「コロナウイルスの流行は何をもたらすのか」
- 2020年 5月 5日
- 評論・紹介・意見
- 合澤 清
<特集記事募集:「新型コロナウイルス」蔓延―われわれの生活と世界はどのように変わるのか?>に投稿させていただきます。
このところやっとメディアは重い腰をあげて、安倍政権が「新型コロナウイルス」対策で決定的に出遅れたことへの本格的な批判のメスを入れ始めたようだ。
PCR検査の早期からの徹底と選別治療により、韓国とドイツ、このところでは中国も奏功しているといわれる。それに比べてアメリカ、イギリスそして日本の出遅れがはなはだしく、そのため犠牲者がうなぎ上りに増えている。ただし、日本の統計発表が全く当てにならない(少なすぎる)ことは、諸外国の専門家からも指摘され、批判されている。オリンピックや安倍政権の保身を忖度して検査を遅らせ、罹患者数を操作したのかもしれない。
最初のころは、韓国や中国の発表するデータは虚偽が多くて、あてにならない、などとやたら「ヘイト」的な非難を書きたてていた日本の週刊誌などのメディアも、中国、韓国の実績を見せつけられて、さすがに少々トーンダウンせざるを得なくなっているようだ。
安倍政権のたくらみ=「魂胆」に目を向ける必要がある
しかし、われわれとしては、「新型コロナウイルス」による直接的な打撃もさることながら、この「コロナ騒動」につけ込んで、為政者たちが色々悪辣なことを画策している点にも大いに注意を喚起する必要があると思う。
「コロナ騒動」が起きて以来、安倍政権を取り巻く主要関係者(特に専門家会議の面々)、加藤や西村らの伴食大臣らは、毎日のようにテレビに出ずっぱりである。周囲の知り合いなども「また安倍と小池が出てるよ」とうんざりしながら、急いでチャンネルを切り替えているという。
特にNHKがひどいといわれるが、NHKにはもはや良心的な報道関係者はいないのであろうか。自己保身と利益の「運命共同体」故に、現政権の汚泥にどっぷり身を沈め(「ミーイズム」=自己中心主義に取りつかれ、自己保身、小役人根性、追従(忖度)、俗物、無責任、体制順応)、むしろ嬉々として現政権の存続に積極加担しているように思える。
毎回同じように危機感をあおるのが政治家の役割でもないし、その手の報道を長時間にわたって繰り返し垂れ流すのがニュース報道のまっとうな在り方ではないだろう。
「何か別の魂胆があるのではないのか」「選挙運動をやっているのではないのか」などの疑惑や風評が飛び交うのも無理なしといえる。
そして、つい昨今の安倍の危機管理=「改憲」発言である。「やはりそれが本音だったのか、そのためにあえて検査を遅らせ、国民の危機意識を煽ったのだ」と考えるのは自然であろう。憲法に非常事態条項を盛り込みたいようだが、とんでもない話である。
周知のように、この「緊急事態法」の危険度は、現代史に名を残すものである。かつて1933年、ナチ政権は「国会放火事件」を自作自演したあげく、「国民と国家の危急除去のための法律」(Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich)(いわゆる全権賦与法)を成立させたが、これ以後、国会も憲法も一切機能していない。
日本では、国家非常事態法ともよばれたもので、「治安維持のための特別措置」の布告を内閣総理大臣が発するというものだった。まさに、国家・国民の一元的な統制をしようとするファッショ的な法律である。
「前門の虎」(新型コロナウイルス)を追い払うために、「後門の狼」(緊急事態法宣言)を引き入れることがあってはならないはずなのに、大半の野党が相乗りで「共犯者」になった。嘆かわしい限りだ。
しかも、安倍政権の利権体質は相変わらずで、何ひとつ解明されようとしていない。「モリ・カケ」問題、「観桜会接待費問題」も今だに未解決なまま、今度は「アベノマスク」と揶揄されているものに90億円もの税金をつぎ込んで、しかもかなりの数の不良品が混入したままのものをノーチェックで公明党がらみといわれる株式会社ユースビオ(福島市にある得体のしれないペーパーカンパニー)に発注している。果てしなく腐りきった政権である。
現政権が、このような腐敗体質のまま長続きするのは、批判精神をなくしたメディア報道と、それに簡単に籠絡される従順な国民があったればこそであろう。
