野球場をつくってから言ってこい
- 2020年 5月 4日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
「飛び込み営業を始めた」
http://chikyuza.net/archives/102860の続きです。
いくら紹介して回ったところで、大きな用途でなければビジネスにはならない。五馬力や十馬力では、たとえ引き合いをもらっても、価格が合わない。見積のたびに「高すぎる」と言われ続けて、つくった明るい声で、「やっぱり、高すぎますかねー」と要らぬ一言もつけないと見積をだせなくなってしまった。
購買担当にもいろいろな人がいるが共通の口癖がある。どこに行っても、二言目には「高い」がでてくる。たかが五分かそこらの話のなかに「高い」が五回や六回はでてくる。はいはいそうですよねって聞き流してはいても、寝言でも「高い」って言ってるんじゃないかと揶揄したくなる。子供の名前も漢字はちがっても、「たかし」や「たかお」、女の子なら「たかこ」や「たかよ」なんてつけてるんじゃないかと冗談のひとつも言いたくなる。機関銃のように「高い」「高い」を連発されると、仇名を「ミスター高い」とでもしてやろうかなどと馬鹿なことまで考えてしまう。
度をこえて高い見積を二度も三度も出せば、営業マンも代理店も相手にしてくれなくなる。客が言うほど高いのかと、懇意にしている代理店にご同業の見積を取ってもらった。散々「高い」「二台買える」と言われてきたから驚きはしなかったが、それにしても高い。小さいものほど高くて、五馬力辺りでは二倍以上する。それもモータなしのインバータだけ、売れるわけがない。
大きい機械ならと歩き始めたが、価格とは別の基本的な問題が頭からはなれない。五十万点以上の製品を持って、制御システムのワンストップ・ショッピングを標榜しているにもかかわらず、モータがない。モータなしのインバータでビジネスを継続できるのか、競合がひしめき合う市場で生き延びられるのか。たとえ生き延びたところで、いつ撤退するかもわからないマイナープレーヤにしかなれない。
最終的には事業部をまるごと、どこかに売却して終わりじゃないかという不安が拭いきれない。事業部としては残っても、レイオフにならないという保証などありゃしない。今年はいいにしても来年はわからない。頑張らなきゃ、なんとしても日本市場を切り開かなきゃって尻を叩いても、どこかで抜けている。いくらやっても、穴のあいた風船のように膨らみきらない。ちょっとしたことで、しぼんで張りがなくなってしまう。頭を振って気合をいれて、から元気の空気を入れてはしぼんでを繰り返していた。
価格は、市場参入のコストだからという政治的判断で一昼夜で変えられないことはない。いつまでもできることでもないにしても、できないことではない。ところが、製品となると開発には早くても一年、なかには四年五年かかるものもある。そんなもの今更というものもある。その典型がモータだった。汎用モータはどこも似たり寄ったりでコモディティ化している。超電導でも実用化されれば話は違うが、成熟しきったところに新規参入するか。持ち株会社でもあるまいし、ビジネスの常識からしてそんな戦略はあり得ない。たとえ企業買収にしても、検討することすら馬鹿げている。
後日その馬鹿げた買収をして、収集がつかなくなった。モータというコモディティ専業の事業体、利益率が低すぎて、全社の足を引っ張るお荷物になってしまった。結局何年もしないうちに売却した。渦中にいたものとしてはやり切れないが、企業経営、特に財務の視点では、買収売却の過程で従業員やパートナーが被った痛みなど気にもならないのだろう。
モータだけという引き合いはあっても、インバータだけというのは、既設の省エネのためにインバータを追加することぐらいしかない。名古屋の電炉メーカからの集塵機の話がそのいい例だろう。大手重電メーカや中堅どころがモータとインバータにエンジニアリングも抱き合わせて凌ぎを削っているところに、インバータだけでは、上手くいっても、特殊なケースを拾うだけのビジネスにしかならない。
大きな機械を使うプロジェクトは、予算立ての段階で何度も見送られて、ときには十年以上かかってやっと実施というのも多い。話がないことはないにしても、何もないところから始めたところで、新参メーカが受注できる可能性は低い。何かの都合で運よく受注の可能性もあるだろうが、そんなもの何年先になるのかわからない。来年はレイオフになるかもしれないのに、そんな注文を待っているわけにはいかない。一つでも二つでも、なんでもいい。なんとしても注文を取らなければ先がない。
