小泉明郎作『縛られたプロメテウス』を観劇して
- 2020年 3月 10日
- 評論・紹介・意見
- 野島直子
去る2020年3月3~7日、芸術公社主催「シアターコモンズ’20」において、小泉明郎作、VR演劇『縛られたプロメテウス』が上演された。昨年10月10~14日(12日は中止)、「あいちトリエンナーレ2019」において上演され、好評を博した作品の再演である。前回は台風に見舞われ、中止を余儀なくされた日もあったが、今回は、新型コロナウイルスの感染が拡大する中、慎重な防止対策をとった上での上演となった。
初演のあと、私は、市原佐都子作『バッコスの信女―ホルスタインの雌』の劇評をこの欄に公表したが、その際、小泉のこの作品にもふれ、作品に仕掛けられたトリックを公にすることのデメリットに言及し、再演を考慮してここでは扱わないことを書いた。しかし再演が終わり、とりあえずそうした制約がなくなった今、記録の意味をこめて、初演の「あいちトリエンナーレ2019」後に書いておいたレビューを公表することにする。
なお、「シアターコモンズ’20」における再演については、諸般の事情で私は見ることができず、配布資料など、初演から一部変更があった可能性はあるが、それをフォロウしていないことをあらかじめ断っておく。また、この劇を再現、記録するにあたり、一回限りの観劇だったため、詩的テキスト(ナレーション)の再構成が難しかったこと、そして私自身の記憶のあいまいなところは、他のレビュアーの記事を参考にして補ったが十分とはいえないことも記しておきたい。
この「劇」の体験=上演時間は1時間、二部構成。体験日時は2019年10月13日14時30分。会場は、愛知芸術文化センター・愛知芸術劇場の大リハーサル室。
前半三十分は、十五人ほどの観客がヘッドセットをつけて、VR技術を用いた立体的な映像体験をする。はじめは、観客がとりまく中央部分から小さな四角錐(=炎?)が浮かびあがり、そこから白い線が四方八方伸びていく。ヴァーチャルなものと知りつつ、線とぶつかるのを避けようとして観客が思わず後ずさりするのがおかしい。慣れてきたころ、上方に黒い直方体が現れる。映画『2001年宇宙の旅』の「モノリス」を想起させる。やがてこの黒い直方体は、分解され飛び散るが、この黒い物体の中に入ると、さきほどまで感じていた隣り合う他者の姿がしばし消え、ひとり雲海を見晴らすような立体映像が広がる。体を失って魂だけになるとはこのようなことか。一種の臨死体験といえるかもしれないし、「モノリス」にふれて新たな生命体へと進化する途上を意味するものかもしれない。また、過去から未来へ(あるいは未来から過去へ)と突き進む光の矢に従って自分の身体が光速で運ばれるようなイメージ体験をしたりする。
こうした映像体験に、自分の子供時代や、手を握る妻、子供のことを語る男の声がかぶさる。彼は、もうすぐ体が動かなくなること、呼吸ができなくなること、そして、脳とコンピュータが接続されることなどを語る。こうして言葉だけ並べると死の危機が迫る男の切実な語りであると感じられるのだが、VR体験をしている身にとって、その声は、「モノリス」に似た物体を見たせいもあろう、「子供の時見たSF映画の続きを見る」というつぶやきのせいもあろう、宇宙空間に漂う人間ならざる人間の声にも聞こえ、どこか抽象的である。「一人の人間の誕生に皆で喜ぶ」などの詩的ナレーションに陶酔感を覚えたりもする。
後半三十分は、細長い仮設の隣室に移り、モニターを前にして座る。そこで手渡された一枚の紙には、「脳内信号の速さは秒速100m/s デジタル信号の速さは、光速=秒速300,000,000m/s…中略…来たるべきプロメテウスは、光速で未来を予見する」とあり、人工知能が脳を凌駕するシンギュラリティの到来が2045年頃だと唱えるレイ・カーツワイルの『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき』が脳裏をよぎったりする。そうした中、さっきまでいた部屋には次の回の観客が入ってくる気配がする。モニターには、電動車椅子にすわって顔をこわばらせ苦しそうに、しかしきっぱりとした態度でしゃべる男性の姿が映る。さきほどVR体験のさなかに流れていた男のナレーションの内容と重なることから、彼がVR空間に漂っていた声の主であることがわかる。男のつばを飲み込む音がヘッドホンからリアルに再生され、自分のそれのように聞こえる。しばらくして、モニターの上にある細長い窓が開き、次の回の観客の姿が見える。モニターの車椅子の男は、引き続き語り続ける。さきほどと同じ言葉であるにもかかわらず、今は違う意味を投げかけながら。のぞき窓からみえる、次の回の観客がVR体験をしている姿は、さきほどまでの自分の姿に重ね合わされ、それを目の当たりにする私たちはどこか居心地がわるい。
