ルネサンス研究所6月定例研究会のお知らせ
- 2020年 6月 4日
- 催し物案内
- 中村勝己
- 新型コロナウイルスの蔓延とグローバリゼーション
◯自然環境の乱開発と新型ウイルス感染症の発生
◯「武漢ウイルス」名称の無意味さと民族排外主義ーー新型コロナは風土病ではないにもかかわらず、なぜこの名称を使う連中がいるのか?ーー民族排外主義右翼の攻勢。
◯「21 世紀の世界の工場」=中国で最初のパンデミックが発生し、これが全世界に拡がったことの意味とインパクト。
◯今や全世界に拡がる中国人ネットワークと「民族大移動」としての帰郷(春節=旧正月)・ツーリズム。
◯グローバリゼーションと新型感染症のパンデミックとが不可分となった時代の到来ーーフーコー生政治=生権力の「後期生政治=生権力」への移行の時代と捉えたい。 - フーコーの『性の歴史』における「生政治=生権力」論と歴史家チポッラの『シラミとトスカナ大公』における「公衆衛生局の隔離権力」論
◯古典主義時代(17~18世紀)に確立する生権力としてフーコーが指摘したのが人間身体の解剖ー政治(学)と人口の生ー政治(学)。
◯ルネサンス期の北イタリア諸国でペストが蔓延した際に登場した公衆衛生局の隔離政策ーーフーコーの想定よりも数百年早く、公衆衛生に介入する生権力が成立していた。
◯いまだ近代的な三権分立が制度的に確立していなかったルネサンス時代の隔離権力は、三権を統合したような性格を帯びた。
◯当時の医学の水準は高くないので、特効薬もなかったが、少なくとも伝染病だということは分かっていたので、とにかく隔離した。そのために必要とされたのが行政への権限集中だった。
◯国民(政治的共同体)の生命・安全・健康が著しく脅かされる事態に直面すると、国家権力は、司法・行政・立法などの機能的分化をやめて、統合権力として行動し始める。これが国民衛生の危機的事態に介入する国家緊急権としての非常事態宣言。
◯通常、近現代社会における非常事態宣言とは、外敵との戦争か国内における内乱の危機に際して発せられることがほとんどだったが、安倍政権が今回非常事態宣言を発したのは、新型インフルエンザ特措法を改正した非常事態宣言条項に依拠し「国家と国民の生命・安全が損なわれないように、期間限定で非常事態を宣言する」という目的だった。
◯新型感染症の蔓延に対処する医療・衛生権力としての非常事態=国家緊急権、すなわち旧い「公衆衛生局の隔離権力」の新しい登場である。 - 安倍政権の非常事態宣言と後期「生政治=生権力」の作動様式
◯非常事態宣言とは何かーー「事実上の、あるいは軍事上の戒厳状態」と「擬制的な、あるいは政治的な戒厳状態」との区別の必要性(アガンベン『例外状態』15頁)。今回の非常事態宣言は後者。
◯大陸法に見られる合囲法の流れと英米法に見られる軍法の流れ。
◯行政府の長=安倍の「私は立法府の長として」発言に見られるような三権統合志向(単なる「言い間違い」ではなかった。安倍は確信犯)。
◯安倍政権の特異性=官邸官僚の存在(首相補佐官など)。
◯「お試し改憲」から「お試し非常事態宣言」へ――非常事態宣言が連発される時代へ。
◯その場合の「医療」とは、「全ての国民の生命・健康を平等に護る」ということではもはやない。ナショナル・ミニマムとしての福祉国家時代の終焉。
◯トリアージが特徴的だと私は見ている。つまり「生かすに値する生命だけを生かし、それ以外の生は死ぬに任せる」という意味での「生政治=生権力」。私はこれを「後期生政治=生権力の時代の到来」と呼ぶ。私たちの生命は、安倍政権から見れば「死ぬに任せる生命」でしかなくなったのかもしれない。「上級国民/下級国民」という言葉の登場。 - 新型コロナ大不況と 29 年大恐慌との対比