いくら考えても、これといった案が浮かばない。ある日、どうしたものかとジョンソンと世間話をしていたら、親会社を吸収したコングロマリット全体を紹介したパンフレットが目に入った。話も途切れて、これといってやることもない。机に戻って借りてきたパンフレットを開いて驚いた。話には聞いていたが、ここまで大きな組織だとは知らなかった。ざっと目を通しただけでも異様さが分かる。それはよく言えば聞いていた通りの航空宇宙産業を中心とした企業群だが、ちょっと視線を斜めにすれば、そして多少なりとも常識をもち合わせていれば巨大な軍需産業に他ならないことぐらい誰でもわかる。そこには半導体事業もあったが、驚いたことに世界でも最も大きな印刷機械メーカまであった。
ああでもない、こうでもないと考えていて、こんなことが起きているんじゃないかと思いだした。アメリカでは、新聞発行部数の漸減傾向がはっきりしてきていた。日本でも先行きは明るくない。三菱重工、ワシントン・ポストのプロジェクトでその印刷機械メーカを安値受注で押し出したんじゃいか。ワシントン・ポストにドライブ・システムをスペックインして、系列会社からの注文は間違いないと思っていたら、印刷機械そのものを三菱重工にさらわれた。慌てて三菱重工を抑えなきゃってんで、使い走りをやらされたと考えれば起きてきたことの説明がつく。それにしてもワシントン・ポストのプロジェクトをきっかけに日本市場をと思わない経営陣はいったい何を考えているのか、出先の一兵卒にはわからない。
ジョンソンに義兄弟にあたる印刷機械メーカについて訊いたが、血のつながっていない遠い親戚のことで何もわからない。
「今晩にでも電話して、事業部に確認してみる」
翌日、ジョンソンがちょっと興奮気味に「おい、ちょっといいか」と言いながら会議室に歩きだした。
なんだ、朝っぱらからと思いながら付いていった。
「驚くな、あの会社、日本にも工場もってる。それも日本の新聞輪転機と商用輪転機の三大メーカの一社だ。それだけじゃない、アメリカ本社にはメコンのドライブ・システム事業部がターンキー・システムを供給してる」
そりゃ興奮するわけだ。なんてことはない。買収されて同じコングロマリットの中にはいるが、お互い縁もゆかりもない。ビジネス上の接点があるのないのと言う前に存在すら知らなかった。
競合がひしめいている日本で、たとえ義理とはいえ身内にですら使ってもらえない製品やサービスなんか誰が使うか。もし、身内にすら使ってもらえないのだったら、それは事業部の経営陣の責任であって、オレのせいはおかしいだろう。レイオフをちらつかせるのは、やることをやってからにしろと押し返したくなった。
新聞輪転機のドライブ・システムなら一ライン二三千万円は固い。小さな商用輪転機でも、一千万ではすまない。年に五台もとれば首もつながって一息つける。こんな降って湧いたような話、神さまなんて信じちゃいないが、このときばかりは、「神は見捨ててはいなかった」と思った。なんとしても取りに出なければならない。
まったく経営陣は何をしているのか。あてにできないのは分かっているが、上層部を使わなければならないことになるのは目に見えている。ドラフトをジョンソンに見てもらって、取りに行くこと、事業部をまたがった支援を要請するプロポーザルを出した。一見するっと書いてあるように読めるが、ビジネスになるかならないかは出先の営業部隊の能力以上に経営トップの経営判断が大きな要素であることを示唆していた。それは、もしビジネスにならなかったら、あんたがた経営陣の問題で、出先の一兵卒の責任を云々するんじゃないぞという強迫にも近いものだった。
ジョンソンに言って、事業部から輪転機関係の技術資料と提供しているドライブ・システムの資料を取り寄せた。ワシントン・ポストのプロジェクトでは上の空で聞いていたが、今回は違う。一人で乗り込んで採用に持ち込まなければならない。輪転機の世界に慣れるまでちょっと時間はかかったが、CNCの事細かな開発要求仕様を決める作業をしてきた経験が生きた。
ただ、いくら入念に準備したところで、資料からできることはしれている。あれこれ想定して準備していっても、戦場には予想だにしない難題がゴロゴロしている。そこそこの準備ででていくしかない。
大代表に電話して手短に要件を伝えた。購買担当にまわされて、要件を伝えて訪問させていただけるようお願いした。同じコングロマリットに所属する義兄弟、政治的なきな臭さを臭わせれば、無下にはできない。
会議室に通されて待っていたら、二人入ってきた。名刺を頂戴したら購買部長だった。もう一人、購買係長と名刺を差し出して、挨拶も終わらないうちに、二人ともはっとして一瞬後ろに引いてしまった。宮本さんだった。日立精機でニューヨークに駐在していたとき、クリーブランドの客で何度も鉢合わせしていた。池貝鉄工の駐在員でボストンから中西部までサービスに走り回っていた。二人とも下の名前が「ゆたか」でマネージャが工場にでてきて大声で「ユタカ」って呼ぶもんだから、二人ともオレのことかと返事をしていた。お互い真向競合する会社の社員だったが、出先ではそんな会社対会社のことなんか気にすることもなく助け合っていた。
