戦争と人種差別
- 2020年 6月 24日
- 評論・紹介・意見
- 人種差別髭郁彦
アメリカで起きた白人警官による黒人男性殺害事件に端を発する黒人人種差別抗議デモは、大きなうねりとなり、アメリカだけでなく、イギリス、オーストラリア、ドイツといった国々にも広がっていった。この差別反対運動には黒人だけではなく、多くの白人も参加しており、また被害者である黒人男性を殺害した白人と同じ職業に就いている多数の警察官も参加している。しかし、何故ドイツでも大規模な抗議デモが起きているのか。私は最初にその点に疑問を持った。更に、抗議デモのニュース画像をいくら見ても人種差別問題に対するアジア諸国での積極的なデモのニュースは殆ど見つけ出すことはできなかった。その理由は何か。それが二番目に思った疑問点であった。 このデモ活動の動きと関連して、私は次のことを思い出した。6月4日は連合国軍がローマに入場した日である。1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の二日前、この年の1月にイタリア本土に上陸していた連合国軍は4カ月に及ぶモンテ・カッシーノの激戦に勝利し、それから約一月後、やっとローマを解放した。編集プロダクションの知り合いに頼まれて、モンテ・カッシーノの戦いについての原稿を書くために、私は文献や動画などの参考資料を漁っていたが、そこで気付いたことがあった。この大激戦に参戦した連合軍はアメリカ軍、イギリス軍、ニュージーランド軍、自由フランス軍、ポーランド軍、南アフリカ軍などであるが、今述べた殆どの国の軍隊には白人以外の多数の有色人兵士が参戦し、それもモンテ・カッシーノ修道院跡など、最も激しい戦闘が繰り広げられた前線に派遣されたのだ。
現在行われている黒人差別反対運動と第二次世界大戦中の白人以外の部隊の激戦地への投入という問題は無関係なものではなく、実は根本的な部分で繋がっているよう私には思われた。それがこのテクストを書く大きな動機となった。
アメリカの黒人部隊
アメリカにおける黒人差別の深刻さを端的に示す歴史的事実がある。第二次世界大戦中に白人と黒人によって混成された部隊が誕生したのはアルデンヌの森の戦いの後、アメリカ軍が大損害を受け、前線で戦う白人兵士が激減した1945年1月のことであった。それまでアメリカ軍部隊はすべて人種別に構成されていた。黒人部隊や日系人部隊では、指揮を執る士官である白人以外はすべて有色人種の兵士であったのだ。また、黒人は能力が劣るとされ、アメリカ空軍で黒人パイロットが誕生するのが1942年7月であったように、黒人兵は前線での戦闘には投入されず、陣地の構築や物資の運搬などの作業のみに従事していたのである。
しかしながら、アメリカにおける黒人部隊の歴史はかなり古い。アメリカの黒人歴史学者ジョン・ホープ・フランクリンンの『人種と歴史―黒人歴史家のみたアメリカ社会』(本田創造監訳;以後サブタイトルは省略する) という本を読むと、アメリカ独立戦争時に5千人余りの黒人が参戦していたことが判る。また、1862年、前年に始まった南北戦争において緒戦の北軍の敗北を受けて、黒人部隊が作られたこともよく知られている。1863年、こうしてできた部隊はアメリカ合衆国有色軍 (USCT) と呼ばれ、南北戦争終了までに17万8千人以上の黒人が兵士として動員され、この戦争終了までに6万8千人以上が戦死や病死している。その後の黒人の大規模な徴兵は第一次世界大戦である。この戦争には35万人余りの黒人兵が動員されたが、先程も述べたように黒人兵は能力が劣るという考えが軍部の主流であったため、前線に送られることがなく、戦死者は約7千人程であった。