上演が終わると、小冊子が手渡され、私たちは、作品の出演者、コラボレーターである男性がALS(筋萎縮性側索硬化症)患者、武藤将胤だということを知る。前半部で聞いていた男の声は、確かに、もうすぐ呼吸ができなくなること、体が動かなくなること、脳をコンピュータに接続すること、そして自分の口で最後に言える言葉は「ありがとう」だということなどを語っていた。しかしVR技術による知覚の拡張を楽しんでいる私たちの大半は、「モノリス」との関連で映画『2001年宇宙の旅』のような人類の進化については思いをはせられても、あるいは脳とコンピュータの接続という言葉からアニメ『攻殻機動隊』の義体のビジョンにうっすらと思いを巡らすことがあっても、それがALS患者にとっての切実な声であることにはほとんど思い及ばなかったのではないか…。
ALS(筋萎縮性側索硬化症)-それは、体を動かす運動神経が変性し、筋力の低下を引き起こし、徐々に体が動かなくなっていく難病である。その進行によって、患者は、意識や五感、知能の働きは正常のまま、手足を動かす自由や声を出して発話する自由が奪われ、さらに症状が進むと、人工呼吸器の装着が必要になるという。
それゆえ、まさに脳とコンピュータを接続する技術、つまりBMI(ブレインマシンインターフェイス)によって他者とのコミュニケーションを死守する必要にせまられる。BMIは、外界との意思疎通が徐々に困難になってゆくALS患者に、眼信号、筋電信号に始まり脳波まで利用することで、イエス、ノーの音声応答、電気機器のスイッチ操作、文書作成など、コミュニケーションの手段をあたえるのである。しかも、それは生活に必要なコミュニケーション手段にとどまらない。この作品のコラボレーターである武藤は、メガネ型ディバイスを使い、音響や映像を眼球の動きだけを使ってコントロールするシステムを開発し、パフォーマンスを行っているという。
そういえば、漫画『宇宙兄弟』には、あるALS患者が、主人公の宇宙飛行士に、「コミュニケーションをとるために特殊な技術と装置を使い、人工呼吸器を信頼し、最新技術と一体となって生きる自分たちは、NASAと交信し宇宙服を信頼して宇宙遊泳をする宇宙飛行士と同じだ」というようなことを語る場面があるが、こうした比喩は、複雑な機械と最新技術につながれ、綱渡りのようにかろうじて生を維持し高めているALS患者の、繊細でたくましい生の実態の一面を言い当ててもいるだろう。
ともあれ、ALS患者にとって、BMIなりMMI(マンマシンインターフェイス)は、SFが語る未来の世界ではなく、すでに進行しつつある現実なのだ。考える(念じる)だけで操作できる機械の研究も進んでいるという。ただし、現状、ここで用いられているBMIは、外科手術をして脳内に電極を刺すような侵襲的なものと違って非侵襲的で無害なものである。『攻殻機動隊』の草薙素子のように、脳や脊髄以外のすべてを機械に置換し、「義体」化する、さらには脳をリバースエンジニアリングし、それに匹敵する非生物学的知能を創造し、自己複製力をもたせて死をも克服するといったSF的あるいは「ポスト・ヒューマン」的想像力の世界とはまだまだ懸隔がある。
この懸隔を埋める努力をするのか、立ち止まるのか、はたまた別のビジョンをもつのか、人間にはまだ反省し、試行錯誤せねばならないことがありそうだ。実際、小泉は問うている。「苦しみ、痛み、不安、葛藤、妬み、気遣い、共感、喜び、快感、愛といった複雑な感情をともなった私たちの生命活動は、私たちが生身の身体をもつが故のものであり、その豊かさはデータに還元できるものなのでしょうか?」と。
そうした中、武藤が「脳とコンピュータが接続される」と語り、「僕は解放される」、「私たちの垣根はなくなる」、「私たちはひとつになる」、と語ることで、(たとえそれが死後のイメージとして提出されたのだとしても)SF的な、あるいは「ポスト・ヒューマン」的な電脳空間の中で生き残ることを夢見ているように見えた(聞こえた)ことは、私たちを戸惑わせる。
