ドクトル・ジバゴ、プレオブラジェンスキー教授、渋沢敬三大蔵大臣―岩田トリアーデ体系論の立場に立って論ず―
- 2020年 6月 2日
- スタディルーム
- 岩田昌征
NHKBSプレミアム、5月5日13時、偶然に映画『ドクトル・ジバゴ』を観た。米伊合作映画のようだ。
党社会主義崩壊後のポーランドや旧ユーゴスラヴィアにおける革命前所有者に国有化された資産(不動産である土地・建物)を返還する社会過程に関心ある私=岩田にとって最も有意味なシーンは、大邸宅をめぐる階級闘争の映像である。
主人公のドクトル・ジバゴは、モスクワに大きな住宅を所有している。第一次大戦のとき、ウクライナ戦線で軍医として働いていたが、十月革命の結果、対独戦が終結し、モスクワに帰る。自宅はすでにボルシェヴィキの民衆に接収管理されていたというより占拠居住されていた。彼等は、十月革命の前は、ドクトル・ジバゴ等、貴族や富豪によって使用されていた老若男女であった。ドクトル・ジバゴが姿を現すと、彼等は、「ここなら、1家族50平米として、13家族が生活できる。」と叫びながら、ジバゴの前線よりの復員帰宅を迎える。
パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』は、社会主義革命の時代を描いた作品であるとはいえ、邸宅接収問題は一つのエピソードにすぎない。それに対して、ミハイル・ブルガーコフの『犬の心臓』は、まさに豪邸接収問題が主題であって、その所有者である医師プレオブラジェンスキー教授がボルシェヴィキによる大住宅分割・貧民居住の要求を知略を駆使して、痛快に打ち破る物語である。
パステルナークのドクトル・ジバゴは、ブルガーコフのプレオブラジェンスキー教授とは正反対の対応を示す。彼は下層民衆の暴力的な要求に反発しない。彼だけではなく、彼の妻も既に自宅の二階の一隅だけに住んでいた。
何年か前、私は、社会評論社社長松田健二氏に、「1945年頃に国有化された大石造集合住宅(カメニツァ)が今になって旧所有者の相続権者に返還され、何十年もの間そこに住んでいた数千家族が追い出されている。納得できない。どう思う。」と話しかけたことがある。その時、松田氏は、「自分が高校生の頃、学校の図書館で『ドクトル・ジバゴ』全4冊を借りて、読み上げた。『資本論』を読む前だ。そこで印象に残った場面は、大金持ちの家屋敷にどんどん住み出してしまうところだ。」と今日のワルシャワで起こっている事件とは真逆の、正反対の社会的事件を教示してくれた。そこで私は近所の区立図書館から工藤正廣訳『ドクトル・ジヴァゴ』(未知谷、平成25年)を借りて、関連個所を調べてみた。小説では映画と違って、民衆ではなくて、農業大学がジバゴ家の邸宅の大部分を使用することになっている。いずれにせよ、ボルシェヴィキ権力による私的所有権の論理を超越した権力行使の結果であることにかわらない。そのような状況に直面して、ドクトル・ジバゴ夫妻は、プレオブラジェンスキー教授とは全く違うふるまいをする。長くなるが、引用しよう。
ジバゴの妻の発言。「わたしにいいプランがあってね。二階のどこか一角を端から分離して、わたしたち、パパ、サーシェニカ、ニューシャが住むの。・・・ひとつながりになっている二、三室に住むの。そして家のその他は完全に放棄するの。」(p.226)
発言の順序は前後するが、ジバゴの発言。「部屋を譲ったというのは、とてもいいことをしたね。ぼくは野戦病院で仕事をしていたけれど、これがまた地主貴族のお屋敷におかれていてね。次々にドアが開くと部屋がどこまでもつづいていて、そこかしこにサロン室がそのまま残っていた。・・・。・・・。ぼくが言いたいのはね、資産家の生活には、ほんとにね、何か不健全なものがあったということだ。底なしに余計なものがある。家じゅうに余計な家具、余計な部屋・・・。狭くなって暮らして、とてもいいことをしたね。しかしまだ不十分だ。もっと少なくていい。」(p.224)
このようなジバゴ夫妻の科白を読むと、同じ共産主義批判の文学作品でも、再私有化(=旧所有者への財産返還)の嵐がおさまらないワルシャワにおいて、『ドクトル・ジバゴ』ではなく、『犬の心臓』のドラマが選ばれて、長期にわたって上演されつづけるのも、納得がいく。