2004年の京都大学の『人文学学報』に掲載された田中雅一の「軍隊の文化人類学的研究への視角―米軍の人種政策と トランスナショナルな性格をめぐって―」によれば、第二次世界大戦が始まる1941年のアメリカ軍における黒人兵の数は約125万人であった。だが、軍隊内での黒人兵の能力軽視の考えは変わらず、白人と黒人の混成部隊が誕生するのは上記したように終戦間近の1945年のことである。
第二次世界大戦後の1948年7月、大統領のハリー・トルーマンは「軍隊における処遇と機会の均等についての大統領委員会の設置」を命令し、そこの委員会の報告書に基づき、人種、宗教、出生国などによる部隊分離政策は廃止された。だが、このことによって黒人兵の権利が高まったと考えることはできない。何故なら、ベトナム戦争を例に取っても判ることであるが、田中の論文に示されているようにベトナム戦争に参加した兵士の約10%が黒人であるのに対して、死者約5万8千人の20%が黒人という統計が出ているからである。この結果は黒人兵が最も激しい戦闘が行われる最前線に送られ、消費財として用いられるようになった事実を示しているのだ。しかし、アメリカにおける有色人種の兵士の激戦地への投入が行われたのは黒人兵士に対してだけではない。日系人兵士に対しても行われた歴史が存在している。次のセクションではこのことに関係するモンテ・カッシーノの戦いについて詳しく見ていくこととする。
モンテ・カッシーノに派遣された部隊
このテクストのイントロダクション部分でも書いたが、第二次世界大戦中のイタリア戦線での最大の激戦がモンテ・カッシーノの戦いであるが、この戦いにアメリカ軍は日系二世部隊を始めて投入した。それが第100歩兵大隊である。イタリア戦線連合軍総司令官であるイギリス軍のハロルド・アレグザンダー大将がドイツ軍最強部隊と称賛したドイツ第1降下猟兵師団が守るモンテ・カッシーノ修道院跡での攻防戦だけでなく、この部隊は常に前線に送られ戦った。そのため部隊はイタリア本土上陸時に1300名余りいた兵士が、モンテ・カッシーノの戦い終了後には500名程に激減した。部隊はフランス戦線へと転戦し、ハワイの日系人部隊が増員され、第442連隊となるが、その後も数多くの激戦地に送られた。
ドイツ軍の精鋭部隊である第1降下猟兵師団との4度に及ぶ戦闘に有色人部隊を投入したのはアメリカ軍だけではなかった。第一次攻撃に参加していた自由フランス軍の主力はモロッコ人を中心とする部隊であった。イギリス軍は第二次と第三次攻撃の際に第4インド歩兵師団を投入したが、そこにはインド兵と共に多くのグルカ兵が従軍していた。また、このインド歩兵師団と共に第二次と第三次の攻撃で第1降下猟兵師団と対戦したニュージーランド軍にはマオリ人の部隊が動員されていた。どの有色人部隊も勇敢に戦ったが強力なドイツ軍を前にして、多大な犠牲者を出した。しかし、連合国の各軍隊は多大な犠牲者が出ることを予想できたからこそ有色人部隊を派遣したのではないだろうか。
1991年にイスラエルのベル・フィルムが制作したドキュメンタリー「日系アメリカ人部隊第442連隊」の中で、第442連隊の旧日系人兵士の一人が、何人もの戦友が敵の銃弾に倒れ、死んでいった思い出を語った後、「自分たちは常に捨て駒として使われた」と断言していたが、その言葉は真実であった。アメリカが国家の存亡の危機の時にのみ、有色人の兵士を多数動員し、使い捨てにした歴史は疑い得ぬ事実であるのだ。第二次世界大戦が終わり、日系人部隊がアメリカに帰国し、パレードを行った。そのパレードの後、大統領であるトルーマンは部隊の前に立って、「諸君らは敵だけではなく、偏見とも戦い、勝ったのだ。諸君らは今後も勝ち続けるであろう」と述べた。だが、日系人部隊の元兵士達はその後も多くの差別や偏見に苦しんだ。
アメリカだけではない。モンテ・カッシーノの戦いに投入された多くの有色人兵士達が、戦後、差別や偏見を受けず、人種や国籍などに関係せずに白人同様の権利を獲得することはなかった。植民地主義や奴隷制はシステムとしては消滅したが、社会の隅々まで浸透していた異人種に対する意識は簡単に変化するものではなかった。しかし、植民地などから多くの有色人種が連れて来られたアメリカやイギリスなどの国々とは違い、今、何故ドイツで大規模な人種差別反対運動が起きているのかが私には上手く理解できなかった。
