「家族の間に秘密があるのは当たり前」― 内田樹・内田るん『街場の親子論』(中公新書ラクレ)から
- 2020年 12月 2日
- 時代をみる
- 池田祥子親子関係
内田樹と言えば、『街場の現代思想』(2004)から始まって、『街場の教育論』(2008)や『街場の戦争論』(2014)、『街場の天皇論』(2017)など、『街場の・・・』というタイトルの本が目に付く。これまでに、共著2冊を含めて13冊にも上っている。
確かに「街場の・・・」というだけあって、多くの人が関心を持つテーマが取り上げられ、語り口も平易である。さらに杓子定規な思考や物言いを嫌い、彼独自の論を展開する。私自身は、概ね共感するところが多いが、しかし、時には首を傾げることもある。
もっとも、自分から「思想家」と名乗る通り、専門は「フランス現代思想」である。他には、合気道凱風館の館長だそうで、合気道は七段だという。
本書は、内田樹とその娘・内田るんさんとの往復書簡である。内田樹は1950年生まれ。るんさんは1982年生まれ、「詩人、フェミニスト、イベントオーガナイザー」と紹介されている。
本書のサブタイトルは「父と娘の困難なものがたり」であるが、本書執筆中は、父親内田樹は60代の終り、じきに70歳を迎える時であり、るんさんは30代後半、まさしく「アラフォー」世代である。それぞれの幼かった頃、若かった頃の苦い思い出を抱えながらも、今では、それぞれに自由に意見を交換し合っている。結果として、「ある一つの、父と娘の微笑ましい物語」となっている上に、「父と娘」という難しい関係に悩んでいるかもしれない家族にとっては、きっと、肩のしこりをほぐしてくれる一書ではないかと思う。
内田樹にとっての「父と息子」
世代を超えて繋がっていく「家族」というものは、往々にしてプラスはプラス、マイナスはマイナスとして再生産され循環する、と言われることが多い。確かに、もっとも身近に接する人間関係であり、もっとも濃密に関わる生活空間である以上、そのような面が顕著だ、というのもあながち否定はできないだろう。しかし、一方では、誰もが「家族」に全面的に依存している訳ではない。「家族」に生まれ、「家族」の下で育ちながらも、個々人はやはり一人のユニークな個性を育てていくものである。
その意味では、内田樹の、次に紹介するような、自分の父親に対する敬意と感謝は、どこまでも内田樹自身の個性によって醸成された肯定的な関係性ではないだろうか。そしてそれは、後の内田樹を根っこで支える良質な気質となっているように思われる。
― 僕は高校生のときに「役(周りからの期待を受け入れたー池田注)を降りて」学校を辞め、家を出て、その後経済的に困窮して、尾羽(おは)打ち枯らして家に舞い戻りました。まことに面目のないことでしたけれど、父は黙って、「そうか」と言っただけでした。意地っ張りの息子が何を考えているのかを理解すること共感することをその時点までに父は断念していたようでした。でも、この「何を考えているかわからない少年」を再び家族の一員として迎えることを決断した。その困惑した表情をいまでも覚えています。・・・一番感謝しているのは、このときの「息子を理解することは諦めたけれど、気心の知れない息子と気まずく共生することは受け入れる」という決断を下してくれたことでした(p.17-18)。
もっとも、意気込んで「家出」しながらも、最終的には為す術もなく惨めに舞い戻ってきた若き日の内田樹も見事である。自分の「敗け」と「惨めさ」を露わにさせることに耐えられたのだし、「舞い戻る家」が存在していたことは何よりも幸運だったろう。
このような経験が一つの重要な要素となって、内田樹は「家族の間に秘密があるなんて当たり前」と言い切れるようになったのだろうと思う。「そっとしておいて欲しい。僕が求めているのはそれだけでした」とも言っている(p.11,12)。
そして、るんさんとの往復書簡に、読者が「なんか、この親子、微妙に噛み合っていないなあ」という印象を受けるんじゃないかと書きつつ、すかさず次のように開き直っている。
― 「微妙に噛み合っていない」というのは、「ところどころでは噛み合っている」ということでもあります。話の3割くらいで噛み合っていれば、以て瞑すべしというのが僕の立場です。親子って、そんなにぴたぴたと話が合わなくてもいい。「まだら模様」で話が通じるくらいでちょうどいいんじゃないか。僕はそう思っています(p.8)。
離婚直後の父と娘、そして今