お互いの経緯をざっと話して、なんだそういうことだったのかと笑い話になった。それにしても驚いた。もう十年近くも前にことなのに昨日のことのように覚えていた。
宮本さんとのクリーブランドの思い出が吹き出てきた。こっちはバカなチョンボで、宮本さんは慎重居士の指の間から砂が漏れるようなトラブルで笑い話には事欠かなかった。半田ごてで大笑いして仕事に入った。
ある日、クリーブランドの客でしゃがんで作業していたら、目の前に宮本さんがのそっと立っていた。
「半田ごて貸してくれないかなー」
なに?と思って立ち上がってみたら、右手に半田ごて持ってる。
「えっ、いいのもってんじゃないすかー」
宮本さんが、なぜかバツの悪そうな顔をして、「いや、これ」っていいながら半田ごてを差し出した。
オレが使っているRadio Shackで買ったオモチャとは違う。プロが使うしっかりしたものだった。
「さすが宮本さん、いいの使ってますね」
「いやー、工具箱のなか引っ掻き回したんだけど、先が見つからなくて。貸してくんないかなー」
言われてみてみれば、確かに半田ごての先がない。
宮本さんは、一人でアメリカ東半分をみてきたベテラン駐在員だった。用意がいいというのか、よいしょっていう感じで持ち上げる大きな工具箱には何でも入っていそうだった。何度かモーテルに一緒に泊まったが酒も飲まない、たばこもやらない真面目を絵に描いたような人だった。なんにしても几帳面で抜けなどありえないだろうというのに、なぜか変なところで引っかかってしまういい人だった。
お二人にざっと考えていることをお伝えして、折角のことだからと工場を見せてもらった。部外者が入れるようなところではないが、アメリカ本社にはドライブ・システムを供給している義兄弟、機械を見せたところで、これといった機密が漏れることもない。
部長の佐藤さんは事務屋で技術的なことは宮本さんにお任せということなのだろう、宮本さんが輪転機の輪転機たるキーになるところを説明してくれた。制御盤を開けて見せてもらったとき、この勝負は勝ったと思った。
輪転機の個々の機能の制御のために、日本メーカのPLC(Programmable Logic Controller)をあっちに一台、こっちに一台ともってきて、まるで老舗の旅館の増改築のような込み入った制御システムだった。当時アメリカの制御機器の進化は、日本にいては想像もつかないほど早かった。五年前には、機能ごとにこっちに一台、あっちに一台と機器を積み上げるようにしていたものが、一台で全部できるようになっていた。
やっとリリースした製品でも五年後には新製品に置き換えられて、製造中止になっていることもある。ハードウェアの開発には五年間のソフトウェアの進化に耐える機能と性能が求められていた。
PLCを一台中心において、インバータやサーボシステムも高速通信でつないでいけば、機器の購入コストを大幅に削減できる。システム構成もすっきりして、エンジニアリングコストを下げられるし、後々のメンテナンスも楽になる。
宮本さんにアメリカで提供しているドライブ・システムの概略を説明して、技術上の詳細については技術のご担当の方のご都合をご連絡していていただけるようお願いした。
会議室を出て工場に歩いているとき、先にいく部長との距離をあけて、宮本さんが小声で言った。
「ワシントン・ポストのことも、三菱重工との関係も口にしちゃだめですよ。人の設計はまねるし、銀行から地所まで一緒になってかかってきて、散々煮え湯をのまされてますしねー、ここでは名前を言っただけで反感を買いますから」
クリーブランドで散々お世話になって、十年してまた宮本さんのお世話になって、なんともお礼のしようがない。
翌週、宮本さんから電話がかかってきて、技術部長への紹介の日取りがきまった。工場で見た制御システムは少なくとも五年、中には十年近く遅れていて、周辺にはまだそんなことやってるのかというのもあった。物のコストもシステム開発のコストも、機械との調整やメンテナンスもなにからなにまで圧倒的に優位な立場にいる。ましてやアメリカ本社ではドライブ・システムが標準採用されている。ここまで条件がそろって、相手にされないなんてありえない。採用しなければ、極端にいえば、会社の利益を損ねる背任行為にすらなりかねない。
こんなにおいしいビジネスはないって思いながら、アメリカで提供しているドライブ・システムを紹介しようとしたら、
「そんな話は聞く必要がない」
一切の関与を拒否する、あまりに厳しい言い方にびっくりした。二十歳やそこらのガキでもあるまいし、五十も超えた技術屋の言とは思えない。一体何を考えているのかわからなかった。
どうしたものか、なんと答えたらいいのか考えていたら、小さな、幅五センチほど、長さ二〇センチぐらいのメモ用紙をだしてきた。