ナチスドイツの中の黒人
この問題について少し調べてみると、ドイツの黒人の歴史は第二次世界戦後に始まったという私の思い込みは完全に誤りであることが判った。BBCニュースを翻訳して配信しているNews Japanというサイトがあるが、その2019年8月7日の記事に「ナチスドイツにいた黒人たち 語られてこなかった存在と迫害」というタイトルのテクストが載っている。そこには「ラインライトの私生児」と呼ばれた黒人ドイツ人の歴史を基にして2018年にアマ・アサンテ監督によって制作されたイギリス映画「16歳、戦火の恋 (Where hands touch)」についての記述がある。
この映画は第一次世界大戦後にラインライトにフランス軍人として駐留したアフリカ出身の黒人兵士とドイツ人女性の間に生まれた混血児の物語である。上記したNews Japanの記事によると、「ラインライトの私生児」は600人から800人いたと言われている。彼らは混血を嫌うナチスの理念に完全に反する人々であった。それゆえ、ナチス政権は1935年にニュールンベルク法を制定し、黒人やロマはドイツ人とは結婚できなくした。ラインライトで生まれた多くの混血児たちは強制不妊手術を受けさせられた。また、何十名かは強制収容所に入れられた。こうしたドイツの黒人の悲惨な歴史を背景として作られた映画がアサンテの「16歳、戦火の恋」である。
物語はヒトラーが政権を取った後のドイツを舞台にしている。地方の偏見の目を逃れ、大都市ベルリンにやって来たシュレーガー家の母と子供二人。長女のレイナが黒人との混血児だったのだ。必死に時代の激流に抵抗する家族。しかし、レイナのあらゆる存在をナチスは否定する。そんなレイナがヒトラーユーゲントの一員である青年ルッツと恋に落ちる。戦争は激烈さを増し、二人の仲はひき裂かれる。ルッツは徴兵され、身分証明書を失ったレイナは強制収容所に送られる。所長である父親の働きかけで強制収容所に配属されたルッツは、そこでレイナに再会する。レイナは二人の子供を自分が宿していることを話す。ルッツは二人で逃げようと言う。だが、レイナはそれを拒む。彼女はルッツに、「外国相手に戦ってるはずなのに私が見るのは―、同胞を殺すドイツ人だけ」と語り、更に、「私はロマじゃない。ユダヤ人でもない。強制収容所にすら私には居場所がない」と語る。黒人であることは、ユダヤ人であることでも、ロマであることでもなく、黒人であることである。その黒人としての存在性を証明するためにレイナは生きる決意をする。
連合軍の侵攻が間近に迫る収容所、ドイツ軍は撤退準備をし、足手纏いとなる収容者は殺されていく。ルッツはレイナと一緒に逃げようとする。だが、そんなことをナチスは許すはずがない。レイナを探すルッツ、ルッツの声に答えるレイナ。二人はお互いに気付き、走り寄ろうとする。その時、ルッツは収容所長の父親が放った銃弾に撃たれ死ぬ。レイナは連合軍兵士に救われる。医療施設で体力を回復した後、離れ離れになった母と弟を見つけ、二人とお腹の中の子供と共に新たな人生を歩んで行こうとするレイナ。
この映画はフィクションであるが、こうした悲劇がドイツには実際に存在していたのだ。その歴史的な意味を、今、ドイツ国民はしっかりと見つめようとしている。今回の人種差別反対デモに参加しているドイツの人々の映像を何度も見るうちに、私はそう感じ始めた。
旧日本軍の先住民族部隊