◯29年大恐慌に際して「戦争の比喩」を持ち出しつつ非常事態宣言を出したローズヴェルト(ルーズベルト)大統領。
◯米国は大恐慌からの立ち直りに 12 年かかった。しかもそれはニューディール政策の成果ではなく日米戦争勃発による戦時生産増強政策によるもの。
◯ドイツ(ヴァイマル共和国)は、左右に分岐した議会の麻痺を乗り越えるために大統領が緊急令を乱発、ヒトラーの独裁が登場する前に、既に「大統領の独裁」体制を確立してナチスへの道を払い清めた。
◯今回のコロナ禍による実体経済の収縮からの立ち直りは、感染爆発がいつ収束するのかにもより、国にもよるが、やはり 10 年くらいかかるのではないか。当然、立ち直りに失敗する破綻国家も出てくる。そうした国でファシストが政権を掌握し、民族排外主義と帝国主義政策を実行する勢力が力を持つ危険性を考える必要が出てきた。南欧、東欧、アフリカ、中南米、もちろん日本も。
◯今回の民族排外主義のターゲットはユダヤ人ではなくて定住した中国人。「武漢ウイルス」とか喚いている連中がそのお先棒かつぎである。
◯これからの 10 年間は厳しくも激動の時代になるのではないか。1930 年代的な状況が回帰する時代になる可能性がある。29 年大恐慌以降の、米国、独、日の政治経済過程を比較すること。世界経済のブロック化が進行した 1930 年代と、新型コロナの蔓延を防ぐために一時的に導入されている保護主義による事実上の各国鎖国体制が進行する 2020 年代との共通性と異質性を確定する作業が急務である。中村勝己
3か月ぶりに定例研究会を開催します。テーマはこの間、私たちが直面していたコロナ感染危機と緊急事態宣言をどう見るかについてです。
この間のコロナウイルス(covid-19)の世界的な感染拡大は、これまで30年間続いた新自由主義レジームの破綻を示しているのではないか。これまで自由貿易主義のいわば最先端として、中国人観光客を先頭にグローバル・ツーリズムが奨励され、「インバウンド効果」が期待されてきたが、それが破綻してまるで準鎖国体制へと世界中が逆転を始めているかのようである。
新自由主義レジームの下で医療態勢や医療保険制度を切り崩してきた国ほど死者数が多いという結果が出ているのではないか。
また、感染爆発危機への対処として世界各国で(92か国?)緊急事態宣言が導入されている。こうした非常事態宣言の拡大を私たちはどう見るべきなのか。これはあくまでも危機回避のための一時的な措置なのか、それとも「新しい生活様式」をともなった新時代の幕開けなのか。これは「例外状態と生政治」の時代の本格的な到来なのか?
さらに、4月1日の安倍政権による「アベノマスク」配布(1世帯2枚!)の発表以来、露わになった安倍政権の危機管理無能力をどう見るべきか。補償なき休業要請=1億総自粛体制の到来により、自粛=休業しない商店や店舗に嫌がらせをする「自粛警察」が横行しているという。不安に駆られた順応主義者たちが、安倍政権の責任を追及するのではなく、無責任な休業要請に屈しない経営者を迫害しているという構図は実に見苦しい。
安倍政権の無能力により、専門家会議(新型コロナウイルス感染症対策専門家会議)の情報発信力・影響力に注目が集まっている。そして専門家会議の決定や提言をめぐって様々な議論が始まっている。日本のPCR検査は足りているのかいないのか。実際のところ医療態勢は崩壊したのかしなかったのか。「発熱したら4日間は家にいろ」というメッセージは誤解なのか。これらをめぐる論争についてどう考えたら良いのか。
そして米国トランプ政権は、自国のコロナ感染拡大の責任を中国に転嫁する陰謀論を唱え始めた。中国も一歩もひかないだろう。この米中対立の激化はどこまで行くのか? またコロナ大不況はどこに行きつくのか?
