音と音楽――その面白くて、不思議なもの(1)
- 2011年 6月 16日
- スタディルーム
- 石塚正英野沢敏治
第1回 音楽とのささやかな出合い
石塚正英さんへ、野沢敏治から
音楽を楽しみたい
ぼくは音楽が好きです。といっても、いまは声を出して歌ったり、楽器を演奏することはあまりなく、一愛好家にすぎません。その限りでこれから対話していきたいと思います。
パンソリに耳をやってしまう
思いもよらない時に「音楽」に出あうことがあります。1990年代にたまたま韓国映画の『風の丘を越えて』を観ました。終わった後、感動でみな拍手でした。成熟社会と言われている今日の日本でこのような光景はあるんだろうか。この映画では旅芸人の親子がパンソリを奏するのですが、父親は娘に「恨」の心をもたせるために、少しづつ毒を盛って娘の眼を見えなくさせるんです。芸のためにそこまでやるのかと思ってしまいました。親子が田舎の道を「珍島アリラン」を歌い奏しながら画面の遠くあちらからこちらの観客の方に向かって歩いてくる。天童よしみが歌ったものです。その娘が山と谷にぶつけて発声練習をするのだが、途中で息が切れて腰から崩れてしまう。のどが裂けるのでないかと思うほどの発声。洋楽での発声とは大違いで、声はお腹からしぼり出る。最後の場面で生き別れになっていた弟が訪ねてきて自分の伴奏で(この場面では自分が弟であることを明かしていない)姉に「沈清歌」を歌ってくれるよう頼みます。この歌は子が親に尽くすという封建的な内容ですが、その演奏がすごかった。それは普通にいう歌ではありません。語るような、唸るような、合いの手を入れるような、そして逆巻く海の波の精になったかのようなんです。
1980年代の韓国は経済成長を続けていて、それとともに伝統音楽は姿を消しつつあったようです。いま行っておかないともう見ることはできないと、韓国に行く研究者がいました。ぼくは少し前に韓国に行く機会があり、ソウルで伝統音楽を聞かせる大衆レストランに案内してもらいました。あのパンソリの調子を聴きたかったのです。でもお客さんの話し声のうるさいこと。その中には日本人観光客もまじっていました。演奏者はこういう客を前にしてでも、芸を磨くほかないのでしょう。そんなお客の耳を自分に向けさせるために。それと比べれば、大学の教員が学生を相手に講義することはなんて楽なのでしょう。
ミュージカルを見直す
それほどとは思っていなかったのに、評価しなおす音楽があります。1950年代にレナード・バーンスタインが作曲したミュージカル『ウェストサイド・ストーリー』がありますが、日本では最初、映画で有名になったと思います。それはそれまでのブロードウエイでの夢っぽい歌物語と違って、ニュー・ヨークの場末のギャング団の抗争を舞台にした大変に深刻なものでした。最後は2人の死で終わるのですから。ダンスの迫力には驚きました。でも音楽は有名な「トゥナイト」もあまり心に響かず、甘く平坦に聞こえました。ぼくはミュージカルを低く見ていたと思います。それが作曲者自身が録音するさいに撮った制作過程の記録を見て、これは!ということになった。本当に面白い、乗せてしまうんです。クラシックのテノール歌手ホセ・カレーラスが「トゥナイト」を歌うんですから、悪かろうはずはなく、実に力強く響かせている。この歌にそんな面があったのだ。それにあの「アメリカ」。それはカリブ海の島々から渡ってきた女の子たちがニュー・ヨークでの文明生活の方が故郷よりもずっといいという内容のであって、何ということもないのですが、キャッ、キャッと声を交わらせて踊りださんばかりに歌うのです。うまい!チンピラたちが警察や裁判官の権威を茶化して歌う「はいはい、クラプキー巡査」は気の利いたエスプリを発散させて、天才的です。もちろん恋人同士の「ひとつの手、ひとつの心」はどこまでも清純です。ベッドを共にする場面はあるのですが。この種の大きな声量を要しない曲にはぴったりのソプラノ歌手、キリ・テ・カナワが指揮者の求めで臨時に歌った「どこかに」は人の心を翼にのせてくれます。