第二次世界大戦中に先住民族や植民地の人々を前線に送ったのは欧米の国々だけではなかった。日本も朝鮮、台湾といった植民地の人々を徴兵し、戦場に送り込んだだけではなく、先住民のアイヌ人、ニブフ人、ウィルタ人を兵士にした。また、インド国民軍やビルマ防衛軍 (後にビルマ国民軍となる) は日本軍と共に連合軍と戦った。インド国民軍はインパール作戦に4万5千人余りの兵士が参加し、戦闘などによって壊滅的損害を受けている。インドネシアでも郷土防衛義勇軍が当初は日本軍に協力していた。しかし、こうした国々の部隊は日本軍にとっては下級軍団としての意味しかなかったと述べ得る。ここで上記した国々の部隊が旧日本軍内でどのような位置にあったのかという問題を詳細に考察することはできないが、アイヌ人兵士の問題とウィルタ人兵士の問題については少し検討してみたい。
アイヌ人を大規模に傭兵とした歴史は中世からあるようであるが、近世の江戸時代になっても、東北にあった諸藩は兵士として優れた多くのアイヌ人を傭兵としていた。明治維新以後、アイヌ民族の人々も大日本帝国民となったが、そのために彼らにも徴兵令が適応された。日露戦争時の旅順攻略作戦にも複数のアイヌ人兵士が参加しており、第二次世界大戦中は旭川にあった第7師団には多くのアイヌ人兵士が所属していた。そうした兵士は第7師団と共に沖縄戦に投入され、多くのアイヌ人がそこで戦死している。橋本進編、『母と子でみる19:沖縄戦とアイヌ兵士』には、二人のアイヌ人の語った言葉が記述されている。一人は、敗戦前、「自分たちがアイヌ、アイヌとさげすまれながら、そのアイヌが、朝鮮人のことをセンジンとか、ハントウジン (半島人) といってバカにしているのをみたことがある」と語っている。もう一人は、「私らが子どものとき、人間誰一人、わけへだてしちゃいけない、と父や母に教えられたんですよ。 (…) 一本のアキアジを、家族も居候もみんな平等に分けて食べるんです。おひやだって何だって、とにかく平等に分けるんですね」と語っていた。われわれはアイヌ人のこの異なる二つの側面を、目を見開いて、じっと見つめなければならないのではないだろうか。どちらの側面も歴史的真実である。そうだからこそ、そこにある差別と偏見の歴史に晒され続けたアイヌ民族の歴史と真摯な姿勢で向き合わなければならないのではないだろうか。
ウィルタ人は樺太中部に住んでいたツングース系の北方民族であり、戦前の日本では樺太土人とされていた。田中了編、『母と子でみる20:戦争と北方少数民族』の中には、陸軍の特務機関でロシア領での諜報活動を行っていたウィルタ人のダーヒンニェニ・ゲンダース (日本名、北川源太郎) のことが書かれている。日本軍はウィルタ人22名、ニブフ人18名を対ソ諜報活動のために徴用し、ソ連領内を探らせた。戦後、彼らはソ連によってシベリアに抑留され、強制労働に就き、ゲンダース以外はシベリアで死亡した。戦後日本政府府は一貫して、こうした諜報活動を行った北方民族の人々には兵役義務はなく、非公式の徴用であったとしてゲンダースが要求した戦後補償としての軍人恩給支給を拒否してきた。少数民族を使い捨てにしてきた歴史が日本政府のこの態度にはっきりと示されている。
日本の植民地政策や北方民族の歴史から目を背けずその歴史を直視するならば、他民族や他国民に対する差別や偏見を行ってきたのは欧米の国々だけではなかったという事実が明らかになる。われわれはその事実を軽視することなく、強く認識し、その差別と偏見の歴史を問い続けていく必要があるのではないだろうか。
ハンナ・アーレントは『責任と判断』の中で「社会とは、政治的な領域と私的な領域にはさまれた奇妙で、どこか雑種のようなところのある領域である、近代の訪れとともに、ほとんどの人は社会のうちで生涯の大部分を過ごすようになった。わたしたちを壁で囲んで守ってくれる自宅から足を踏みだして、公的な領域のしきいをまたいだ瞬間から、わたしたちが入るのは平等を原則とする政治的な領域ではなく、[差別を原則とする] 社会という領域なのである」(中山元訳) という主張を行っている。社会とは差異の集合体である。社会を形成しているものは、民族、階級、性、出身地、国籍、職業、年齢といったものがまったく異なった構成員であり、社会とはそうした構成員が様々な形で複合された共同体である。それは同一空間内に存在しているということを共通項とした異なる属性を持った人々によって成り立っている集団である。それゆえ、社会に所属している個々人は至る所で他者との差異とぶつかって生きている。だが、そうした事実をわれわれは明確に意識して日常生活を送っているだろうか。そうではなく、同質性の神話に寄り掛かりながら生活しているのではないだろうか。
