最高裁「君が代」判決が意味するもの
- 2011年 5月 31日
- 時代をみる
- 宇井 宙
卒業式で日の丸に向かって起立し君が代を斉唱するよう教職員に義務づけた東京都教育委員会の2003年10月23日通達とそれに基づく校長の職務命令は憲法19条の保障する「思想・良心の自由」を侵害する違憲違法なものであり、そのような命令に従うことは戦前の日本軍国主義の犠牲者の子孫である在日朝鮮人や中国人の生徒に対し、教師としての良心が許さないと考えた都立高校教諭(当時)の申谷雄治さんは、2004年の卒業式で君が代斉唱時に起立せず戒告処分を受け、それを理由として退職後の再雇用を拒否された。
この処分を不当として申谷さんが東京都に損害賠償などを求めていた裁判で、最高裁第二小法廷(須藤正彦裁判長)は5月30日、申谷さんの訴えを退け、申谷さんの敗訴が確定した。
この裁判で最大の焦点となったのは、君が代の起立・斉唱を義務付けた職務命令が憲法19条に違反しないかという論点だったが、最高裁は違反しないと結論付けた。君が代が戦前・戦中の軍国主義推進に利用されたことは歴史的な事実であり、歌詞の内容が天皇治世の永遠の繁栄を祈願するもので、主権在民を定めた現行憲法とはそぐわないと考える人も多い。そのような問題のある歴史と歌詞を持つ歌を学校教育の場で強制的に歌わせることは、普通に考えれば明らかに思想・良心の自由の侵害となり憲法違反だと思われるだろう。ところが裁判所では、そうした普通の考え方はなかなか通用しない。最高裁は次のように言う。起立斉唱の職務命令は、「特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するともいえない」ので、「個人の思想、良心の自由を直ちに制約するとは認められない」と。その一方で、「もっとも、日の丸、君が代に対して敬意を表明できないと考える者が、歴史観や世界観に基づかない行動を求められる点で、思想、良心の自由を間接的に制約する」とも述べている。この「直ちに制約」しないが「間接的に制約する」という区別、すなわち直接的制約と間接的制約の違いとは何なのだろうか。上の判決要旨を読む限り、最高裁は、「特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したり」「特定の思想の有無について告白することを強要する」ことを直接的制約と考えているようである。しかし、そもそも「特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したり」することなどできるはずもなく、仮に憲法19条がそのようなそもそも不可能なことだけを禁止しているのだとすれば、全く無内容な規定ということになってしまうから、そのような解釈は採り得ない。最高裁的詭弁が通用するならば、江戸幕府がキリスト教弾圧のために行った踏み絵でさえ、内心におけるキリスト教信仰を禁止したものではなく、踏み絵という象徴的行為を強要したにすぎないから直接的制約ではない、ということになってしまうだろう。また、「特定の思想の有無について告白することを強要する」ことは、「特定の思想の有無について告白することを強要されることを拒否することを禁止する」ことと何か違いがあるのだろうか。「政府を愛しています」と告白するよう強要することは直接的制約だから許されないが、「政府を愛しています」と告白することを強要されるのを拒否するのを禁止するのは間接的制約だから(一定の場合には)許される、などという区別が成り立つだろうか。全く無意味な議論である。
最高裁はまた、間接的な制約ならば、職務命令の目的や内容、制約態様などを総合的に比較して必要性と合理性が認められるならば許容できると述べて、今回の事例を検討している。最高裁の述べる職務命令の目的・内容・制約様態は、判決要旨だけでは判然としないが、(a)「卒業式での慣例上の儀式的な行為として国歌斉唱の際の起立斉唱を求める内容」であり、(b)「国旗国歌法や学習指導要領の規定に沿っており、地方公務員の職務の公共性を踏まえ」たもので、(c)「秩序の確保や式典の円滑な進行を図るもの」にすぎないから、制約を許容できる程度の必要性と合理性が認められ、憲法19条に違反しないと判示した。おそらく(c)が目的、(a)が内容、(b)が制約態様に当たるのだろう。ここではひとつひとつ検討しないが、「職務の公共性」から「法令や職務命令に従う義務」を直接導きだしている点には驚かされる。ここで言われている「公共性」とは、公共的意志決定とも公共的正当化可能性とも公共的説明責任とも公開性や開放性とも無関係で、ひたすら「お上の言うことには服従すべし」ということにすぎない。戦前の「滅私奉公」とほとんど変わりがない。ここでは法解釈の問題点にはこれ以上立ち入らない。
いずれにせよ、法解釈の専門家であるはずの裁判官が、なぜこのような奇怪な判決を下すのかといえば、それは今回の福島第一原発事故で明らかになった「原子力村」のなれあい体質と似た構造が原因である。原発事故以前、原子力の「専門家」たちは、「原発は絶対安全で、どんな地震や津波にも耐えられる」とか「専門家になればなるほど格納容器が壊れるなんてありえないと思っている」(大橋弘忠東大教授)などと発言しており、御用学者と呼ばれる専門家ほど馬鹿になる、ということが今回明らかになった。もちろん、「法律村」と「原子力村」では村人の構成員は大きく異なっている。法律村では財界はあまり大きな地位を占めていないが、その代わり、裁判官・検察・官僚・政府・行政はべったり癒着している。そうした構造に批判的な裁判官(志望者)はそもそも任官を拒否されたり、任官後は最高裁事務総局の人事統制によって徹底的に監視・締め付けが行われる。
さて、このような判例が今後定着していけば、いったい何が起こるだろうか。現在係属中の多数の君が代裁判は次々と棄却(原告敗訴)され、合憲判決が続けば、憲法19条の空洞化・無意味化が進むだろう。そうなれば、もはや裁判で争っても意味がないという司法に対する諦め・絶望・無力感が広まるだろう。「大阪維新の会」が君が代の起立斉唱を義務付ける条例案を提出したが、こうした動きが広がるかもしれない。各地の教育委員会はますます居丈高となり、思想・良心の自由をはじめとする憲法原理に忠実な教員の孤立化はますます進むだろう。そのような中でなおも不起立を続けるということは、減給や停職はもちろん解雇まで覚悟せざるを得ないということを意味している。それでもなお、抵抗を続けられる教職員などほとんど存在しえなくなるだろう。かくして学校は教育の場ではなくなり、上意下達の体制にいかに順応するかということだけを教化・洗脳する場となり果てるだろう。自分の頭で考えることをやめ、権威・権力に従順な人間――つまり管理職教師や裁判官や御用学者のような人間たち――しかこの社会では要領よく生きていくことができないことを子どもたちは体得するようになるだろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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