オリジナル・サウンドの方が当時の雰囲気は出ていますが、このクラシックのプロによる演奏は各曲の性格を正面から描いていてその素晴らしさを見直させてくれたのです。
気になっていること
あんなに夢中であったのに、その時の感動は次第に薄れます。もう一度あの時に戻りたいと思うことがあります。鮮明な印象が続かないのは生理的に当然かもしれないが、そう思いきれないこともある。もしかしたら、あの時の心を奪った音は天から注がれたのでなく、妖魔のささやきであったかもしれません。淫するように聴いたのは、その効果にだまされていたのかもしれません。それでも悔いはない。論理的に音を組み立てていっても、音に身体を溶かしこみたい、そう思うことはありませんか。
音は消えていきます。録音技術は音を記録し、再生します。何度でも聴き直すことができます。演奏会に足を運ぶことが音楽の正しい聴きかたでしょうが、実演は音楽を聴く時の邪魔になることがあります。オペラの料金はわれわれ庶民の経済水準を越えています。これ見よがしの演出は音楽を聴く時の邪魔になります。で、ついCDに手を出してしまいすが、いずれにしても聴いた音はすぐ消えていく。だから神経を緊張させて聴き逃すまいとする。霊感が湧く瞬間をまつ。でもそうはいかないこともけっこうある。バックグランド・ミュージックの方がすっと興に乗ることもある。
音楽は音でできていますが、音が消えなければ音楽はないともいえます。音楽は、とくに洋楽はある時間の中に音を詰めるだけ詰めているが、それでも音のない瞬間が幾つもある。休止符です。この無音は有音と関係があるのだろうか、あるとしたら、どんな風にあるのか。これも気になります。
というわけで、最初にちょっと書いてみました。これから音と音楽について石塚さんと協同でいろいろな面からあたってみたいと思います。よろしく。
野沢敏治さんへ、石塚正英から
野音へのいざない
野沢さん、韓国のパンソリ、私には韓国ではこれといった思い出はありませんが、you-tubeなら手軽に動画で味わっています。でも、太鼓を打って物語を始めるという音体験であれば、60年近くにわたって、わが心に強烈な刻印を残しています。
デンガボンデンガボン チューレットー♪
私は3歳か4歳の頃、作詞作曲をし、両親の前で歌っていました。生前、母からときおり聞かされていたことですし、音なので自らもよく覚えています。縁日の夜店で母親からデンデン太鼓を買ってもらいました。父親の5ツ玉ソロバンをひっくり返して台車とし、そこにデンデン太鼓をのせます。いよいよハジマリ~ハジマリ~ 「♪ドンドンドン、タカタッタ、ドンドンドン、タカタッタ」ここまでは囃しと前奏です。いよいよ歌い始めます。「デンガボンデンガボン チューレットー、チュレットーから雲が出たぁ~♫」この歌を、私は60過ぎのただいま今日まで、ときおり心中で奏で歌い続けてまいりました。
ところが、昨2010年の春、郷里の上越市で市民を前にこれを歌う事態となったのです。高田藩開府4百年が近づいてきたこの年、高田城址公園の花見会場に設営されたFM上越の生中継で、15分ばかりのトークを担当した私は、お喋りの前、横に腰掛けるスタッフに突如お願いをしました。「私はこれから幼児のころに作詞作曲した歌を歌います。林田さん、あなたは名前通りハヤシをお願いします。そこの太鼓腹の方、太鼓のパートをお願いします。」 にわかキャストをそろえ、歌い始めたのです。戦没者を慰霊する忠霊塔前広場からの生放送です。FM電波の届くところくまなく、私の地鳴り歌声が響きわたりました。いやぁ、気持ちイイッス、サイコーッス!