先程挙げた「16歳、戦火の恋」の中でレイナはルッツに、ユダヤ人であることを隠し続けながらドイツ兵の看守に撃ち殺されたヘルミーネのことを思い出し、「ヘルミーネは死んだわ。自分の出自を隠したまま。私は彼女のためにも生きなきゃ。自分が何者か、きちんと訴えるわ。ここは私の祖国なのよ」とも語っていた。だが、ルッツは自分たちの置かれている現実を直視し、「君は殺される。僕らの子供も」という言葉を泣きながら吐き出した。それでも、レイラは自分の存在性をはっきりと言い切った。「生き残る可能性だってあるわ。私は子供を持つことを禁じられていた。この子と一緒に証明できるわ。私のような人間の存在を。どれだけ否定されても―、私は黒人のドイツ人よ」と。
国家や社会といったものは国民や社会の構成員に対して平等に義務を要求すると共に平等に権利を保証するものでなければならない。そうでなければ、近代以降の民主主義というものの骨格が失われてしまうからだ。しかしこの世界は理想的なものによって成り立ってはいない。「アメリカの黒人部隊のセクション」で触れた『人種と歴史』の中で、フランクリンはアメリカのシステム全体のプラグマティック的側面を「われわれの憲法は、つまるところ、実用的で役に立つ文章である。われわれの経済は、資源を開発し、効果的で効率的な生産の方法を発展させる、実利的なアプローチを反映している。ここでは社会の体制や制度までもが、われわれの実用主義的な志向を証明しているのである」と分析している。こうした傾向は政治的都合によって奴隷解放を行い、兵士が必要になれば有色人種を兵士に仕立て上げてきたアメリカのご都合主義の根本性を明らかにしている。
しかし、アメリカだけがそうなのではない。どのような国家、どのような社会においてもプラグマティック的負の遺産は継承されている。マイノリティーである民族、階級、人種を反社会的で、売国奴で、自分達を敵視する悪と見做し、排除し、否定し、弾圧していく歴史は、多分あらゆる国、あらゆる社会に存在していたであろう。そしてこれからも存在し続ける可能性は大きい。社会も、国家も差異を基に築かれている。それゆえ、その差異を差異として尊重できるコミュニティーを目指していくことがわれわれには必要である。だが、そうした他者との差異を認めることが如何に困難で、同じ間違いが何度も繰り返されてきたかを今回の人種差別抗議デモの広がりは端的に示している。いくらデモを行っても差別や偏見をなくすことは極めて難しい。それでも、動き出した運動が新たな世界を切り開いていく可能性は否定できない。レイナが言った「どれだけ否定されても―、私は黒人のドイツ人よ」という言葉を思い出そう。そう、「どれだけ否定されても、私は私」なのだ。そして、「どれだけ否定されても、あなたはあなた」なのだ。デモ隊の人々の声はこの存在性の真実を叫んでいるのではないだろうか。私はその声にじっと耳を傾けた。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
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〔opinion9873:200624〕
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