復興の精神と日本の帰路
- 2011年 6月 14日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
6月14日
梅雨時と言われる季節が嫌ではない。雨に濡れるというのがそれほど嫌いではないのだ。このシーズンには独特の風情もあるし、いささかエロチックな雰囲気さえあるながめという言葉もある。折口信夫はこれには田植前の禁欲をしいられた鬱屈した気分があると解説している。手紙のやりとの常用句になったながめくらしつという言葉にはこうした気分が流れているという。子供のころに田舎で暮らした影響があるのだろうと思うが、この季節は身体の感覚にあうところがある。しかし、大震災の災害地が梅雨を迎えるのを想像すると気分は沈むし、遅れを気味の復旧状態が伝えられるいらいらする。訳の分からない政局(政争)を繰り返す永田町のことを聞くと一層のことである。
新聞や週刊誌は政局(政争)の記事をどぎつく書くが、そんなことより大震災より三カ月を経てどのように復興して行くのか、現在の復興をめぐる議論に何が欠けているのかが気にかかる。大震災からの復興の中で、原発震災の復旧と復興は次元の違うところを持ってはいるが、それについて書いてみたい。政局に明け暮れる政党や政治家の動きに背を向けてということではないが、もう少し違う視座でこれに触れてみたい。
大震災の後にこの事件が僕らの心象風景を変えてしまうほどのものであることを受け止めながら、それはなかなか像を結ばない、言い換えれば言葉にならないという思いにとらわれてきた。正確には僕のこころの感覚(表出感覚)と言葉には隙間というか距離があって、そこに分裂したままの状態が続いているのだ。大震災についての言葉は情報としてうんざりするほどある。僕らが必要としている正確な情報があるかというのは別のことである。僕らは日本の政府や企業の情報隠ぺい体質や情報操作には怒っているのだからである。こうした必要な情報は隠されているが、他方で情報一般は過剰にある。だが、僕らのこころの感覚を現わすような精神的な言葉はほとんど存在してはいない。大震災は僕の存在、言うなら僕らのこころの感覚に見合う形での言葉にはなっていないように思う。僕らが大震災の復興をイメージし、構想するのならこれは必要なものである。「非現実的な夢想家として」と題された村上春樹のスピーチ文はこれに接近していると言えるのだろうか。読者のためにそれが見られるものを紹介しておくhttp://www.47news.jp/47topics/e/213712.php。非現実的と自覚する村上春樹のスピーチ文の方がリアリティを感じさせる。《続く》
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0506:110614〕
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