そもそも、そのようなビジョンは、しょせん、人間によってその作動プログラムを規定された「他律的システム」である人工知能に、自律的思考と行為が可能であるかのような過大な評価を与えたにすぎないものではないのか。よし、それが実現可能なビジョンだと仮定しても、それは、従来の「人間」の、「私」の概念を根底から変更することを迫るものであり、大いに考察の余地があるものなのではないか。それこそ、ヴァーチャルな生による、リアルな生の、この「私」の否定であるようにみえるし、そこまでいかずとも、BMIが高度になれば、神経活動とコンピュータの情報処理の連携は緊密になり、行為の主体とその責任の所在は不明確になって、従来の「私」概念が通用しなくなるのは、十分予測できることだ…。
しかし、いったんこの劇を体験するや、私たちはそうした言説や上掲の小泉のコメントを盾にしてそのうちにやすらうことはできなくなる。そうした議論の背後に見え隠れする引き裂かれた未来像から目をそらすことができなくなるのである。なぜならこの劇は、人の身になってみることの困難をつきつけるが、同時にそれでもなお、この劇の二部構成を通して彼の生は、押しとどめようもなく、私たちの生の中に流れ込んでくるからである。そしてそこから見えてくるのは、ダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」を引用するまでもなく、私たちはすでに、サイボーグとして存在し始めているのであり、「縛られたプロメテウス」さながらの武藤はその最前線の一角にいて、生と死とテクノロジーを思考し、有限の身体から解き放たれて他者とつながる電脳空間を夢見ているということである。
ところで、『縛られたプロメテウス』は、小泉のVR作品としては≪サクリファイス≫に続く二番目の作品である。≪サクリファイス≫は、イラク・アフガニスタン戦争を、イラク側から描いたVR作品であるが、この作品には、『縛られたプロメテウス』のキュレーターでもある相馬千秋による詳細なレビューがある。
それからわかるのは、このVR作品が、ヘッドセットを装着するやいなや、鑑賞者は、VRの立体視と立体音響によってイラクの騒然とする街の中にトリップし、その後、家族を惨殺されたイラク人青年の視線に同一化することで彼の経験をわがこととして経験し、その苦しみをこれ以上体験できないという臨界点に達しそうになった時点で現実に帰還するという作品だということである。
相馬は、こうした他者の痛みを仮想体験するといった鑑賞経験から、逆説的にも、一般にVR技術が目指すものとは真逆の感覚、エラーが許されない、再起動ができない生身の生の一回性が突き付けられたこと、さらには、他者の痛みが代理できないことを痛切に感じたこと、そして、それにもかかわらず、ただの傍観者であることを超えて他者の痛みへと共感していくための知覚が身体に刷り込まれたことなどを書いている。
相馬が鑑賞体験から導かれたとして挙げたこうしたことがらは、実は今回の『縛られたプロメテウス』にほとんどあてはまることであり、ここに小泉の変わらぬ強いこだわりと思想を見ることができるのだが、方法論的には前作との間には差異があることもわかる。
それはひとつには、『縛られたプロメテウス』が、仮想空間に没入したのち帰還するというタイプのVR技術を用いたものではないということである。この作品では、観客は、イラク人青年の視線に同一化して彼の身体を仮想体験したように武藤の身体を仮想体験するわけではなく、言葉によって表現される武藤の夢想する世界観を小泉がVR技術によって再現し、観客は、それを現実の延長線上に感じ取り、想像力によって現実感を拡張していくといったつくりになっているのである。
暦本純一は「コンピュータの中にあたかも現実のような環境を作り出す技術がバーチャルリアリティ(VR)であり、現実世界にコンピュータの情報を付与してさらに拡張しようとするのがオーグメンティッドリアリティ(AR、拡張現実感)である」とし、「VRが、利用者の感覚を完全にコンピュータによる人工世界で覆ってしまうのに対して、ARでは現実の視界とコンピュータの情報が共存している」と書いているが、これによるなら、本作品は、VRというよりARの技術を使ったものだということができるだろう。実際、私たちは、隣り合う他者とのかかわりや、歩き回る自分の現実の姿を消去することなく、レイヤーとして現実を覆う仮想空間にかかわり、相互作用を引き起こす中で現実感を拡張していたのだ。
ただしここで注意したいのは、ARを使ったこの作品では、他者の感覚や感情や身体と一体化した、つまり他者の身になったという没入感はVRに比べて相対的に低く、自分が他者の世界の何を見ているかは常に観客の現実に折り返され、その結果、観客はその想像力に見合った体験しかできないということだ。
