阪神・淡路大震災を読み直す
- 2011年 6月 5日
- 時代をみる
- 真鍋祐子
『ほるもん文化8―在日朝鮮人「ふるさと」考』(新幹社、1998年)を流し読みしながら、ある文章に目が留まった。文貞實の「記憶される故郷、あるいは反復される誰かの故郷について・・・」に記された一文である。やや長くなるが、以下に抜粋する。
1995年1月17日のあの大震災直後の救出・救援段階で、確かに、生き残ったものの側では、生と死の経験の共有による「共生」ということばがリアリティを帯びていたのは事実であろう。しかし、あのとき、マスコミがこぞって報じた72年前の「関東大震災」の教訓とはなんだったのか。
1995年の震災では「井戸に毒を盛る朝鮮人」の亡霊は出没しなかった。しかし、「リュックサックを担いだ外国人窃盗団が大挙して神戸にむかっている」という流言が飛び交い、自警団があちらこちらで組織された。(略)ある小学校では、落ち着きを取り戻しはじめた地震から1週間後、自治会のメンバーが「安否確認」を名目に避難所の名簿づくりをはじめた。「あのひとは見かけない顔やね。うちの町内のひとじゃないね」。そういうふうにして、ひとり、またひとりと、野宿労働者が追い出されていった。(以下、略)
震災直後の混乱のなかでも、確かに秩序はあった。ひとつの線引きが生と死を管理したといえる。それは「国民」であること、「住民」であることが、炊き出しに並ぶ条件に、また避難所を占有する要件に含まれていることを意味する。
東日本大震災をへた現在、「共生」を「絆」ということばに読み替えれば、この16年前の神戸の様子は、どこかで見たことのある光景ではないだろうか。自警団の結成と活動、また避難所で自治会リーダーや、避難所となっている小学校の教頭などが「安否確認」のために住民名簿を作成し、秩序だった運営を行なっているなどの情報が、ひところテレビを通じてさかんに報じられ、そこには阪神・淡路大震災のときと同様、いかに日本人が冷静沈着で秩序正しい国民であるかという自讃のニュアンスすら含まれていた。このような秩序のなかで「住民」であること、「国民」であることが生と死を管理したという文の指摘は、考えてみれば当たり前のことなのだが、メディアはこの点にフォーカスしようとせず、国民の多くも報道を当たり前のように受け止めて、これに疑義をさしはむ発想すらもてずにいる。上記した文の論稿に出会うまで、ほかならぬ私自身がそうであった。
そのことに気づくと、今回の大震災をめぐってメディアが垂れ流すさまざまなことば―「東北人は辛抱強い」「東北人は親族・地域社会の結束が強い」から、「絆」「国難」「がんばろう、ニッポン」、さらには「後藤新平」ブームにいたるまで―が、なんとも胡散臭く、薄気味悪いものとして耳に響く。
「東北人」というカテゴリーがいつごろ誕生したかは知らないが、「九州人」ということばとともに、私は学生時代、政治学の授業で語られたあるトピックが忘れられない。戦時中、もっとも強かった軍隊は東北と九州だったという。その理由は、東北人も九州人も貧しく田舎者だったがゆえに失うものが何もなく、純粋だったから、天皇陛下万歳!を叫びながら果敢に敵軍に攻め入ることができたというものだ(確かに肉弾三銃士の故郷は九州である)。ひるがえって、東京人や関西人にはお国のことより自分たちの生活のほうが大切だったので、士気が低かったというのである。当時は「なるほど」と納得しながら聞いていたが、今にしてみれば、これは日本のメディアが北朝鮮の軍隊を語るさいのロジックとまるで同じではないかと気づかされる。戦後、朝鮮特需をきっかけとした高度成長の波に地の利を生かして上手く乗ることのできた九州(特に北部九州)は、貧しく田舎者というかつての九州人イメージからある程度脱却できたのではないだろうか。それに対し、東北人はどうだったか?
むしろ高度成長から取りこぼされた僻地の貧しい人たちの表象として、「東北人」ということばは生き残り続けたのではないだろうか。私がおぼろげに記憶している70年代ごろのメディアにあふれる東北人のイメージは、三ちゃん農業であり、出稼ぎ、集団就職である。また「ああ、上野駅」などの大衆歌謡であり、NHKドラマ「おしん」であり、千昌夫や初期の吉幾三などが自虐的に、しかし極めて戦略的に演じてみせたズーズー弁の田舎臭い響きである。そして、その延長上で、まことしやかに語られてきた神話が「東北人の辛抱強さ、我慢強さ」ということだ。大震災の直後から予感していたとおり、千昌夫は「北国の春」とともにメディアに蘇ってきた。これと示し合わせたように、久しく聞くことのなかった「東北人の我慢強さ、辛抱強さ」というフレーズもまた、被災地や被災者の様子を報じるメディアのなかに蘇り、「絆」ということばとワンセットで美談風に語られる。この状況がなんとも薄気味悪い。
阪神・淡路大震災のキャッチフレーズが「がんばろう、神戸」であったのに対し、今回は当事者に向けた「がんばろう、東北」よりも、「がんばろう、ニッポン」のほうが際立つのはなぜであろうか。なぜ、ことさらに「国難」と称されるのであろうか?
