偏りにこそ価値がある
- 2020年 11月 28日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
一つひとつをみればそれぞれの偏り、集団でみれば最近よく耳にするようになった(なぜか多様性ではなく)ダイバーシティ。なければ波風も経つこともなく安寧。殊更に新奇を求めるのは愚だが、あまりに均一に過ぎると生物的にも社会的にも変化が少ないだけでなく、変わっていく社会環境についていけない。
日本はちょっとその毛が強すぎると思うが、「健全な精神は健全な肉体に宿る」という誤解のもと、漠然とすべての評価項目で評価の高い均整のとれた人を優れた人材としてきている。いくつも評価を一瞥できるようにとレーダーチャートが使われる。レーダーチャートでは評価が多角形として表される。面積の大きな、大きな歪みのない多角形が好ましいとされている。ある評価項目の評点が他の項目に比べて目立って高かったり低かったりすると、多角形の歪みとして現れる。歪みは欠点とされ、バランスが悪い使いにくい人材と評価される。
レーダーチャートの面積が大きく、大きな歪みの少ない人材で構成された組織は、そつなくなんでも揃っている一昔前のデパートに似ている。二流デパートでは評価項目ごとのバランスはとれていても、レーダーチャートは萎んだように小さくなる。專門店のレーダーチャートは、歪みが極端に大きくなって、面積という面積がないほど小さなものになる。ショッピングセンターのように専門店が自社のブランドを掲げて集まれば、幅広い商品やサービスを提供でき、歪みの少ない面積も大きなレーダーチャートになる。
小売業における専門店の存在を否定する人はまずいないだろう。靴屋に行って魚をもなければ、メガネ屋に行ってケーキもない。ところが人材となると、歪んだレーダーチャートの人材は、検討もせずに拒否する人たちがいる。
何でも人並み以上にできる人でも、特化したもの以外を切り捨てて特定の能力を引き上げようと努力をしてきた人にはかなわない。どれほど天賦の才能に恵まれた人でも、何かに秀でようとすれば、その秀でようとしたもの以外を切り捨てざるを得なくなる。専門家やその道のプロを目指せば、専門とする領域以外のことでは、素人以下の能力しかないことすら起きる。リングに上がったボクサーにとって俳諧や茶道の才はなんの役にもたたない。
プロとして成長してゆくであろう才能の萌芽が輝いている人材は、萌芽の時点で、既に萌芽として見えているもの以外が矮小化していることが多い。萌芽と矮小化はレーダーチャートを面積の小さな歪んだものにする。
できるだけ面積が大きく、欠陥の少ない=歪みの少ない、均整のとれた人材を高く評価し続けてきた文化(社風だったり、集団としての価値観)に染まった人たちは、萌芽と矮小化の将来性に気がつかない。そんな組織でも、なかには歴史の延長線に留まることの危険性を思って、萌芽と矮小化の人材を採用することがある。ただ残念なことに、萌芽を伸ばす刺激に欠け、矮小化を問題視する組織では、そのような人たちを活用できない。
エリート集団の総合能力を示すレーダーチャートの評価項目が満点を超えることはない。全ての評価項目で高い評点を得ようとすれば、満点近くになった評価項目より、まだまだ満点までには距離のある評価項目の強化に力を注がなければならない。高校や大学の受験のように総合点の方が気になる。
ある集団の個々の構成員の個々の評価項目の評点が十を満点とした八や九だったら、そのような人材が何人集まっても、八や九が重なるだけで組織の能力が九を超えることはない。一方、矮小化を承知で萌芽を育て上げてきた人たちは、特化した項目の評点は十をはるかに超えたところにある。超えているからこそ、他の評価項目ではさしたる能力しかなくてもプロとして生きて行ける。
一芸に秀でた人たちの能力を組織として発揮させるとことに組織の組織たる所以がある。
鋳型に嵌った総花的な教育からは、現状のなかで上手に渡り歩くことを是とする人たち流れてでてくるだろうが、次の時代を切り開く偏った能力の萌芽をもった若い人たちには窮屈すぎる。萌芽を持った人は、いつでもどこでも必ず生まれてくる。問題はバランスの取れた優秀な人たちが支配している社会がその逸材を活かせるかどうかにかかっている。
今日の異端のすべてが明日の主流ではないが、明日の主流は今日の異端から生まれる。次の社会はつねに現状から外れた偏りのあるところから切り開かれる。逆に言えば、偏りに価値を見出せない社会は停滞する。
多様性がなんとかと耳にするようになったと思っていたら、いつの間にか英語由来のダイバーシティという言葉に置き換わっていた。多様性ですらつかみきれないできているのに、なぜ聞き慣れないダイバーシティ?とWebでみてみた。どうやら多様性では生物や環境……に目がいってしまって、人材への視点が欠けてるんじゃないかということで、ダイバーシティらしい。確かに新鮮な響きはあるが、それだけのような気がする。日々の話題でメシを喰ってるマスコミや見てくれのパーフォーマンスで売ってる評論家や先生でもあるまいし、実業の世界では、実が必要なだけで言葉遊びをしている暇はない。
p.s.
<みんな同じ顔をしてた>
ずい分前になるが、日系二世のブラジル人の同僚とでかけたとき世間話がてらに訊いた。
「日本にはじめて来たとき、なんか違和感みたいのあった?」
酒が回っていることもあってか、うーんとちょっと考え込んで、
「そうだよなー、何かあったかなー。何かあったと思うんだけど。うーん、何もなかったかな。なんなんだろう、何かあったような気がしないんだよなー」
そんなもんなのかな。サンパウロで生まれて育ったといっても、日本人家庭で日本人移民社会ですごした時間が長いのだろう。姿かたちも話かたもなにからなにまで日本人。日本に来たからといってもなんの違和感もないのか?でも、そりゃないだろう。そんな表情が気になったのか、何もなかったなといいながら、何かあったはずだと考えこんでいた。なんか悪いことを訊いてしまった。まずいなと思っていたら、突然思い出したかのように顔を上げて、
「あるっちゃあるな。ブラジルにはいろんな人たちがいてさ、白人もいれば黒人もいるし、地の人たちや日系も中国からも、みんなごちゃごちゃなんだ、その辺りのことは知ってんだろう」
まあテレビやなんかで見てるし、ごちゃごちゃ加減は想像できる。
「いやー、日本にきてさ、へんな話なんだけど、みんな同じ顔してるようにみえたな。個性なんてんじゃないけど、みんな服装も違うし、みんな違うんだけど、みんな同じに見えた。そりゃなかには海外からの人もいるけど、ざっと街を見て見りゃ、まあ、中国人や韓国の人もいるけど、みんな同じ顔した日本人にしかみえなかったな。最初の印象だからってわけでもないんだけど、今でも人だかりを見ると、なんかみんなおんなじゃないかって。わかるだろう?」
日本は、まあよそとの比較にでしかないが、人種的にも文化的も社会観もなにもかもがある狭い範囲に収まっていて均一性が高い。均一性が高いがゆえに多様性に対する受容性が課題になることがある。均一性、いいほうに作用することもあるが、次の社会への足かせになることも多い。この数十年、どうも足かせに感じることのほうが多いような気がしてならない。
2020/10/25
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion10320:201128〕
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