紀元前5世紀の大戦と疫病禍(≒コロナ禍)
- 2020年 4月 23日
- スタディルーム
- コロナ禍岩田昌征
マスメディアもミニメディアもコロナ=「コビト19人」の行状や行方から目を離せない。
19人のコビトよりもたちの悪いペストの記憶や1918年~1921年のスペイン風邪の記憶が語られる。「ちきゅう座」に一ヶ月前位か合澤清氏がカミュの『ペスト』を紹介していた。
ここではトゥーキュディデースの『戦史』(久保正彰訳、岩波文庫)「上」の巻二(B.C.431春‐428春)、「アテーナイの疫病(四七―五四)」を見てみよう。紀元前431年から27年間続いたペロポネス戦争の第2年目、コロナよりもはるかに劇症の伝染病がアテネを襲った。
「今次の規模ほどに疫病が蔓延し、これほど多くの人命に打撃を与えた例は、まったく前代未聞であった。・・・かれら(医師たち:岩田)は患者に接する機会がもっとも多かったので、自分たちがまず犠牲者になる危険に晒された。」
「・・・エチオピアに発生し、やがてエジプトからリュビア一帯に広がって、さらにペルシャ領土の大部分をも侵した、といわれている。アテーナイのポリスにおいては全く突然に発生したので、・・・アテーナイの港ではペロポネーソス勢が貯水池に毒を入れたのかもしれぬ、という噂さえ流れた。」(p.235)
トゥーキュディデースは、この伝染病の病状とポリス社会への影響について、自分の罹病経験と他の患者達の病態観察にもとずいて、『戦史』「上」の236ページから242ページにかけて詳述している。御一読を!
この疫病による死者の数に関しては、『戦史』「中」の巻三(B.C.428夏‐425春)、「アテーナイに疫病再発(八七)」に具体的である。
「先回の場合は二年間、第二回目は約一年間にわたって蔓延したため、いかなる災害にもましてアテーナイ人を苦しめ、戦闘力を疲弊させる原因となった。じじつ重装兵からは四千四百名を下らぬ死亡欠員が生じ、騎兵隊からは三百名、その他の無登録階層からの死亡者数は、確認しがたい数に上ったのである。」(p.106)
第一線重装兵は1万3千人、騎兵は千騎であったので、陸軍兵力の三分の一が短期間で病死したことになる。日本国の陸上自衛隊の三割がコロナで死亡するような惨状であった。
こうなると当然、厭戦気分が広がる。「戦役と病疫の二重苦」(「上」、p.244)の故である。主戦派である民主主義リーダーのペリクレースに批判が集中する。ペリクレースは民議会を招集して、大演説をする。
「諸君は戦火が及ぶまえは私の主張になびいたが、戦に傷つけられると後悔しはじめた。」(p.246)「諸君の場合には、とりわけ疫病が最たる原因になっているのだ。」(p.247)
私=岩田が最も重視するペリクレース演説の論点は以下の如くだ。
「考え違いをしてはならぬ。われらはただ自由か隷属かそれだけを争っているのではない。支配者の座を追われれば、支配者たりし間に人々から買った恨みを贖う危険にせまられる。諸君は支配者の座から降りることはもう出来ないと覚悟せねばならぬ。今になってその因果を恐れて、静かな善人に態度を改めたところでもう遅い。なぜなら、諸君は同盟独裁者の地位についてはや久しい、この位を手に入れたことがよし正義に反するとも、これを手放すことは身の破滅にひとしいからだ。」(p.249)
このようにアテーナイ民主主義の本音をぶつけて、ペリクレースは、民議会を説得した。「今回の疫病が期せずしてわれらを襲ったとはいえ、われらが万全をつくして予期できなかった唯一の事件ではないか。」(p.250) そんなたった一つの事件の故にペロポネーソス陣営と和平などしてはならぬ、とアテーナイ市民を説き伏せることが出来た。
上記で紹介したペロポネス戦争下の大疫病禍について若干の現代的感想と日本古代史的感想を述べる。
① 米ソ対抗期の末、アテーナイの疫病に相当する事件、それはチェルノブイリ原子力発電所爆発と放射能災害であった。そのような条件の下でソ連共産党指導者ゴルバチョフは、アメリカに和を乞うた。ペリクレースとは正反対に「支配者たりし間に人々から買った恨みを贖う危険」を引き受けた。
②米中対抗期の初、すなわち現在、アメリカ大統領トランプは、ペリクレース演説の精神に従っている。アテーナイの疫病に2020年「コビト19人」禍がそのまま相当する。
③ ペリクレース演説の中にアテーナイ民衆の病苦やそれに直結する貧困苦に対する為政者としての対策が全く見られない。トゥーキュディデースは『戦史』「上」において、地方からアテーナイにやって来て、「住むべき家もなく、四季をつうじてむせかえるような小屋がけの下に寝起きしていた」(p.239)者達を疫病が襲った惨状を記述しているが・・・。聖武天皇の時代、天然痘ウイルスが猛威を振るった。全人口の1/3が亡くなったと言う。『続日本紀』(二、岩波書店)の巻第十二の末に記す。「この年の春、疫瘡大きにおこる。初め筑紫より来りて夏を経て秋に渉る。公卿以下天の下の百姓相継ぎて没死すること、あげて計ふべからず。近き代よりこのかた、これ有らず。」(p.335) このように記すと同時に、「疫気を救ひ療して、民の命を済はむと思欲ふ。」(p.293)、「疫民に賑給し、あはせて湯薬を加へしむ。」と同意味の文章がp.293、p.303、p.321に見える。言うまでもなく、減税や免税も所々に記されている。ペリクレースは、このような社会政策を全く語っていない。自由と支配のみを語る。
令和2年4月19日(日) 岩田昌征
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1117:200423〕
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