岸上大作、没後60年の今
- 2020年 12月 12日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子岸上大作
12月5日から、「岸上大作展」が姫路文学館で開かれている(来年3月21日まで)。没後60年記念ということで、岸上の命日にもあたる日にオープンしたのだが、当分出かけられそうにもない。没後40年の「’60年ある青春の記録 歌人岸上大作展」(姫路文学館 1999年10月8日~11月28日)に出かけたことや1960年当時の大学歌人会、私自身のことを、当ブログにも書いたのは、今年の初めだった。
◇60年前の1960年、50年前の1970年、いま何が変わったのか(1)私の1960年(2020年1月25日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2020/01/post-8ad825.html
上記1999年の「展示カタログ」には、高瀬隆和編による詳細な「岸上大作著作目録」「岸上大作文献目録」が掲載されている。岸上について書かれた関係文献を見ていると、没後も途切れることなく、短歌雑誌のみならず雑誌や新聞で、さまざまな形で報じられ、その作品が鑑賞され、回顧されていることがわかる。高校の国語の教科書の短歌教材として採録されるようになっていた。
・かがまりてコンロの赤き火をおこす母とふたりの夢つくるため
・アパートの庭にわずかな夏草を子等替りばんこで転がりに来る
(高等学校校「国語Ⅰ」三省堂)
・美しき誤算のひとつわれのみのが昂ぶりて逢い重ねしことも
・裸木深くナイフ刺したり失いしひとつのの言葉埋めんとして
(高等学校「国語Ⅰ」旺文社)
今世紀に入ってからも、遺歌集『意志表示』が文学全集類に収められ、その作品がアンソロジーに収められ、愛読者は決して少なくはない。『意志表示』(白玉書房 1961年6月20日)の初版が古書店で高値がつけられてもいる。私の手元にも「岸上大作再発見 没後40年」特集(『短歌往来』1999年10月)、「岸上大作」特集(『現代短歌』2017年9月)があり、また、最近、「没後六〇年岸上大作」特集をしている『月光』(2020年11月)をいただいたばかりであった。そして、きのうは、購入した、今回の「岸上大作展」のカタログが届いたのである。
1960年、国学院大学の学生だった岸上大作(1939~1960)は、保守的な校風の中で、短歌研究会活動とともに、安保条約改定反対闘争にも参加し、全学連の主流派でもあり、過激派とも呼ばれていた集会やデモにも参加するようになっていた。その渦中で詠まれた作品は、『短歌研究』1960年9月号には、新人賞の推薦作として「意志表示」が、11月号には「しゅったつ」が掲載され、『短歌』10月号には「座談会・明日をひらく」に、稲垣留女、小野茂樹、清原日出夫とともに参加、11月号「寺山修司論」、12月号には作品「十月の理由」が掲載されるという、私などには、実に華々しい、目を見張るような活躍に思えた。そんな矢先の、1960年も押しつまったある日、岸上の自死を知らされたときは、やはり衝撃が走った。いったい何があったのだろうという思いだった。その後、短歌雑誌などで「恋と革命に殉じた青年歌人」などと喧伝され、死の直前まで書き続けていたという、長い、長い遺書を読んでも、失恋したことは十分わかったが、革命に殉じたとはとても思えなかったし、日本には革命など起こりようもなかった状況が読めなかったのだろうか、とも。父親が敗戦の翌年、内地に帰還したものの、途上で病死し、母子家庭で育った生い立ちを知る。しかし、文学少年だった岸上の、上京後の学生生活の日記から見えてくる「恋」も「革命」も、命を懸けるほどのものだったのか、私などには想像が及ばなかった。正直、母親、妹への、あるいは友人たち、片思いの女性たちへの、一種の「甘え」のようにも思えたのだ。
いろいろな追悼文や岸上についてのエッセイを私が読んだ限りながら、いま、私が一番、しっくりと共感できたのは、大下一真「岸上大作の自己レトリック」(『まひる野』2000年2月)であった。『まひる野』は、岸上が1955年7月に入会、59年12月まで会員であった短歌結社誌で、大下は、いま同誌の編集人を務めている。大下は、「歌人岸上大作と人間岸上大作との差異・落差」を、作品や評伝、証言によって検証し、「暴露趣味ではない。興味あるのは、失恋し続け、デモの現場では恐怖心からスクラムを組んだ腕を振り払って外れたがった男が、いかに<恋と革命に殉じた>格好良い青年になり、文学史上に残り得たか」をたどるのである。
・意志表示せまり声なきこえを背にたた掌の中にマッチ擦るのみ
・血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする
没後40年の展示会と同時に、小川太郎は『血と雨の墓標 評伝岸上大作』(神戸新聞総合出版センター 1999年10月)を出版し、綿密な取材で岸上の実像に迫った。そして、その展示会でのイベントでは、強引なまでの片思いの最後の相手であった人、沢口芙美との公開対談で聞き手を務めたのであった。沢口は、「人様の前で岸上について話すのははじめて」と語っていた(「<自殺>の後を生きて―佐藤通雅様」『短歌往来』1999年10月)。すでにある程度の気持ちの整理はできていたのだろう。
20年前の「岸上大作展」チラシの裏、右下のイベントの冒頭が沢口・小川の対談が予告されている
それから20年、上記『月光』の特集には、沢口の「小説 風の鳴る日は・・・」が掲載されていた。「小説」とはいえ、当時の時代背景とともに、大学生活の中で岸上との経緯が克明に描かれていた。私は初めて読んだが、すでに「NEO APRES GUERRE」という同人誌の創刊号(1967年11月)に発表されたものの再掲らしい。沢口は、この時点ですでに、「小説」という形で、すべて仮名としながらも、記録として残していたのである。少し驚いたりもしたのであった。
それにしても、亡くなるまで、岸上関係の資料の収集や保存に意を尽くしていた高瀬隆和や姫路文学館の岸上大作の常設コーナーや記念展示会の企画に深く、熱くかかわってこられた学芸員の方には、敬意を表したい気持である(竹廣裕子「岸上大作との三十年」『月光』2020年11月)。私は、岸上の短歌や生活信条に納得できない部分があるにもかかわらず、同世代として、気になる歌人であることには変わりはない。
『月光』65号(2020年11月)は「没後六〇年 岸上大作」特集だった
(気持ちとしては、人名には「さん」を付したかったが、敬称は略している)
初出:「内野光子のブログ」2020.12.11より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10358:201212〕
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