレイプの結果産まれた子供も多いと聞いた。時々、彼ら彼女らの苦難に思いを馳せる。私自身、日本に産まれ朝鮮人としてとして生きてきた身として、人は人生のどこかで必ず自分のルーツを振り返るものだと感じるからである。ベトナム戦争の時分、私のルーツはすでに日本にあった。そうであっても朝鮮人として生きる限り「償い」ではないが何かしらベトナム人のためになることがしたいと思っている。
在日朝鮮人女性として生まれたことで、気づきの多い人生を与えられたことを幸運に思う。
資料『あいだ2』(2019年12月発行)より
朝鮮民主主義人民共和国首都・平壌を祖国訪問 - 福岡空港税関での土産品没収
文英愛
●朝鮮籍の私と妹が出国するまで
二〇一九年八月一〇日から一七日にかけて、妹、二人の友人を伴って朝鮮民主主義人民共和国の首都・平壌を祖国訪問した。今回は北京・青島経由で朝鮮に入国し、北京・上海経由で日本に帰ってきた。プライベートでの訪問は初めてだったこともあり、短い期間ながらも珠玉の経験、グルメ、人情に接することができ、とても充実した旅であった。
久しぶりに「自分の国」に帰った私と妹は高揚していた。福岡空港で税関を通過するまでは…。八月一七日に福岡空港税関で起きた土産品没収について記録する。
◇
妹と私はともに朝鮮籍(朝鮮籍については「あいだ1号」の拙文で詳述)なのだが、今回私が出入国に使ったものは日本の法務省が発行する「再入国許可証」(数次)に中国ビザを取得したもの、「朝鮮民主主義人民共和国(以下、「朝鮮」)旅券」であり、朝鮮旅券は日本の入管では呈示しない。ちなみに、この朝鮮旅券を日本政府は正式な旅券と認めていない。再入国許可証には入管職員により「北朝鮮への渡航自粛を要請する」という紙が貼られている。
一方、妹は山口県の入管にて「北朝鮮に行きますか」と聞かれ、素直に「行きます」と答えたため数次を取得できず、単数(一回きりの使い捨て)の再入国許可証を発行される羽目になった。中国ビザを取得するためには半年以上の有効期限が必要であり、中国ビザを申請することは入管職員に説明していた。それにもかかわらず、なぜか有効期限が半年を切ったものを発行された。入管職員は「有効期限はこれで十分」と言っていたそうなので、単に知らなかったからなのかもしれない。そのため再入国許可証では中国ビザを申請できなかった。
そこで妹は朝鮮旅券で中国ビザを申請することにした。朝鮮旅券で中国ビザを発行するには、再入国許可証と朝鮮旅券の英字スペルが一致していなければならない。南北で正式な綴りが違うことや時代によりそのスペルにも変遷があることから、在日朝鮮人の英字スペルは書類により一致していないことも多い。妹はたまたま再入国許可証と朝鮮旅券の英字スペルが一致していたからよかったが、そうでなければ入管にもう一度出向くことになっていただろう。中国に出国する福岡空港のカウンターや入管で再入国許可証とともに朝鮮旅券を差し出さなければならなかった妹は、相当に目立っていたはずだ。
●八月一〇日、福岡空港で
八月一〇日、福岡空港で税関を通過し入管手続に向かっていた私と妹は、税関職員に声をかけられた。
「どちらへ行かれますか」
妹と顔を見合わせ、私は言った。
「中国に行きます」
「中国だけですか」
「いえ、朝鮮にも行きます…」
すると、通路から少し逸れた場所に誘導された。
「帰りも福岡空港ですか。朝鮮に行かれた方にはトランクを開けさせてもらうことになります」
税関職員は申し訳なさそうに言った。
「土産品はすべて没収されるのですか」
「買いすぎなければ大丈夫です。親族からのお土産は没収しません。そうだ、北京で買われてはいかがですか」
「職場は中国出身者が多いので、それではあまり喜ばれないと思うのですが…」
私と妹は、フェイスマスクなどの中国でも手に入る共同開発商品などを買うことにし、自分や身内用の購入品はできるだけ現地で開封し使いかけにしようと決めた。
妹は福岡空港の入管でかなり長い時間審査を受けた。しかし、中国から朝鮮に出入国するときは、朝鮮旅券に中国ビザを得ていた妹の方が意外にスムーズだった。「ああ、朝鮮人(シャオシェンレン)ね」という具合に。日本の法務省発行の再入国許可証は珍しいこともあり信用されず、上海空港では危うく飛行機に乗り遅れるところであった.