事実、そのことは、後半部で明らかになる。
はじめに述べたように、この作品は二部構成で、前半部のVR体験(AR体験)をへた観客が隣室に移り目にするのが、「未来のプロメテウスは光速で未来を予見する」といった文言であり、自分たちに用意された座席である。そこに座ると、先ほどまでの声の主である武藤の肉声と映像をこちら側に、そして自分たちの鏡像である次の回の観客の姿をあちら側に、二重写しで見ることになる。ここで、観客は、利用者の視界にコンピュータからの情報を重ねて表示することで現実を仮想的に拡張するAR体験のように、椅子に座っている現実に重ねられた層状になった虚構を相手にし、その相互作用によって現実感を拡張するのである。ただし、そのことによって大半の観客が知るのは、さきほどまで他者の夢想する世界観を想像力によって再構成した気になっていた自らの不明さである。しかし同時に、そのこと、つまり他者の身になること、他者への想像力をもつことの困難を知ることによってかえって、観客は観客としての自分を顧み、それがどれでだけ不十分なものであろうと、その落差によって否応なく他者の生が自らの裡に流れ込み、それが逃れようのない現実としてあるのだということを感じざるを得ない体験をするのである。
このように、この劇は、徹頭徹尾、この劇を見に来た観客の現実を消去しない。それどころか、後半部では、座席に座っている観客こそ主役であるといわんばかりに、劇構造は観客のありようを撃つ。そのことで、観客は、自身が見る者(観客)であるだけではなく、見られる者(俳優)でもあり、何も見ていない事実を突きつけられる者でもあり、それでもなお他者の痛みを想像し、引き裂かれた未来像を引き受ける者でもあることを知る。つまり、この劇は、その視線を常に観客の現実へと折り返すことで、観客に、当事者になりかわることもできないが、見てしまったからにはもはや傍観者でいることもできないという現実に直面させながら、他者への想像力、未来への想像力を問い、観客を、観客席を撃ち続けるのである。
こうした二部構成は、前作には見られなかったトリックであり、このVR作品が「演劇」であるゆえんでもある。しかも、この劇は、現実と虚構の反転があったり、観客が俳優でもあったり、観客席の仕組みへの新たな見直しがあったり、リハ室での上演であったりと、演劇形式から見てもきわめて実験的な作品であったといえる。そのことによって、この劇は、既成の演劇の制度内でVR技術を使った演劇を見るというタイプの作品とは違って、否応なく、自らの体験しているものがいったいどのような表象体験なのか、その意味と美学を問わざるをえない(そして途方に暮れる)カッコつきの「演劇」となっており、結果、観客のすべてが自己の立ち位置を揺るがされることにつながっていたことは見逃せない事実であろう。
そういえば、かつて、「演劇」とは何かを過激に問い続けた寺山修司は、現実と虚構のたえざる反転を演出し、観客席の仕組みを根柢的に問うて私たちの足元を撃つ中で、自らの構想する実験演劇について「俳優のいない演劇と誰もが俳優である演劇、劇場のない演劇と、あらゆる場所が劇場である演劇、観客のいない演劇と、相互に観客になり代わる演劇…」と書いていた。以来四十数年を経て、そうしたアイデアが、私たちの生の条件をこのように抉り出す冷徹なコンセプトの下、見る者の感性と悟性を激しく揺さぶるVR演劇という形で一つの実現形態を見出すとは、寺山自身にも予想できなかったのではないだろうか。
最後に、この作品が着想を得たギリシア悲劇『縛られたプロメテウス』について。ゼウスから火を盗み人間に与えた罪で、永劫の苦しみを与えられるプロメテウスは、未来を予見する能力によってゼウスに抗う―この物語に私たちは、かねてより、科学技術と人間の抜き差しならぬ両義的関係を重ねてきた。小泉もまたそれをふまえたうえで、「我々の身体はロボットに置き換えられ意識や記憶はコンピュータにアップロードされ」、「人類は、ついに身体的な苦しみや痛みから解放され、死を克服できる」といった「ポスト・ヒューマン」的な思考を参照しながら、「私たちはどのような未来を予見し、何を守り、何に抵抗し、どのような「人間」になりたいのか。これらの問いに対する答えを探したい」と書き、その予知能力によって絶対神に抗い人間の運命を変える、意志的なプロメテウス像をここで踏襲している。
