いま改めて、三砂ちづる『不機嫌な夫婦』への批判 ―揺らぎのなかの「性」「男/女」「父性/母性」
- 2020年 10月 31日
- 時代をみる
- 子育て母性池田祥子
菅義偉首相の漸くの所信表明では、日本学術会議委員6名の任命拒否についての説明は一貫して曖昧なまま、「少子化対策」として、新婚世帯への補助金額の増額や、不妊治療への保険適用などが示された。
新婚世帯にはこれまでの上限30万円を60万円に引き上げ、対象年齢も、晩婚化を考慮して34歳以下だったものを「39歳以下」に弛めるというのである。また不妊治療に関しては、確かに現状では、体外受精、顕微授精による不妊治療で生まれた子どもは、2018年、5万6979人、総治療件数は45万4893件、いずれも過去最多になっている。さらに、通院開始からの治療費総額が100万円以上になる人は56%を占め、「授かるまでに400万円」「6年間の総額2000万円」(出産は諦めた)という事例も報告されている。
補助金額の増額や保険適用による費用の減額は、該当者にとってはもちろん、反対する者はほとんどいないだろう。さっそく10月30日の新聞には、不妊治療を諦めた保育士(54歳)からの歓迎の投書が掲載されている(朝日新聞)。
しかし、2020年の国勢調査の結果は今しばらく時間がかかるであろうが、これまでにもすでに示されている男性だけでなく女性も含めた「未婚化」、さらには出生数自体の減少は、一層進んでいるだろうと推測される。その意味では、今という時点で、「少子化」の現実の何を憂うべきなのか、「未婚」が増え、子どもの出産数が減少するのは何が真の原因なのか、それはなぜ問題なのか・・・を、深く問うことが求められていると思う。そのような丁寧な検討を抜きに、次々に「お金」の減額が打ち出されても、それは逆に「政治の無思想」を感じさせられ、逆に「お金の無駄遣い」とさえ思ってしまうのである。
そのような悪態をつく私自身の責任として、これからも、もう少し日本の「男/女」「結婚」「家族」の問題に関わり続けなければならないだろう。
三砂ちづるの「母性」に、なお抱く疑問
三砂ちづるには『オニババ化する女たち』(光文社、2004)という著作がある。ここでは、かつて(日本の戦前および戦後しばらく?)の女たちの生理やお産の経験、言い換えれば「からだに自然に向き合う習性」などが述べられていて、現代の医学や科学、あるいは経済効率などに支配される極めて「人工的な女の身体とその現状」への批判が述べられている。私は、その限りでは興味深く読んだし、重要な指摘も少なくないと評価はしている。
しかし、本棚からたまたま引き出した『不機嫌な夫婦』(朝日新書、2012)を読み直していると、三砂の繰り返す「自然」や「本能」がどうしても気になってきた。三砂の強調する「母性」もまた要注意なのではないか、と思ってしまったのである。
本書の中で、次のような記述がある。
― ブラジルに10年いて、子どもを育てて日本に帰ってきて、一番最初に気づいたのはお母さんがすごい勢いで、しかも2歳とか3歳のまだ年端もいかない子を怒るということでした(p.113)。
― 私たち現代の母親は、間引きはしませんし、命を奪うわけではありませんが、緩慢に子どものどこか大切な部分を殺しているとはいえないでしょうか(p.114)。
本書の刊行からほぼ10年、以上のような現象は加速していることはあっても、現代でもいささかも減少してはいなさそうである。母親・父親たちの信じがたいほどの「児童虐待」のニュースも後を絶たない。なぜ、現代では「子育て」自体が、親たちに「ゆったりとした楽しみ」ではなく、まるで「強迫的な仕事」のようになっているのだろう。多くの人が胸を痛め、そしてその原因をまじめに考えているのは事実であろう。
しかし、三砂ちづるは、結論として「やっぱり母親次第です。生まれた子どもを本当に生かすも殺すも、良く育てるも育てないも結局は、そのお母さんにかかっているのです」(p.136)と言うのである。
現代の多様な性、たとえば「LGBT」などへの配慮や、「男性の中の母性」への理解も示しながら、最後は「本能としての母性」の復権へと立ち返るのである。
以上のように三砂への批判を述べると、すぐさま逆に笑われるかもしれない。何をいまさら、と。なぜならプロローグの文頭でしっかりと三砂は述べているではないか、と。
― なぜ女たちは「本能」を忘れたのか。この本の副題です。いかにも多くの方から反発がありそうなひとことです。実は、「なぜ女たちは母性を失ったのか」という副題にしたかったのです。おそらく、そちらのほうが、もっと反発をよびそうです。「母性」というのは、制度的に、イデオロギーとして女性に押し付けられたものであり、本来は、ないのである、というのが現在、いちばん通りのよい考え方であるからです(p.⒓)。
