『巨匠』、解釈だったんだ
- 2020年 10月 30日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
鶴見俊輔をいくつか読んで、ここは気分転換に加藤周一でも読んでみるかと、図書館で『語りおくこといくつか』を借りてきた。読んでいったら、江藤文夫との対談がでてきた。加藤周一も何冊か読んだことがあるだけで、江藤文夫にいたっては、名前すら聞いたことがなかった。
対談のなかで、江藤文夫が『巨匠』をもちだした。加藤周一がそれを受けて、もしかしたら事前準備?と思わせる程、愉しい話が進んでいった。似たもの同士の話のからみあいが生む自然な熱さがきもちいい。対談はこうじゃなきゃというものだった。そこで、はじめて『巨匠』という演劇(?)があることを知った。
「巨匠」が気になってWebで漁ってみた。対談とWebで知り得たことは大まか下記の通り。
ナチスの迫害を恐れて老俳優と女教師、前町長にピアニスト、医師の五人が町の廃校に潜んでいた。そこにゲシュタポの将校が部下を連れてのりこんできた。鉄道爆破事件の報復処置として四人の知識人を処刑すると宣告した。手にした職業リストと身分証明書から一人ずつ銃殺にする人を選んでいった。薄記係と書かれた身分証明書をみて、老俳優を候補から外した。老俳優、若い時にドサ回りの劇団で俳優を目指してはいたが、俳優という俳優にはなれなかった。自称俳優ということで、周囲から冷やかし半分で「巨匠」と呼ばれていたが、誰も目にも簿記係にしか見えなかった。
身分証明書にも簿記係と書いてあるんだし、おとなしくしていればいいのに、
「オレは俳優だ。このご時世で仕事がなかったから簿記係の仕事をしているだけだ」
と主張した。俳優は立派な知識人。俳優となれば、銃殺を免れない。
それを聞いた将校が半信半疑で、そこまでいうのならここで「マクベス」の一幕でも演じて見せてみろと言った。
老俳優、一世一代のマクベスを演じきった。
将校をはじめ、「巨匠」と呼んで馬鹿にしていた人たちも、固唾をのんで「巨匠のマクベス」をみた。四人選んだ中から前町長を老俳優と入れ替えた。喰えない俳優にしかなれなかった老俳優が死をもってして「巨匠」になった。
「巨匠」というのが演劇なのか、オリジナルは演劇だとしても小説や映画になっているのかもしれない。そもそも原作者は誰なのか。日本語で「巨匠」といっているが、原題はなんなのか。ゲシュタポがでてくるから、時は第二次大戦中に間違いないが、場所は、国はどこなのか。俳優が知識人と評価されているから、ポーランドかチェコかどこか東ヨーロッパのどこかの可能性が高い。
Webで漁ったプロセスも含めて知り得たことをもう一度まとめると次のようになる。
1)Google Chromeで「巨匠」を検索したら、下記がでてきた。
名演2004年6月例会 劇団民藝公演
http://www.ne.jp/asahi/meien/na/r2004/0406.html
巨匠
ジスワフ・スコヴロンスキ作「巨匠」に拠る
作/木下順二 演出/守分寿男
2)「ジスワフ・スコヴロンスキ ポーランド語」と入力して検索したら、
「Jisław Skovronski」がでてきた。
3)Google翻訳で「巨匠」をポーランド語に訳したら、「Mistrz」がでてきた。
4)Google Chromeに「Jisław Skovronski Mistrz」と入力して検索したら、下記がでてきた。
「マスター」-テレビシアターの歴史の中で最高のパフォーマンスの一つ
„Mistrz” – wśród najlepszych przedstawień w historii Teatru TV
5)ポーランド語で読めないから、Google翻訳で日本語に翻訳した。
シアターマスター
リシャルトKopplerの利益の一部として8月に、ポーランドのバンクーバーシアター「ワークショップにかかった」ZdzisławSkowroński、「マスター」による演劇 1999年にあったテレビ劇場の歴史の中で百の最高の演劇のリストテレビ劇場のアカデミーで選択し、バンクーバーポロニアのリザードコップリンガーを紹介する必要はありません。したがって、この素晴らしい芸術の作者は、環境にもっと近づけられるべきです。
ZdzisławSkowroński(1909年3月 21日、リヴィウ近郊のサンボール生まれ-1969年10月30日、ワルシャワで死去)
彼は作家兼脚本家でしたが、1935年にヤゲロニア大学法学部を卒業しました。戦前、彼はクラクフの社会保険機関で働いていました。それから彼は軍に加わりました-彼は9月のキャンペーンに参加しました。彼はグロスボルン・オフラグに来て、そこでレオン・クルチコフスキーとヨーゼフ・スウォトウィスキーとともに、捕虜劇場を設立しました。
彼の最初の劇的な作品はそこで作られました。戦後、1947年から55年にかけて、大統領官邸文化教育局の副局長、その後(1955-63年)ワルシャワの古典劇場の文学監督、そして1964年から69年には、映画グループのイルジジョンの文学監督を務めました。彼は数多くの舞台やテレビの演劇、映画の脚本、映画の台詞の著者でした。
私たちは主にコメディの作者としてZdzisławSkowrońskiを知っています。監督の名前の日に、著者は「高校卒業」で偽善と日和見主義を非難します-人々を指揮し、いわゆるニス塗り、および「Kugelers」-クリシェとコンビネーター。
