陰湿な公安体質を暴露した菅義偉
- 2020年 10月 8日
- 時代をみる
- スガ右翼学術会議盛田常夫
公安体質
学術会議会員推薦で6名が任命拒否された。内閣府は学術会議からの推薦名簿をそのまま官邸に送ったというから、選別は官邸サイドで実行された。官邸サイドが個々の学者の業績を判断できるわけがない。にもかかわらず、特定人物の任命を拒否したのは、公安警察の情報にもとづく、思想・政治的主張を判断した結果による拒否権発動である。もし警察庁が学者個々人の思想や信条を調査し、それを官邸に報告しているとすれば、重大な人権侵害である。官邸には安倍政権の政策を批判した学者・知識人のリストが届けられているのだろう。首相の指示にもとづいて、官邸の首相補佐官がそのリストと推薦名簿を照らし合わせて、政権に好ましくない人物の任命を拒否したというのが真実である。官邸の警察官僚や補佐官たちは戦前の公安警察、特別高等警察の役割を担っている。何ともアナクロな世界である。
菅義偉は官房長官時代から警察官僚との深い繋がりがある。伊藤詩織さん事件の逮捕状取消を指示したのは、「アベノヨイショ」本で安倍政権誕生に貢献した元TBS記者山口敬之を助けるためだ。元部下の中村格(警視庁刑事部長)に指示したのは菅官房長官以外にありえない。まさに、小沢一郎が指摘しているように、「安倍政権は一言で言うなら『幼稚』、菅政権は『陰湿』」である。左派嫌いの「幼稚な」思想の持ち主である安倍晋三が公安情報を集中させ、番頭の菅官房長官が取り仕切りの役を担った。この醜い安倍亡霊政権に高い支持を与えている国民はいったい何を規準に政治家を判断しているのだろうか。
思想や良心を理由に差別することは憲法違反
この問題が公になって以来、いろいろな人物が論評を加えているが、政権の判断を擁護する人々の論調は、問題の本質を問わず、学術会議の存立に疑問を投げかけるものばかりである。任命拒否の問題と学術会議の存立意義の問題はまったく異なる次元の事柄である。にもかかわらず、「存立意義に疑問があるから」と問題の本質を意識的に無視し、暗黙のうちに官邸の判断を支持するのは、最初からその魂胆が見えている。高橋洋一のように、「アベノヨイショ」から「スガノヨイショ」に移行して、政府の覚えが目出度いようにしたいという卑しい根性が丸見えである。橋下徹は政治的な繋がりから管政権を擁護するために学術会議の存立意義に疑問を呈しながら、他方で官邸は任命拒否理由を明らかにすべきと歯切れが悪い。政治的理由で任命拒否したことを官邸が認めるはずがない。そういう官邸にたいして、橋下は正論を吐けるだけの度量があるのか。
学術業績にもとづく判断を行わず、学者個人の思想や政治的意見を理由に任命拒否するのは、思想・良心による差別を禁止する憲法に違反する行為である。だから、官邸は任命拒否の理由を明らかにできない。できるはずがない。「公安情報にもとづいて、安倍政権の政策を批判した学者を排除した」とは口が裂けても言えない。
こういうことを平気で行う菅政権は、他の分野にも口だしすることになる。政権に批判的な言動は許さないというのは、中国と同じではないか。政権に批判的な人物を公職追放するのは、戦前の特高体質丸出しの「赤狩り」である。
予算問題にすり替え
もうひとつの議論は、事の本質を議論せず、10億円の予算を付ける意味があるかという議論へのすり替えである。安倍晋三がリオ五輪で、スーパーマリオに扮して登場した数分間のパフォーマンスに、10億円以上の予算が使われた。この無駄遣いに比べれば、210名の会員を抱える組織の運営費用は安いものである。「アベノマスク」の巨額の無駄遣いとは比べようもない。
予算がつぎ込まれているから、「政治的主張や思想で差別しても構わない」という論理は成り立たない。高橋洋一に代表されるような「スガノヨイショ」はこの本質的問題に触れることなく、予算で維持されている組織の任命は、政権の政策を支持するか否かで決めることができると主張しているのと同じである。彼らにはそもそも、思想や良心の自由という観念がない。政権を「ヨイショ」することに生きがいを感じている俗物である。