もっとも、こうしたプロメテウス像はいささかも自明ではないことにも、ここで目を向けておいてもよいだろう。吉田敦彦によれば、ヘシオドスの神話のプロメテウスとギリシア悲劇のそれは、明らかな違いがあり、神話のプロメテウスは、「持ち前の狡知の限りを尽くしても、人間の運命をゼウスの意思と寸分も変えることができなかった」のだという。それに対し、アイスキュロスの悲劇のプロメテウスのほうは、三部作によって解放され、「その卓抜な知恵と勇気によって、ゼウスの意思に逆らって人間の運命を根本から変えただけでなく、ゼウス自身も変化させることで、理想の最高神を統治者に仰ぐ秩序を世界に現出させるための決定的貢献すらした」のだという。
このようなプロメテウス像の改変の背景に何があるのかといえば、それは当時のアテネを襲ったペルシア戦争である。ゼウスの不可謬の意思を告げると信じられていたデルポイの神託が、ペルシア軍への抗戦は不可能だとするものであったのに対して、アテネ人たちはそれに従わず、アポロンを無理強いして別の神託を受け、サラミスの海戦で奇跡的な勝利を勝ち得た―そんな歴史的事実が、アテネ人を人間の意思に目覚めさせたのだというのだ。
だとすれば、現代におけるデルポイの神託は何で、それに抗う別の神託とはどのようなものか。人間の死すべき運命は変えられぬという古来よりの真実を語るのがデルポイの神託で、それに抗い空前絶後のユートピアを実現しようというのが現代のSF的あるいは「ポスト・ヒューマン」的思考なのか。それとも、SF的あるいは「ポスト・ヒューマン」的思考こそ、サイボーグ的生をすでに生き始めた現代人にとってリアルで逃れがたい預言であり、その逃れがたい預言の欺瞞を暴いて抗い、人知(科学)の限界を再認識するのが今人間に課されている使命なのか。それとも、その逃れがたい預言の欺瞞を暴きながらも、「人間」の、「私」の概念を新たに創造していくのが今求められているアクチュアルな行為なのか、それとも…。
いずれにしろ、小泉明郎によるVR演劇『縛られたプロメテウス』は、押しとどめようもない科学技術の発展の只中に生き、かけがえのないこの身体、この感情すらその行き先が不透明な私たちに、見る者の感性と悟性を激しく揺さぶるVR演劇体験と「演劇」への問いによって自らの立ち位置を揺るがされながらも、今まさに小泉の夢に寄り添い、「人間」の運命を思考する現代のプロメテウスへと生成変化していくことを誘ってやまない、稀有な文明批評作品なのである。
参考文献
・eureka_merl:「はてなブログ Εὕρηκα! 西洋古典学って、ご存知ですか?」における『縛られたプロメテウス』レビュー(2019年10月17日)
・井上昇治:WEBサイト「OutermostNAGOYA」におけるレビュー(2019年10月31日)
・高嶋慈:Webマガジン「artscape」におけるレビュー(2019年11月15日)
・粥川準二:ウェブ版『論座』におけるレビュー(2019年11月4日)
・佐々木敦:ウェブ版『美術手帖』におけるレビュー(2019年11月22日)
・相馬千秋:ウェブ版『美術手帖』における≪サクリファイス≫レビュー(2018年12月21日)
・レイ・カーツワイル:『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき』NHK出版(2007)
・美馬達哉:『脳のエシックス 脳神経倫理学入門』人文書院(2010)
・苧阪直行編:『道徳の神経哲学 神経倫理からみた社会意識の形成』新曜社(2012)
・西垣通、河島茂生:『AI倫理 人工知能は責任をとれるのか』中公新書ラクレ(2019)
・河本英夫、稲垣諭編著:『iHuman AI時代の有機体―人間―機械』学芸みらい社(2019)
・ダナ・ハラウェイ:『猿と女とサイボーグ―自然の再発明』青土社(2000)
・黒須正明、暦本純一:『コンピュータと人間の接点』放送大学(2018)
・寺山修司:『迷路と死海―わが演劇』白水社(1976)
・吉田敦彦:『ギリシア神話入門 プロメテウスとオイディプスの謎を解く』角川選書(2006)
(2020年3月8日)
初出:ブログ「宇波彰現代哲学研究所」2020.3.9より許可を得て転載
http://uicp.blog123.fc2.com/blog-entry-346.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9525:200310〕
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