なんだ、これって見たら、五〇馬力モータ三台、三五馬力モータ二台……というようなことが手書きで書いてあった。
何を言わんとしているのかと思っていたら、
「輪転機は難しい。十年二十年とやってきてやっとというもので、昨日今日ぽいとでてきて手におえるような代物じゃない。どこかで実績がなければ相手にしようがないし、どこかに実績があるということは競合の仕事をしているということで、うちではお断りしている。まあ、あっちが立てば、こっちがということなんだけど、オレがだせるのはそこに書いてあるまでで、やる気があるんなら見積ってみたら」
気持ちはわかる、という以上に工作機械屋として似たような光景を何度も目にしてきた。コンピュータを応用した制御システムが普及するまで、機械部品――ギアやカムやリンク、ときにはぜネバ機構など――を使って機械を動かしていた。からくり人形ではないが、機械は機械屋の創造と工夫の結晶だった。電気系にしてもモータやスイッチに電磁クラッチぐらいしかない時代が長く続いた。
動力系はもっぱら三相誘導電動機(もっとも一般的な汎用モータ)だった。これが分かりやすい。三相誘導電動機の回転数は電源周波数に比例して、モータの極数に反比例する。極数を半分にできれば、回転数を二倍にできる。これを極数変換という。山の手線に例えれば、一駅飛ばしの二倍速の運転になる。(ただし一駅分の力で二駅分走るようなもので回転する力は半分になる) ただ極数変換は二倍までで、三倍以上は構造が複雑になりすぎて実用にならない。
電源周波数を変える実用にたえる技術がなかったから、ギアを何段もいれて速度を変えてきた。そこにインバータという簡単に周波数を変える重宝なものがでてきて、ギアが減るどころかギアボックスがなくなるなんてことまで起きた。半導体とその集積であるコンピュータの登場によって機械構造が恐ろしいほど簡素化された。技術革新の波にさらわれるように多くの機械技術者が職を追われた。
日本の制御装置を持ってきて五年十年かけて作り上げてきた制御システムには、わが子のような思い入れがあるのだろう。それを義兄弟だからと何も知らないのがある日でてきて、全部捨ててこっちに置き換えろという話だからたまらない。自分がやってきたことを否定されて、はらわたが煮えくり返る思いだったろう。
「出て行けって」って怒鳴られるのもわかる。なんともイヤな役どころだが、「はい、おっしゃる通りです。愚生も機械屋の端くれ、お気持ちはよく分かります」といって引き下がるわけにはいかない。
どうしたものかと思案したが、割り切るしかない。上まで煽ってしかけたプロジェクト。いまさら止めましたとはいえない。ときには分かっていても、やりたくない悪役にまわるしかないこともある。
メコンのマネージメントと日本支社の社長にはCCで、簡単な状況説明とコーポレートレベルの利益を優先しなければならないという判断に基づいて、客の制御担当部長をなんとかしろという要望書をだした。ひとさまの会社の技術の根幹にいる部長の更迭、人のやるこっちゃない。しちゃいけないことと分かってはいる。それは敵前逃亡で軍法会議にかけられるか、それともまだ戦場に残ることを許されるかの二択を迫られているようなものだった。引くにひけない。前にでるしかない。
レイオフされたのかどこかに飛ばされたのか、もう部長と会うことはなかった。これは技術屋だからということではないと思うが、自分の分身ともいえるものでも、次の時代を担う技術やシステムがでてきたら、積極的に検討して計画的に取り入れてゆかなければならない。今まで通りの慣れたやり方に固執していたら、時代から取り残されて終わってしまう。日立精機がタレット旋盤に固執してCNCへの取り組みに遅れた。世界の名門とまで言われた会社だったが、七十二年に就職したときにはもう崩壊が始まっていた。
逃げ切れない大波がきたら、溺れるのを覚悟のうえで波に乗ろうとあえぐしかない。あえいだところで助からないかもしれないが、下手な抵抗をすれば間違いなく溺死する。
野球をやるも相撲をとるのもいい、ただ球場を用意するのも土俵を用意するのも経営陣の仕事で、用意ができてないところでは野球も相撲も、したくてもできない。できるようにするのはあんたらの責任であって、それをこっちに押し付けてくるのは間違っている。
きれいごとをならべて実務は現場に丸投げして、人様の成績をつけるのが仕事と勘違いしている管理職のような経営陣が多すぎる。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
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〔opinion9713:200504〕
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