しかも、フジテレビの「バイキングmore」で平井文夫解説委員は、学士院と学術会議を混同して、「学術会議会員は辞めたら学士院会員になって年金250万円をもらう特権者」というフェイクニュースを流す始末である。政権擁護に逸(はや)るあまりに、無知をさらけ出している。学士院と学術会議は何の組織関係もない。
思想も理念もない「ただの右翼」
菅義偉は確固とした思想も理念ももたない単純な右翼である。確固とした思想のない右翼は怖い。理性の抑制が利かないからだ。大学紛争時代の法政大学ではまともな授業や試験が行われてこなかった。私が法政大学に赴任したのは1975年で、他大学は正常に授業を行っていたが、法政大学や明治大学は依然として中核派と革マル派のゲバ舞台になっており、1980年代に入ってもまともに中間試験や期末試験ができなかった。試験が始まると同時に、ヘルメット部隊がバルサンを炊き、教室にペンキをまき散らし、大学はロックアウトを宣言するという時代が、1960年代終わりから20年以上続いた。筆記試験は行われず、レポート提出で採点が行われてきた。これでは不正がまかり通る。
そういう混乱期の法政大学に入学して、学生運動とは無縁の空手部で学生生活を送ったのが菅義偉である。いわば体育会系の右翼である。彼自身は法学部の一部入学か二部入学かを明言していないが、卒業は一部卒業である。二部に入学して、2年時あるいは3年時に一部に転籍するのは難しくなかった。スポーツ入学で二部に入った選手の多くは、そうやって一部に編入して卒業した。実際に単位を取って卒業したかどうかは分からない。当時は、学生部や体育会OBが、事後的に単位を取らせるために教員に頭を下げて、説得するために奔走していた。
いずれにしても、1960年代後半から1980年代にかけて、法政大学は十分な教育活動を行っていたとは言い難い。自分で勉強しなかった者は、何も学ぶことなく大学を卒業した。菅義偉は卒業してほどなく、小此木議員の書生になったから、根っからの「政治屋」である。たいした勉強もしていないから、確固とした思想や理念を持っていない。政界を泳ぎ渡っているだけの人物である。そのことは自民党内の常識である。確固とした思想や理念がないという点では、「左翼、憎し」の幼稚な思い込みだけが先行している安倍晋三と大差ない。
だから、菅の言動は限りなく無内容である。官房長官時代、菅が使用した文言は、「適切に処理されている」、「私は承知していない」、「すでに資料は廃棄されており、知る手立てがない」、「そういう見方は当たらない」、「担当部局は適切に処理していると聞いている」、「懇切丁寧な説明に努めたい」という慣用句を繰り返すばかりで、積極的に自らの見解を披露したことは一度もない。逃げの言葉だけが繰り返されていた。
そういう人物が一国の宰相になり、国民が圧倒的な支持を与えている日本はいったいどうなっているのだろうか。
啓蒙君主制の紐帯から抜け出せない日本人
菅政権の任命拒否に賛同する人々は、「お上に背くことは非国民」という根強い日本社会の後進性に囚われている。こういう人々がコロナ災禍の自主警察になる。隣組による相互監視や自主警察の横行は、戦前の封建社会の名残である。21世紀になっても日本社会は封建的な村社会から脱却できないでいる。
「政府の政策を批判してはならない」、「批判するなら政府からお金をもらうな」という政権擁護の合唱は民主主義とは程遠い。村社会が生きている限り、日本はまだ民主主義国家とは言えない。人々の精神構造は、天皇制国家時代の精神から本質的な変化を遂げていない。「お上が与え、臣民がありがたく頂戴する」という卑屈な姿勢は、21世紀になっても本質的な変化なしに、日本社会を貫いている。
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