「安保反対」とともに「原発は廃止へ」の声 -声なき声の会が6・15集会-
- 2011年 6月 13日
- 評論・紹介・意見
- 60年安保反戦市民の会「声なき声の会」岩垂 弘
51年前の反安保闘争の中で生まれた反戦市民の会「声なき声の会」による恒例の「6・15集会」が、6月12日、東京・池袋の豊島区勤労福祉会館で開かれた。毎年、6月15日の夜に開かれてきたこの集会も、今年は、東日本大震災の影響で会場が確保できず、例年より早い、それも日曜日の午後の開催となった。参加者たちは、これからも日米安保条約反対を掲げて活動を続けてゆくことを申し合わせたが、東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故の直後だけに、集会では「原発の廃止を」といった声が相次いだ。
日米安保条約が結ばれたのは1951年だが、57年に成立した岸信介・自民党内閣は条約改定を急ぎ、日米両政府間で調印された条約改定案(新安保条約)の承認案件を60年に国会に上程した。社会党、総評、平和団体などによって結成された安保改定阻止国民会議が「改定により日本が戦争に巻き込まれる危険性が増す」と改定阻止の運動を起こすと、自民党は5月19日、衆院本会議で承認案件を強行採決。これに抗議して全国から集まった大規模なデモ隊が連日、国会に押しかけた。
デモの中心は労組員と学生だったが、千葉県柏市在住の画家、小林トミさん(当時30歳)らが「普通のおばさんも気軽に参加できるデモをやってみよう」と思い立ち、6月4日、小林さんらは「誰デモ入れる声なき声の会 皆さんおはいり下さい」と書いた横幕を掲げ、国会に近い虎ノ門から国会に向けて歩き出した。
横幕に「声なき声の会」と書き入れたのは、岸首相が抗議デモに対し「私は『声なき声』にも耳を傾けなければならぬと思う。いまのは『声ある声』だけだ」と述べたからだった。
沿道にいた一般市民が次々とデモに入ってきて、解散時には300人以上にふくれあがっていた。小林さんらが提唱したデモはその後も続けられ、参加者は毎回、500人から600人にのぼり、この人たちによって「声なき声の会」が結成された。いわば、無党派市民による反戦グループの誕生だった。
6月15日には、全学連主流派の学生たちが国会南門から国会構内に突入、これを阻止しようとした警官隊と衝突、混乱の中で東大生の樺美智子さんが死亡した。抗議の声が国会を包む中、新安保条約は6月19日に自然承認となった。
翌年の6月15日、小林さんは国会南門を訪れた。前年、そこは樺さんの死を悼む人波とおびただしい花束で埋まっていたが、1年後は閑散としていた。「日本人はなんと熱しやすく冷めやすいことか」と衝撃を受けた小林さんは「日米安保条約に反対する運動があったことと樺さんの死を忘れまい」と誓い、毎年6月15日に声なき声の会の人たちとともに花束を携えて国会南門を訪れるようになった。
その後も、この日を記念する、声なき声の会による6・15集会と国会南門での献花は1年も欠かさずに続けられ、2003年に小林さんが病死してからは、柳下弘壽さん(横浜市)が世話人となって続いている。
51回目となった今年の集会の参加者は、例年より少ない約30人。それでも、秋田や神戸からやって来た人がいた。
この集会は、出席者の全員が自由に発言するというやり方をずっと踏襲しており、何事かを多数決で決めるということはしない。今年は柳下さんの「今年はやむを得ない事情で6月12日の開催となったが、来年はどうするか。やはり6月15日の方がいいか、それとも、集まりやすい他の日にするか」との発言を受けて、開催日について意見を述べ合った。
「私たちに求められているのは安保反対の志だ。その志を持ち続けるなら、6月15日にこだわらなくてもいいのでは」という意見もあったが、「60年の反安保闘争や、その中で亡くなった樺美智子さんに思いをはせるには、やはり6月15日の方がいい。他の日に開催するとなると、記憶があいまいになる」「近年、休日を増やしたいという思惑から、メーデーを5月1日にやらず、他の日にやる労組が現れた。こういう行き方は納得できない。メーデーはやはり5月1日にやるべきで、私たちもこれまで6月15日という日がもってきた意義を忘れないようにしたい」といった意見が多く、来年はまた6月15日に開催する方向に固まった。
開催日に関する発言以外では、やはり福島第一原発事故に関する発言が目立った。
元大学教授(社会思想史専攻)は「60年安保の時、原発は私たちの視野に入っていなかった。5年前の1955年から、原子力発電に向けての動きが始まっていたにもかかわらず、である。この5年間に原子力基本法がつくられたり、米国からウランの売り込みがあった。原発とは、いわば原爆を静かに爆発させるようなものだ。原発と原爆はつながっているのに、私たちは別なものと考えてしまったのだ。私たちは、もっと早くから原発に目を向けるべきだった」と語った。
声なき声の会の古くからの会員(男性)は「なんとしても原発を停めないと。原発が大爆発したら、日本はだれも住めなくなる。日本は島国だから、日本人は逃げるところがない。日本人の3分の2はだめになるだろう。菅首相は浜岡原発を停めた。英断だと思う。世の中の人も、ようやく原発のことが分かってきた。残念ながら、まだ(原発反対が)広がらないが。これから、もっと広がるだろう」と話した。
東京都板橋区の主婦は「チェルノブイリの原発事故以来、原発に関心をもつようになった。福島第一原発の事故後、これまで東京の芝公園で開かれた3回の脱原発デモにいずれも参加した。参加者は1回目が2000人。2回目が4000人。3回目の昨日は6000人だった。脱原発のうねりが出てきたと感じている」と述べた。
さらに、1967年から声なき声の会の活動に参加している反原発活動家の馬場宣明さんは、こう語った。「私は福井の生まれで、福井空襲で町の八割が焼け野原になったのを経験し、そのうえ、福井大地震も経験した。だから、生命を大切にしなくてはと考えるようになった。福島でも今度の事故のようなことが起きるのではと予想していた。このため、これまで、反原発の運動と、自分たちで町づくりをという運動をやってきたわけです」
2008年まで毎年必ず集会に姿をみせていた哲学者で評論家の鶴見俊輔さん(京都)は今年も体調不良で欠席。「そこにいないことが残念です。しかし、この50年は、私の中に生きています」「亡くなった人。いま生きている人。終わりに近い私。すべてをつつむ現代日本。盛会を祈ります。そこにはじまりがあった!」というメッセージを集会に寄せた。
集会後、参加者たちは国会南門を訪れて門に花束を供え、故樺美智子さんを偲んで黙とうした。
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