歌詞の解説をしましょう。まずドンドンドンと太鼓をたたいて、すぐさま太鼓の縁をタカタッタとたたく。そして「デンガボン」を2度繰り返す。その解説は後にして、つぎの「チュレットー」ですが、これは忠霊塔のことです。おそらく、お花見の頃、母方祖父に手を引かれてこの前に立ったことがあったのでしょう。この塔はとても大切なんだ、ここでおえさん(おじいさんの方言)がなにか祈ってる、といった印象が幼な児の私に植えつけられたのでしょう。あれから半世紀は過ぎました。還暦をすぎた私は、いま忠霊塔の前にいます。こみあげる思いが私の背を押します。2008年に83歳で亡くなった母親の眼差しが私の瞼にとどきます。「よし、歌うぞ!」いま太鼓はありません。口三味線ならぬ口太鼓をFM局メンバーにお頼みして歌いました。
つぎに「(チュレットー)から雲が出た」ですが、これは「デンガボン」の掛け声と連動しているようです。雲のわきあがる様を表現した擬態語なのだろうと察します。「デンガボンデンガボン チューレットー」ここで一呼吸し、一気に「チュレットーから雲が出たぁ~♫」と声を張り上げるのです。本当のところは当時の私に聞いてみないと分かりませんが、歌声は、ここでクライマックスを迎えるのです。さて、花見会場で私の声は雑音でしたでしょうか、快音でしたでしょうか。いいえ、私はこれは郷土の歴史と文化を表現した野音であったと自負します。数日後、あるラジオ・リスナーから放送局に連絡があり、私の歌声をほめてくださったとのことです。アリガタイッス!!
雑音・楽音・野音
野澤さんは『ウエストサイド・ストーリー』に思い入れがあるようですね。私はストーリのここかしこに流れるバーンスタイン音楽に魅了されました。彼の音楽はコンサートホールとかでなく野外音楽堂でききたい。私が好きなのは彼が指揮したグスタフ・マーラー『復活』です。この曲はマーラーの直弟子ブルーノ・ワルター指揮が一押しですが、『ウエストサイド・ストーリー』のバーンスタインにはまたちがった味があります。それは、いわば琵琶や三味線のサワリのようなものです。洗練された楽音にいきつかないのでなく、雅な楽音から折り返して民衆的な野音に向かう運動を感じます。その解釈には、たぶんにかのミュージカルのストーリーが影響しているし、『子供の不思議な角笛』を挿入したマーラー交響曲第2番の特性が影響しているでしょう。洗練はそれでよし、けれども自然環境や雑多な環境における音や音楽との触れ合いも心地いいときがあります。
私はこの20年ほど、9階建てのマンションの5階に暮らしております。数年前に一人のピアニストが7階に住まわれるようになりました。彼女の奏でる楽音が躯体や部屋の上下空間をつたわって私のところに届きます。騒音とは思えない、とてもまろやかな音色です。
40年ほど以前、学生時代に借りていた6畳一間のアパートでの出来事。ある日、隣に三味線弾きのオジサンが越してきました。安普請の、薄い仕切り1枚の隣部屋で毎晩たたかれ、苦しみました。
ところで最近、水車発電の適地を求めて故郷の新潟県上越市に戻ることが多いのですが、家々の玄関につきでている庇が連なって通路になっている雁木を、三味線を抱えた瞽女(保存会)の一行が通り家々で門付を行なう風景を見るようになりました。冬に行われます。私は、明治元年築の我が家から彼女らが瞽女唄と奏でながら近づいてくるのを待ちます。これは、珠玉と申して差し支えありません。
野音に親しむ、この営みは3.11以後の人びとが音で連なるのに、大切なことのように思います。瓦礫に埋まった我が家の周辺ここかしこから聞こえてくる復興の音、津波をもたらした沖合から吹いてくる風の音、みな、ともに支えあうその心のありようでセラピーにもなることでしょう。先日、『ミツバチの羽音と地球の回転』を見まして、祝島の原発反対住民が海岸でヒジキをとている、そのコンクリート護岸に打ち寄せる波音にも、そんな印象を受けました。
なお、私のいう「野音」については、これから野沢さんと交わす対話の中でいろいろとお話していきますが、もし関心のある方は以下の拙著をお読みください。石塚正英『感性文化学入門―21世紀の新たな身体観を求めて』(東京電機大学出版局、2010年)、とくに第4章「始まりとしての八分休符」。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study396:110616〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。