こうした多くの論点を出し合って議論を深めていきたいと思います。
(注)この間の安倍政権と小池都政の無能ぶりを見ていると、私たちの健康・生命は極力私たちで守るしかないと痛感させられる日々です。定例研究会へのご参加に際しては、最大限の感染回避の努力をお願い致します。
テーマ:コロナウイルス危機と緊急事態宣言を考える
日 時:2020年6月22日(月)18:00開場、18:30開始
会 場:常圓寺(じょうえんじ・JR新宿駅西口下車徒歩6分 東京都新宿区西新宿7-12-5)
資料代:500円
提題者:菅孝行(劇作家・批評家)
中村勝己(イタリア現代思想・大学非常勤講師)
塩野谷恭輔(宗教学・東京大学大学院生)
政府はどんな新型コロナ対策を打ち出すのか、と観察していたが、政府の「対策」(思惑)と筆者の「対策」とは、そもそも「同床」だったかどうかも怪しいが完全に「異夢」だった。筆者は感染者・患者を「かけがえ」不可能の個人と考えていたが、政府と専門委は、一山十円の頭数と考えていた。この感染症の特性は、感染しても8割は軽症、人にも移さない、残りの2割だけが問題だから、統計的にいえば、多少の悲劇さえネグレクトすれば帳尻が合う、といいうのが政府と政府が委嘱した専門家集団の対策の前提だった。だから、さいたま市の保健所長が口を滑らせて露顕した、医療崩壊を防ぐために検査をしない、という倒錯した方針が生まれたのである。
その結果、政府と専門委はPCR検査の抑制と死者感染者の数値をめぐる徹底した韜晦を貫いた。感染者数は公表するが母集団を明かさなかった。明かせば諸外国より圧倒的に少ないことが露顕するからだ。韓国や台湾は早期のPCR検査の徹底で破局を凌いだ。 37.5℃以上の熱が四日以上続かなければ保健所に行くな、と恫喝まがいの指針を示して置きながら、それを守った患者の死が続出したことが露顕すると、尾身とか釜萢とか専門家委員会のメンバーは、あれは四日も我慢しないで下さいという意味でしたと嘯いた。挙句に「行くな」と取られたのは当方からすれば「国民の誤解」と加藤厚労相がヌカシタ。 不可思議千万なのは、クルーズ船の乗客乗員を足止めしていた頃、加藤が一日四千の検査は可能と国会で答弁したのに公表された一日の検査数は連日百人台だったことだ。一月経って、安倍が一日二万の検査を可能にするといった後でも、一日四千に満たなかった。確かに保健所のキャパは、満杯で過労死しかねまじき苛酷さだったろう。それならばなぜ大学病院や民間機関に検査を委ねず、全ての検査を保健所に集中させたのか。緊急事態宣言が出され、都道府県に個別の対応が委ねられるようになった後、地域の医師会が動いて多少とも検査能力は向上したようだが、それでも、人口10万人当たりの検査数で言えば韓国の二十分の一にも及ぶまい。しかも、困ったことに、感染が広がった後にいまさらPCR検査をひろげても手遅れなのだ。もしもこの国の検査能力は実はその程度だったのだとしたら、政府の検疫体制は完全な失敗だ。能力があるのに検査が阻止されていたのなら、国立感染症研究所や厚労省官僚の沽券や利権と見かけの数に拘る政府の共犯というしかない。 政府支持派は、死者が他国に比して圧倒的に少ないのだから、対策は成功していると擁護するに違いない。だが問題が三つある。一つ、当面死者は少なくても、感染初期からPCR検査をしていないと実態が把握できない。二つ、その結果、抑え込みに成功したと思ったあとで二次感染、三次感染がくる危険が高い。三つ、不審死・変死・別の死因とされた死者たちが、調査から漏れたコロナである可能性を否定できない。 検査の抑止と相関するのが、重症及び中程度の患者の入院ベッド数の抑制である。政府はあろうことか、コロナ禍の渦中に、病床数20万床削減に協力した医療機関への支援の資金の予算を通した。ネオリベ医療政策の禍根は米・英・仏・日の通弊である。もう一つの問題は、軽症者・無症状者を収容する施設確保の遅れである。民間から比較的早くに手を挙げたところがあったが、政府が先手を打って、例えばオリンピック村の開放はじめ、大規模な収容先を確保すべきだったのだ。そうすれば、無残極まる自宅待機中の感染拡大は100%防げた。 なぜ、こうしたことを全てしなかったのか。それは、政府と専門委のコロナ対策の根底に、一見体裁さえ整えば、そのプロセスで出る犠牲者の命は「かけがえ」がきく。つまりどうでもいい、という抜きがたい発想があったからに他なるまい。全ては金勘定との兼ね合いだということだ。 だから政府は休業の「お願い」にも、補償の措置を同時に示すことをしなかった。安倍は休業補償をする国は世界中に一つもないと大ウソをついた。失業補償・休業強制なき自粛要請は、「先進国」では万邦無比だ。これは衰微する国家に相応しい財政不在である。その「ケチ」な政府が危険な「出口」探しをはじめている。 東京高検総長重用の閣議決定を正当化するための検察官定年延長はじめ、「例外状態」下の便乗も許し難い。「9月入学」の是非は子どもの学びの問題である。入試体制、学校制度の根本的再審が必要だ。断じて「国際水準」云々の問題ではない。オリンピックは「延期」ではなく中止すべきだ。ほかの大会は中止にしてオリンピックは別というのは傲慢だと山口香(朝日、5.12)が書いていた。至言である。安倍は「国家緊急権」導入のための改憲を要求している。冗談じゃない。「新しい生き方」を政府のヘゲモニーで決めさせてはならない。菅孝行 5月13日記 |
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