●八月一七日、再び福岡空港で
八月一七日、北京に引き続き滞在する友人たちと別れた私と妹は、中国東方航空の飛行機で福岡空港に再び降り立った。
以前、大阪国際空港の税関で修学旅行の朝鮮高級学校生が土産品を根こそぎ没収された挙げ句、深夜まで拘束され阿鼻叫喚だったという報道があった。しかし、最近は没収されたという話は聞かないという情報を同じ平壌ホテルに滞在していた朝鮮大学校の学生から得ていた私と妹は、緊張しつつも少し楽観的だった。税関で遅くまで足止めされることを想定し、福岡に宿も取っていた。
無事に入管手続きを済ませ、税関に向かった。税関の受付は数か所あり、税関職員が手を挙げて私たちを誘導する。
「どちらに行かれましたか」
「中国に」
「中国だけですか」
「朝鮮に行きました」
「朝鮮に行かれていた方には荷物を開けさせてもらっています」
出国前のデジャヴュのようなやり取りの後、「予定通りに」荷物が開けられた。
冷麺やチョコレート、専門書などの購入品が日用品から分けられてカウンターに並べられる。
驚いたのは、土産品は原産地が朝鮮であれば(たとえ中国で入手したとしても)無条件で「放棄」(以下、「没収」という)させられ、親族からの贈り物であっても、最小単位で一〇個までしか持って出られないというのだ。チョコレート一つ、フェイスマスク一枚単位である。出国前に同じ空港の税関職員から聞いていた話とは違っていた。スーツケースの半分を占めていた本はなぜか見逃された。検閲を疑われるのを避けるためではないかと思った。
そして「放棄承諾書」を書かないと、何日でも税関に抑留させるというのだ。わざわざ遠くから運んできた土産品を自ら進んで捨てる人などいないというのに。
◇
責任者らしき肩書のネームプレートをつけた女性職員が、「北朝鮮から来た人にいうのは心苦しいけど、北朝鮮はミサイルとか…」とのたまうのに耐えかねて、「朝鮮がミサイルを撃つのは報道するが、米韓が大規模軍事演習で朝鮮を挑発することは報道しない。そういった情報操作は国のスタンスだし、あなたたちは国家公務員だから、たとえ政府の方針に疑問を持ったとしても、またどんな理不尽なことでもやらなければならないことは理解します」と返した。また「北朝鮮」と連呼するので「自分の国を地域名で呼ばれるのは不愉快です」というと、「ごめんなさい」と謝った。
彼女たち税関職員たちの多くは、本当は土産品の没収などやりたくないのではないだろうか。個人の土産品を没収することが「北朝鮮の政策を変えさせる」という目的(「対北朝鮮措置」HP安倍首相コメント)とどう整合するか不明であるし、嫌がらせ以外になにか効果があるのだろうかと思う。
後ろめたいからなのか、「バーコードが八六から始まるものはすべて朝鮮のものと認識しているが、正式な根拠がないので見逃している」と何度も言っていたが、「正式な根拠がないのは朝鮮を国として認識しないという日本政府の立場が根拠なのだろうから、そういうのは大目に見ていることにならない」と言っておいた。「親族の方に、あまりお土産をくれないでと言ってください」という言葉にはあきれた。もしも税関でお土産を没収されると親族に話したら、朝鮮に対しそれほどまでに敵対的な国で暮らしているなんて身の安全は大丈夫かとすごく心配することだろう。
責任者に没収の法的根拠を聞いたところ、内部通達なので見せられないという。それはありえないと食い下がると、「あなたが知らなくてもこういう決まりはいくつもある」のだという。「個人の所有権を侵害するのに、その根拠が公になっていないことは法律的にありえない」とさらに食い下がった。
責任者は経済産業省に確認の電話をしていた。内部通達しかないと言い張っていた責任者は、しばらくして「根拠はちゃんとあります。経産省の措置です」と伝えてきた。
後で調べたところ、措置とは「外国為替及び外国貿易法に基づく北朝鮮への輸出禁止措置等」というものであった。朝鮮からの輸入品はすべて禁止するという内容だ。そこには「人道目的等に該当するもの」を除くという文言があるが、二〇〇九年六月一六日付貿易経済局の「お知らせ」によると、国連や赤十字からの無償輸出品と国際郵便で送付される小包郵便物等であって、「受取人の個人的私用に供される医療、食料、書籍類等」に限定されていた。親族からの土産品に個数制限を設けることを疑問に感じていたが、人道目的には想定されていないらしい(!)