被災者たちを自明性のうちに「東北人」と括ってしまう語り、なかんずくその「絆」を強調し、秩序正しい避難所の様子を報じる語りのなかに、文が指摘したように「住民」ではない、「国民」ではないマイノリティの存在を封印するひとつの暴力性を発見する。
また「辛抱強い/我慢強い」人びととして「東北人」が表象される語りのなかに、忍耐強く愚痴のひとつもこぼさない人びととして「東北人」を他者化する外部者のまなざしが生成され、これが無言の圧力となって被災者たちに、災害だけでなく政府の対応の悪さやマスコミの横暴さなども含めた、彼らをとりまくあらゆる現状に対しての忍従を強制するというもうひとつの暴力性が潜んでいる。
ある講演会で姜尚中氏は、今回の事態は国難ではなく民難であると強調したが、故郷も職場も家財も家族も失った人びと個々の「民難」であるはずの災害が、いつの間に「国難」にすりかえられてしまったのかを深慮するとき、「絆」を大切にしながら秩序正しく困難に耐え乗り越えようとする「辛抱強い/我慢強い東北人」という語りには、空恐ろしいものを感じずにはおられない。避難所の「絆」を「隣組」に、「辛抱強い/我慢強い東北人」を戦時下のスローガン「欲しがりません、勝つまでは」に類比させれば、被災者たち個々がこうむった民難を「国難」と一括して覆い隠し、日の丸をつけたオリンピック選手たちをCMに大量動員しての「がんばろう、ニッポン」キャンペーンにまで敷衍させることは、なにやら「いつか来た道」のように思われてならない。震災の直後から復興税だの消費税切り上げだの、子ども手当の廃止だのが取りざたされることで、東日本がこうむった民難は、ひそかに、だが確実にニッポンの国難へとすりかえられた。「国難」を強調することで民難を政局の具にしようとしている政治家たちに対して、私たちはもっと聡明かつ狡猾な国民にならなくてはならないと思う。またお上の意図に沿った情報と言説を無批判に垂れ流すメディアに対しては疑り深くあらねばならないし、そこに登場する「有識者」たちの肩書に目がくらんではならないのである。
このように一方的に「国難」というくびきを負わされたにもかかわらず、それに気づかない大多数の人びとは、お茶の間で津波の映像と被災地・被災者の様子を眺めつつ、勇気/感動をもらうだの与えるだのの空疎な物語に取り込まれ、メタファーとしての「24時間テレビ」を愉しんでいる。24時間マラソンの走者を武道館で迎えるグランドフィナーレに示されるように、他者の苦しむ姿を高みから視聴して、「負けないで」や「Tomorrow」を歌うことで共苦共感した気になって自己陶酔し、勇気をもらった、感動をありがとう、などと本気で考えてしまう。多分そういうことの始まりは阪神・淡路大震災であり、96年の長野冬季オリンピック以降、98年のフランスW杯を経て、2年おきに繰り返されてきた国威発揚の宴のなかで、「がんばろう、ニッポン」はもはや疑う余地もないほどに当たり前の風景として私たちの日常に浸潤している。今や「国難」はテレビの向こうの被災地の話ではなく、ひたひたと私たちの生活そのものを覆い尽くそうとしているというのに、お茶の間でよそながらに「24時間テレビ」を愉しんでいる場合ではないのだ。
阪神・淡路大震災に「井戸に毒を盛る朝鮮人」の亡霊が現われなかったように、今回の大震災では「リュックサックを担いだ外国人窃盗団」は顕著なかたちでは出現しなかったようである。その代わり、原発事故にともなう諸外国との軋轢(日本製品の輸入規制など)や、汚染水排出に対する周辺諸国からの批判など、「がんばろう、ニッポン」に呼応して、日本の外部に仮想敵を作り出す状況はすでに整っているのである。何に対する「国難」なのかと問われたとき、「国難」を言挙げする人びとにとって、対象はすでに担保されているとみるべきであろう。
以上の点が阪神・淡路大震災との大きな相違であり、かつバージョンアップされた部分である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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