明治時代の「家」制度以来、日本では「離婚」は「バツイチ」(1回目の離婚)と呼ばれ、当事者である夫/妻にとって、できれば遭遇したくない不幸と思われてきた。さらに、両親の間に居る子どもにとっては、その後の同居する親、住まい、通う学校、友だちとの関係も急変したり悩ましかったり、また、別居する親との関係も、極端な場合には、それっきり絶縁ということにもなる。
ただ、「結婚」もあれば「離婚」もありうる・・・と、ある意味「仕方のないこと」という観念が、社会通念になったとしても、やはり「離婚」は、夫婦にとっても、子どもにとっても、なお「苦痛」や「悲しみ」と無縁にはなりにくいことだろう。
内田樹が離婚した時、るんさんは6歳、小学校入学直前だったという。るんさんは父親樹さんと同居することになった。その直後のことを、内田樹は次のように胸を痛めながら書いている。
― (離婚した時)るんちゃんの小学校1年生のときの入学の支度はほとんどできていませんでした。・・・中でも忘れられないのは、運動会の予行演習のときに体操着を持たせるのを忘れたことです。・・・とにかくあわてて学校に行ったら、全校生徒が体操着を着ている中に、るんちゃんが一人だけ花柄のスカートを砂だらけにして座っていて、ものすごく悲しそうな顔をしていたのを覚えています。あのときは、ほんとうにすまないことをしたと思いました。・・・でも、そのときもるんちゃんは僕を責めるようなことは一言も言わなかったでしょ。/ありがたいとおもいました。・・・だから、るんちゃんのことを「例外的に優しい子」というふうに思っていたのです。/でも、そうじゃないですよね(p.85~87)。
ところが、るんさんは「小学校1年生の記憶はほとんどありません。その運動会の予行演習のことも全然覚えていません」と返している。るんさんにはるんさんなりの幼い気配りで一杯だったようだ。
― 正直、私は当時もう6歳で、十分「おねえさん」になった気でいたので、「ママがいなくても、私とお父さんだけでも、なんとかなるわー」と本気で思っていたのです(p.95)。
ところが、現実は厳しかった。
― 私は自分の驕りが恥ずかしくて、それもあってお父さんに、ああして欲しい、こうして欲しい、なんでやってくれないの、などと不満を言う気にはなれなかったのです。だって、「自分のことは自分でできる」って思ってたから、二人が離婚することを受け入れたんだし、と(p.95-96)
その上、父親の樹さん自身、「離婚のショックから立ち直る間も無く、次から次へと鬱病や不眠症や通風を患い、なんだかんだで6~7年間くらいは「全体的にボロボロ」だったし」とるんさんは思い出している。
― 離婚したあと、すごく落ち込んでいるお父さんに、自分のことをもっと気にかけて欲しいと思っても、どこまで要求していいのかわからず、育児の至らない部分を怒ったり責めたりする気にはなりませんでした。それこそ、あの頃のお父さんは、死にかけの(ハムスターではなく)ウサギの赤ちゃんのように弱っていたので・・・(p.94)
― 私は両親が離婚したときに、すっかり精神的にめげてしまっていた両親にものすごく気を遣って、嘘ばかり言っていました。・・・相手が喜びそうなことをその場しのぎでペラペラと演説し、「だから安心して!」とフォローすることに熱心でした。でもいま思うと、そんな変なことをして嘘八百をついたツケが、その後の人生をめんどくさくて苦しいものにしてしまったと思います(p.230)。
幼い娘の必死の気配りに気がつきもせず、「るんちゃんはやさしい子」と決めつけていた父親、そして、その背丈以上の「やさしさ」を振る舞ったために、本来の自分を出せなくなったるんさん。・・・しかし、その辺りの食い違いが、この往復書簡の過程で少しだけ吐露されて、樹さんは、「ごめんなさい。/30年も経ってから謝っても遅いけれど、それでも。ごめんね」と書いている。
それに対して、るんさんは、
― お父さんへ 昔のこと、ちゃんと謝ってくれて、ありがとうございます。/じつは、「いつ謝ってくれるのかな・・・」とずっと思っていました(p.94)。
父と娘の間での「行き違い」は、他にももっといろいろあることだろう。しかし、その中のたった一つのことであっても、このように、「それは本当に悪かった、ごめんなさい」と謝り、「ようやく謝ってくれたんだね。時間がかかったけれど、本気で、ちゃんと謝ってくれてありがとう」と言い合える父と娘。これだけでも、この往復書簡はとても大きな意味を持つのだろうし、読者としても、とても嬉しく心満たされることだと思う。
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〔eye4792:201202〕
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