責任者は「没収は平等に行っているし、そうしないと税関職員が処分される」と言っていたが、あとから日本に入国した友人たちの荷物は開けられなかった。朝鮮籍者に対し差別的な運用をしているのではないかと疑ったが、一緒に渡航した友人によると、中国からの出入国記録で朝鮮渡航を推定できるとはいえ、大勢いる日本国パスポート所持者の荷物をすべて開けるのは無理があるから、そもそも平等に運用できない仕組みなのではないかという。
◇
私たちの荷物が開けられている間、私たちを目立たせないためか、朝鮮には行っていないと思われる女性の荷物が開けられ、すぐに元に戻された。どんどん時間が過ぎ、やがて私たち以外の利用者は誰もいなくなった。いつの間にか空港の税関職員全員が、私と妹の周辺に立っていた。
ふと妹の方を見ると、すでに荷物がもとに戻されており、何も没収されずスルーされていた。一〇日の福岡空港出国時に北京で土産を買うことを勧めてきた職員が担当していた。責任者に問い詰められた妹の担当職員は「北京で買ってきたというので」と話したが、責任者は妹の荷物をもう一度開けるよう指示した。
結局、私と妹は、少しの冷麺とチョコレート、フェイスマスクを除いてすべて没収され、「任意放棄書」に品名、数量等を記入し、サインさせられた。友人がプレゼントしてくれたお菓子も含まれていた。任意放棄書には「私は、下記物件について完全、かつ、十分な処分の権限及び能力を有することを誓約するとともに、この処分権に基づき同物件を任意法規することを宣言します」と印字されていた。
荷物を整理していると、妹の担当職員が近づいてきた。平壌をいつ出たのと聞くので、今日だと答えると驚いていた。中国人も多いが、イギリスやオランダなど様々な国から観光客が来ていたというと、興味深そうにしていた。かつて在日朝鮮人が往来し、親族たちと交流する人道の船である万景峰九二号が日本政府により止められ、祖国訪問はずいぶん高級なものになってしまった。一方で、確かに飛行機は速く、朝鮮がすぐ隣の国であることを実感する。朝鮮のナショナルフラッグである高麗航空は北京や上海にも就航している。
二一時五〇分に飛行機が到着したはずなのに、空港を出るときは〇時を過ぎていた。すでに空港は閉鎖されており、くだんの責任者に付き添われて出口に向かった。
彼女は小声で「ごめんなさいね」と言った。
文英愛(문영애 むん・よんえ)
1984年山口県出身、広島県福山市在住。朝鮮大学校政治経済学部法律学科卒。広島大学法務研究科法務専攻中退。広島国際ビジネスカレッジ学科長。
初出:「ピースフィロソフィー」2020.2.29より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.com/2020/02/on-101st-anniversary-of-korean-31.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://chikyuza.net/
〔opinion9506:200304〕
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