しかし、「マスター」でスコウロンスキーは別のトピックに到達しました。彼は彼女を別の言い方にした。彼は彼の前に創造的なスキルに関する心理的な問題を設定しました。若い俳優はマクベスの役割に備える。スペクタクルの監督は、短剣を使った有名な独白のせいで彼を責めます。俳優は演じるとき、「彼が見る幽霊を殺したい」という印象を与え、監督のコンセプトを台無しにします。しかし、俳優は彼に「マスター」というタイトルを祝う必要性を感じているので、彼は強く主張しています。彼はそれについて監督に話します。ワルシャワ蜂起後の1944年です。
若い俳優(当時、演技学校を卒業していなかった。彼の教育は戦争の勃発によって中断されたためだった)は、輸送から脱出した後、ワルシャワ近くの都市の1つに行き、教師のソフィアコワルスカの家に行った。ワルシャワからの難民も彼女と一緒に避難所を見つけ、その中には「俳優」-古い俳優がいます。戦争が始まる直前に、彼は人生で最初の主要な役割を果たす機会がありました。彼は若者に劇場について話します。彼はマクベスが戦後に活躍するだろうと信じ、3年間この役割に取り組んできました。
彼はこの芸術の翻訳のコレクションを持っており、彼の年齢に合わせて彼自身のコンセプトを開発しました。その間、ゲシュタポは線路を爆破した罪人を探しています (当時、若い俳優はなんとか脱出した。)ドイツ人は家にいる人の中から人質を奪う。ケンカルテの「マスター」は簿記係(会計士)のように見えるため、当初は考慮されていません。しかし、その古い俳優は、彼がなんとしてでも芸術家であることを証明したいと考えています。この目的のために、ゲシュタポの男性の要請により、彼は短剣を使ってモノローグを演奏します。ドイツは確かに、彼は俳優であり、「マスター」は人質の壁の下の常連客の代わりに-教師、医者、ピアニストと一緒にいると述べています。人質は撃たれ、若い俳優は歩き回ります。
この物語に感動して、監督は若い俳優がマクベスの役割を彼が望むように演じることを許可します。
イェジー・アントザックはこの劇をテレビシアターで監督しました。初演は1964年11月に行われた。後期の役割は故ヤヌス・ワルネツキが演じた。リサード・ハニン、イグナシー・ゴゴレフスキー、ヘンリク・ボロウスキー、ズビグニエフ・シブルスキ、イゴール・シュミャウスキ、アンジェイ・チャルネッキも出演
2年後、別のバージョンが作成され、すでにフィルムカメラで録画されています。その後、イェジー・アンツァクはズジスワフ・スコウロンスキーの脚本に再び手を伸ばし、ベオグラードの「マスター」に気付きました。
1966年、「マスター」はラジオとテレビのフェスティバル「プリックスイタリア」で賞を受賞しました。
Google Translatorの機械翻訳で、分かったような分からないようなですっきりしない。木下順二という名前から、『巨匠』(一九九一年一〇月刊、福武書店)を見つけて、図書館で借りてきた。念のためというとちょっと語弊があるが、機械翻訳なんかに頼らなくても、立派な演出家が『巨匠』について書いているじゃないか。なにを面倒なことをやったんだろうと反省しきりだった。
ところが本を読んでいって、反省?なんのと思いだした。演出家と素人の視点の違いと言い切ってしまうのがちょっと怖いぐらい、Webで調べた方が充実して(と思って)いる。
借りてきた本の気になる個所を抜粋しておく。
「六七年に日本で放映された。向こうでつくったのと、それほど時間は離れていないはすだ。僕はそれをテレヴィジョンで見てすぐにNHKから台本を貸してもらったの。そしたら、台本にも、画面に出てくるシューパーインポーズ(字幕の言葉)しかないのね。テレヴィジョンのシューパーインポーズというのは一画面二十文字以内だからということになっているようで、本当の台詞はわからないわけ」
「ぼくはポーランド語はわからないから――を見ると、どうも辻褄があわないんだよ。それで、民藝の演出者の内山鶉くんがポーランド語できないのに一語一語字引で引いて訳し直したんだ。それでもいろいろ解釈不可能な、辻褄のあわないようなことが出てくるので、ぼくはそれにぼくなりに統一を与えて、そうして今の日本に当てはめてということで書き直したんだ。だから戯曲の最初に「ジスワフ・スコブロンスキ作『巨匠』に拠る」というサブタイトルをつけた」
辻褄があわない、よくわからないから、ぼくなりに統一を与えて、今の日本に当てはめてということだったんだ。
そりゃそうで、かつて彼の地の文化が生み出したものをそのまま今の日本に持ってきても、辻褄なんか合うわけがない。
同時代に生きていて遭遇することは事実だと思っているが、立場や思い込みの違いから、人ぞれぞれの事実がある。ましてや歴史上の彼の地のこと、事実云々も欠かせないが、人それぞれの解釈から始まらざるをえない。考えてみれば、当たり前。何を読んでも聞いても解釈かもと考えだすと、ありがたみが薄れるというのか、信奉するなんてとんでもないことじゃないかと思いだす。ちまたの巨匠と言われる人や歴史上の偉人や大先生のおっしゃることも、極端にいえば、その人たち個人個人の解釈なのかもしれない。それを金科玉条の教義として? 十分ありそうな気がする。
2020/10/4
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10244:201030〕
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