「客観的な報道」という名の権力ご追従を許すな
ニーチェは客観的記述というポーズをとる歴史家(ここでは報道関係者と読もう)の無責任体質を次のようにシニカルに非難する(『道徳の系譜』)。
「現代の歴史記述は、総体として鏡であろうとする高貴な自負を有している。この歴史記述はあらゆる目的論を拒否する。それはもはや何物をも証明しようとはしない。それは審判者を演ずることを拒絶する。この点で現代の歴史記述は良い趣味を持っている。それは否定も肯定もしない。ただ確定し、記述する。こうしたことはすべて高度に禁欲的であり、しかし同時に更に高度にニヒリスティックである」
ジャーナリストの渡辺幸重さんがちきゅう座投稿論文(2月3日)の中で鋭く抉りだしていること、「客観的な報道」というお題目の中で、すっかり眠りこけて、ジャーナリスト本来の「批判精神」をすっかり捨て去り、現状を追認している体たらくな有様が、まさにこれである。
マックス・ヴェーバーが指摘している「精神のない専門人、心情のない享楽人」が、当たり前のように徘徊している。こういう社会的風潮をわれわれは許すべきではない。
個別(個人生活への埋没)から普遍(社会的在り方)へと視座を変換するチャンスだ!
われわれが社会を形成して存在している限り、われわれの素朴な生活、つまり自分たちだけの幸せのみを追い求めたいという個人的なささやかな願いとは別に、同時にまた社会と向き合っているのだという側面も機会あるごとに意識にのぼる。つまり、われわれの内には最初から社会的な要因が胚胎されているのである。
戦争、革命、ペスト、大恐慌、あるいは今の「新型コロナウイルス」のパンデミック、更には倒産や解雇や失業などを考えることもできるが、それらの出来事は、われわれの日常生活を一変させ、一気に非=日常生活に結び付ける。そして日常生活と非=日常生活とは、実際には相即不離の関係にあることに気付く。平穏無事という一つの側面にしか目が向かないのは、実は他の面に目をつぶる抽象論に陥っていることだったのだ。
このことを例えばヘーゲルは、『法哲学講義録』のなかの一般に「戦争論」とよばれている個所(§324の補注)で、次のように述べている。
「太平の世にあって庶民的な生き方はさらに膨らみ、あらゆる領域において(自分たちの世界への)とじこもりが起きる(einhausen)、人々は長い間にマンネリになり、個別化(私人化)し、ますます規格人間化し、柔軟さを失っていく。このような個別的な利害領域を理想化していると、それがもとで次のような事態も起こりうる。つまり、危険が出来することだが、(その時になって初めて)平穏無事は日常必ずあるような現象なのではないこと、その否定も現われざるをえないということに気が付くのである」
ナポレオンと同世代(一歳年下)だったヘーゲルが見るところでは、日ごろ教会の説教壇から「命や私有財産などの虚しさ、はかなさ」などと訓示されても、実際には誰ひとりそのリアリティに気づくものはいない。しかし、今、目の前に抜身のサーベルをかざした兵隊が闖入してきたとすれば、たちまちそのことの現実に気づき、パニック状態に陥るのがオチである。
今、われわれが目の前にしているのは、小説の世界などではなく、まぎれもない現実である。自分の命を失うことがありうるということは、言うまでもなく、家屋敷は勿論、折角蓄えた財産や地位や家庭などを永遠に失うことを意味する。
そのことにおびえて戦々恐々とすることの前に、どうすれば自分や家族の、そして人々の命を救うことが出来るのかを考えることが先決である。しかも、こういう現実を前にする時、自分や家族の安全が、地域全体、もっといえば国や世界全体の安全と直結していることに気が付く。そのために何を政治家や行政に働きかけるべきかを熟慮し、自分たちに可能な行動を起こすべきではないだろうか。
更には、これを教訓とした今後の社会のあり方について、改めて自己が社会の一員であることの自覚の上に「何をなすべきか」を考える良い機会にしていければ、「コロナ危機」へのせめてもの人間的反撃となりうるのではないかと思う。
2020.5.5記
〔opinion9721:200505〕
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