河村哲二氏のアメリカ戦時経済体制論と20世紀最後の年の対セルビア大空爆
- 2020年 9月 28日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
昭和16年(1941年)12月1日の午前会議で、陸軍開戦派だけでなく、宮中和平派や海軍避戦派も、対米戦争へ決意させたもの、それはハルノートであった。仮にだが、大日本帝国がハルノートを受託していたならば、あの不幸な大東亜戦争は起こらなかったであろうか。
ここで、1999年3月24日の米英主導による対セルビア戦争=78日間連続大空襲の開始を考えてみよう。1999年2月に新ユーゴ(セルビアとモンテネグロからなる)は、セルビア共和国のコソボ自治州の独立問題で北米西欧と交渉していた。日米交渉におけるハルノートに当たる政治的解決文書に関しては、セルビアはギリギリのところで呑んでいた。交渉最後の日に政治的解決の合意事項を実際に実行するための付属文書Bが突然つきつけられた。25ページにわたる文書Bに次の一文があった。「NATO軍はコソボに入るだけでなく新ユーゴの領域に自由に入り、あらゆる施設・便宜を自由に使用でき、そこで起こるかもしれないNATO軍の事故・犯罪は一切免責され、またNATO軍は全ての金銭的義務から解放される。新ユーゴのどこにでも野営でき、民間の家庭にも自由に泊まれる」。
セルビアは挙国一致でその文書Bへの署名を拒否しました。もちろん一部の親欧米派のNGOを除いて。
日米開戦問題に当てはめれば、文書Bのコソボの所に「中国・インドシナの日本軍占領地」が、「新ユーゴ」のところに「日本帝国」が、「NATO軍」のところに「米軍」が書き込まれた文書が、ハルノート受託に続いて手交されたようなものです。当然、日本帝国はセルビア以上に挙国一致でかかる文書を拒絶したであろう。ハルノートの要求の実現を保証するために米軍の日本列島駐留を認めようというわけですから。私=岩田の著書『20世紀崩壊とユーゴスラビア戦争 日本異論派の言立(ことだて)』(御茶の水書房、2010年、pp.173-174)において、同趣旨の一文を書いている。
令和2年9月26日世界資本主義フォーラムの河村哲二氏報告によって、アメリカの戦時経済体制の構築が、1940年以来着々と進展して、参戦と同時に一斉に始動できる状態にあったことを教えられた。マルクス経済学の活力を示してくれている。政府の提示する戦時経済体制の数多くの図表・グラフ・統計を見ていると、当時のアメリカ体制にとって、参戦だけが不足していたのだと納得する。
当時の日本帝国エリートにアメリカの工業力や軍事的潜在力の巨大さを知る者はいたとしても、果たして今日河村氏が解明したような、戦時経済体制の回転性能を読んでいた者がいたであろうか。ハルノートを受託したとしても、日米戦争は避けられなかったろう、という私の歴史的if論が、河村氏のアメリカ政治経済システムの分析によって支えられた。日本帝国は連合艦隊があったが故に先制攻撃に走ったが、人口700万人のセルビアにとっては、生殺しの大空襲を座して待つしかなかった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10147:200928〕
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