上記の二人は、小説の中の主人公であって、実在の人物ではない。第二次大戦後、私有財産の国家による収用接収が東ヨーロッパで進行していたのと全く同じ時期、日本においても同種の社会変革が起こっていた。言うまでもなく、華族制廃止、農地改革、財閥解体、超高率財産税実行である。その結果、日本の有産者階級は没落した。勿論、それは、日本社会の内部力だけによるものではなく、アメリカ占領軍の威圧の下で行われた。この点で、ユーゴスラヴィアを除く東ヨーロッパ諸国の同時期の変革がソ連「解放軍」の威圧の下で実現されたのと相似である。その後に、資本主義経済の道を歩むか、社会主義的計画経済の道を選択するか、に両者間の相違があった。とは言え、貴族と大有産者階級の消滅という結果は、同じである。
党社会主義体制崩壊後の資本主義復活の歴史的経験は、東ヨーロッパと日本の貴族・有産者階級との間にあるもう一つの質的相違を明るみに出した。東ヨーロッパの旧上流社会は、旧私有財産の完全回復に強くこだわっている。それに対して、日本の旧上流社会は、その種の要求を今さら提起しようとしない。第二次大戦直後の大私有財産接収は、彼らの法観念からして、不当・不正・不法の「三不」であるはずだ。東ヨーロッパの旧所有者・旧上流社会の子孫達は、現在、「三不」是正の闘争を行っているが、日本の旧上流社会の子孫達は、自分達の祖父・祖母の世代が受けた「三不」を忘れているようだ。
ここで、私=岩田は、プレオブラジェンスキー教授やドクトル・ジバゴに対応する一日本人の形象を想い出したい。日本資本主義創成の父渋沢栄一の嫡孫である子爵渋沢敬三だ。有沢広已監修『昭和経済史 中』(日経文庫、平成6年・1994年、p.64)より一文を引用する。
「貧富の差縮めた財産税 財産税を考案したのは渋沢敬三蔵相の時代であった。渋沢栄一の孫に当たる渋沢蔵相は、・・・財政が持たないと考えてこれを推進したのだが、さて御本人も納税の段になると自分の邸宅まで物納するハメにおちいったのである。・・・麻布の大蔵省第一公邸は、実にこの時の物納財産であった。明治の末の和洋折衷の邸宅には渋沢栄一以来の伝統がしみついていたのが、御本人は使用人の住居に引っ越しててんたんたるものがあったそうである。皇室財産も例外とはしないというのがGHQの方針であった。このため全国にあった多くの皇室御料地や御用邸はわずかの例外を残して処分された。その多くは現在では国民のために開放されている。皇室所有の株式や債券も物納、処分された。財産税は明治以来の貧富の差を大きくちぢめた点で画期的な政策であったといえよう。」(第一の強調は原文、第二は岩田)
最後に、上記にある「てんたん(恬淡)たるもの」に正反対の「執着」の実例をセルビアの首都ベオグラードの日刊紙『ポリティカ』(2020年3月19日)投書欄から紹介しよう。
丁度その頃、セルビアにもコロナ禍が猛威を振るい出し始め、国境を封鎖した。そんな状況なのに、「財産返還レスティトゥツィヤは分割払いで」なる投書がラザル・ティモティイェヴィチ氏によってなされた。要約紹介する。
「財産返還庁長官の財産返還が成功裡に進んでいるという判断に反対だ。私は、2006年に父と母の財産を返すように申請した。2012年にも再び申請した。現物返還が不可能な場合、市場評価額の10ないし15パーセントの返還というが、それで国家は債務完済になるのか。不当だ。私有財産を70年以上も使用、ないし悪用しておいて、その10%、15%を支払っただけで済ませるつもりか。最初の分割払いで10~15%、次の分割払いで10~15%、という具合に完済すべきだ。正教会やユダヤ人団体にはほぼ100パーセント返還しているのに、私達には。二重基準だ。」(強調は岩田)
コロナ禍の最中に、70年昔の私有財産の回復に「執着」する。渋沢の「恬淡」と対比されるべきであろう。
全世界的大コロナ禍に投げ込まれて、人間社会は、資本主義においてそれに内在的な自助(私有原理に基づく)だけでは、社会経済生活の再生産が不可能であり、公助(国有原理に基づく)と共助(共有原理に基づく)の大規模発動による補完の必然性が再発見されつつある。要するに社会主義原理の再生である。しかしながら、大コロナ禍が過ぎ去った後、「喉元過ぎれば熱さを忘れる。」の恐れもある。令和の新時代、資本主義者は自己の原理への「恬淡」を学び、社会主義者は自己の原理への「執着」を学び直すことになって、両者間の黄金分割=中庸が実現されるようになって欲しい。
令和2年5月28日(木) 岩田昌征
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1123:200602〕
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