三砂はいろいろ述べてはいるが、結局は「母性は本能」と信じて疑わず、現代の「本能としての母性」を何とかして復活させようとしているのだった。
現代社会の「男/女」のあり様や、子どもたちの状況に頭や胸を悩ましているのは、おそらく多くの人に共通しているだろう。
しかし、なぜ三砂は「本能」というものに絶対的な手がかりを求められるのだろう。
確かに、生物界では二つの性による生殖は、普遍的に見られる現象ではある。ただ、「社会」や「歴史」のほとんど介在しない生物界でも、そのあり様はまさしく多様である。カマキリは交尾の後、メスはオスを丸ごと食べてしまうケースもある。オスの体がタンパク源とアミノ酸源となり、通常の2倍の卵を産むことができるからだという。日本にも見られるカバキコバチグモの子グモは、1回目の脱皮が済むと一斉に生きている母グモに取りついて、体液を吸い取ってしまうのだそうだ。母グモは30分程度で絶命するのだと。一方、テレビの「アニマルプラネット」で紹介されていたが、イエローヘッドジョーフィッシュは、オスが口で巣穴を掘り、交尾の後、口の中で100個以上の卵を育てるとのことだ。子どもが孵化するまで、オス(父親)は食事を断ち、危険を察知するや巣穴に隠れてしまうという。
このように、自然界では「父性/母性」のあり様は実にさまざま、多様である。おそらく、人間界でははるかな昔から、「母性」という観念が創り上げられ、男性にとっても女性にとっても極めて重宝なものとして内面化させられてきたのではないだろうか。その意味では、女の出産や授乳という生物的な働きを根拠として創り上げられた、社会的な共同観念と言うしかないであろう。
その意味では、私たちは「本能」というものに倚りかかることなく、現代社会の「性」のあり様、「男性/女性」の関係性、そして、「子どもを産むこと」「子どもを育てること」にまつわる社会の無意識の強圧や困難を、一つずつ捌(さば)いていくことが必要なのではないだろうか。
保育の制度についての三砂の勘違い
いま一つ、三砂ちづるは次のように述べている。少し長いが引用しておこう。
― もともと‟保育に欠ける”子どもの福祉施設であった保育所が、働く親だけでなく、孤立しがちな専業主婦も子どもを預けられるように、という発想での保育サービスにかわっていきつつあります。/よいことのようにきこえますが、それは苦しい母親を助けることであると同時に、保育の専門家のほうがよい子育てができる、ということになり、母親の自信を失わせることにもつながります。慣れない私なんかが育てるより、集団で社会性をつけてもらうほうが子どものためによいのだろう、と母親のほうが思ってしまうことにもなりがちです。システマティックな集団保育があまりよい結果を生み出しそうにない、ということはすでにあまたの歴史がずいぶん示してきていると思うのですが(p.39-40)。
以上の叙述は、本書の刊行が2012年であるという点で、若干の配慮が必要かもしれないが、しかし不正確さや誤りは、やはり糺されておくべきだろう。
一つは、現代の保育制度が、未だに「家庭に居る親」や「働く親」に関わらず、「すべての子ども」のための「保育の場」にはなりえていない、という点である。保育所に入所するためには、未だに「保育を必要とする」度合いが行政によって判定されるのである。「一部の親や子どものための狭義の福祉施設」からの解放を、私たちは望んでいることをここでも強調しておきたい。
いま一つは、社会主義圏での「システマティックな集団保育」が歴史的に存在したのは事実であるが、しかしそれはごく一部のことである。もともと「専門家がよい子育てをする」という発想自体、いまではほとんど見かけることはないだろう。そもそも「子育て」に「良い/悪い」という尺度を安易に当てはめることはありえない。むしろ、家庭の中でひたすら「子育て」に従事している母親こそ、「良い子に育てなければ・・・」というプレッシャーの中に置かれていると言えるくらいである。
「子育て」とは、単純に「良い/悪い」で判定されるものではなく、いかに「一人ひとり」に即した対応ができるか、なのではないだろうか。そのためには、一人の子どもの周りには、たった一人だけの「親」(主として母)が侍るのではなく、できれば「子どもが好きな」大人たちと、当の子どもの数人の仲間たちがいる環境こそ、「子どものための保育所・幼稚園」であり、そこでは親と保育者とは、それぞれに補い合うパートナーであることが認められるはずである。また、そのような開かれた「子どもたちの広場」としての保育所・幼稚園づくりは、いまなお試行錯誤の渦中なのである。その意味では、三砂ちづるの保育所認識は、今後とも批判的に対応されるべきではないだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye4779:201031〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。