私が出会った忘れ得ぬ人々(40) 赤瀬川原平さん――青春時代の辛い体験が創作活動の肥やしに
- 2020年 12月 19日
- カルチャー
- 横田 喬赤瀬川原平
前衛美術家にして芥川賞作家でもあった赤瀬川さんは、実に面白い人柄の方だった。対面はたった一度きりだったが、最高に楽しい時間を過ごし、記者冥利に尽きる思いを味わった。三十年近く前の一九九二(平成四)年に、当時『朝日新聞』記者の私はこの人と池袋駅前の喫茶店でじっくりやりとりしている。
その打ち明け話があまりにもおかしくて度々噴き出してしまい、ほかのお客さんに迷惑ではと気になったほど。話題は青春時代のドタバタ劇、その当時は吉祥寺にあった武蔵野美術学校(現武蔵野美大)をめぐる思い出である。
――当時、ムサビ(武蔵野美校)の入試は、百人受けて一人落ちるくらい。筆記試験も「芸術とは何か、を記せ」なーんていう問題です。試験中に教室の前の廊下を近所の子供たちがドタドタ走り回ったりし、なんとも牧歌的で、とてもよかった。下宿した小金井がまた田園的で、のんびりできた。食事が不十分なので、空きっ腹でたまらず、近くの畑から夜中にジャガイモをこっそり失敬したりしました。
――学資が続かず、学校は結局中退します。食っていくため、渋谷と吉祥寺でしばらくサンドイッチマンをやった。冬は寒いし、あれはなかなか辛いものです。東大出とかいう乞食の男と友達になったり、意地の悪い巡査から理由なく乱暴を受けたり、いろんな思いをしました。いわば僕の路上観察のルーツ、と言っていい。そうした体験が、後の創作活動の肥やしになってるのは確かです。
と記すと別段おかしくも何ともない、と言われそうだが、じかに聞くと違うのだ。独特のすっとぼけた話術と絶妙な間のとり方に、なんともいえぬ顔の表情。私は腹がよじれる位、笑いに笑った。作家でございなどと高ぶったところはおよそなく、自身も噴き出すと底抜けのお人好しの顔になる。こういう人と親しくなれたら楽しいだろうな、と直感した。
赤瀬川さんの存在を初めて知ったのは、六五(昭和四〇)年の「千円札模造」事件だ。前々年の読売アンデパンダン展に出品した千円札の拡大模写とその印刷作品で、彼は通貨及び証券模造取締法違反容疑で起訴される。以後、最高裁まで争われるが、七〇年に上告が棄却され、結審する。弁護側証人として瀧口修造・石子順・澁澤龍彦ら知名人が法廷に立ち、芸術の概念をめぐり議論が闘わされた。前衛作家のパロディ精神を解さぬ司法の不粋さと共に、作家の側にも一種の危なっかしさを感じたことを正直に告白しておく。
次いで七一年、朝日新聞社が当時発行していた硬派の週刊誌『朝日ジャーナル』(3月19日号)に彼が寄稿した「桜画報」の内容が物議をかもす。戦時中の国民学校(今の小学校)の初級用国語教科書には「アカイ/アカイ/アサヒ/アサヒ」という例文が載っていた。赤瀬川さんや私らの世代にはお馴染みの文言だ。
彼のイラストは、水平線から昇っていく太陽を『朝日新聞』の社章ロゴに描き換え、
――朝日は赤くなければ朝日ではないのだ。ホワイト色の朝日なんてあるべきではない。せめて桜色に。
という文句を添えていた。
そのころ同誌は巷間、「新左翼の機関誌」とまでささやかれ、誌面の左傾傾向を社の上層部は危惧していた。こうした表現は読者に誤解を与えかねない、という判断から当該号は自主回収と決まり、編集長は更迭される。発行元の出版局は六十一名にも及ぶ大人事異動を強いられ、激震のあおりで同誌自体も二週間にわたる休刊を余儀なくされた。
赤瀬川さんという人はどこか危なっかしい、という漠たる印象が私の頭の中に刷り込まれたのは、そうした経緯に基づく。それだけに、実際に対面した善人そのもののような素顔とのあまりの落差の大きさは意外だった。
前科者じみる過去の負のイメージを一掃するのが、短編小説『父が消えた』による八一年の芥川賞受賞だ。実名をはばかり、尾辻克彦というペンネームを使っての栄誉である。
貧乏できょうだいが七人もいる一家の頼りない父親が死を迎え、倅の一人の「私」がお墓の下見に電車で八王子へ向かう。どうということもない筋立てだが、日常と非日常、現実と仮想、が微妙絶妙に交錯していく。独特の感覚的な文体が、しみじみとしていてどこかおかしい不思議な魅力を醸しだす。
執筆の動機について、彼は内々の場で「やっぱり暇だったから。それに、父子家庭だったし。だから、字に行ったんだと思う」と、正直に洩らしている。
実は、ペンネームの「尾辻克彦」による文壇デビューは二年前の七九年にさかのぼる。中央公論新人賞を受けた短編小説『肌ざわり』がそれだ。胡桃子というちょっと変わった名の小学六年の女児と妻に去られたと思しき父親の「私」。地方都市で暮らす父子家庭のどうということのない日常が味わいのある独特の文体で淡々と綴られる。
私生活を言えば、彼は「千円札裁判」の途中に結婚して裁判後に離婚し、幼少の娘と父子家庭を営んでいた。彼は「あとがき」で、こう告白している。
――自分でも半信半疑の作が認められ、「あれっ」という感じと「なるほど」と納得する、ふわりとした快感だけがあった。「純文学」に面と向かう緊迫感があり、同時に「純文学」というステロタイプに対する野次馬的な冷やかし気分も混じっていた。
そして、芥川賞受賞の翌々八三年、長編小説『雪野』が野間文芸新人賞を受ける。私小説的な興味で言うと、この自伝ふうな長尺の物語の方が断然おもしろい。
題名の雪野とは、実在の友人で画家の雪野恭弘を指す。二人は大分の中学で一緒に学び、共に絵画が大好きで、幼い分際で油絵のサークルなどにも出入りした。「私」が名古屋へ引っ越して高校は別々になるが、三年後、東京の武蔵野美術学校で再び同級生となる。
「私」は吉祥寺駅前でのサンドイッチマンのアルバイトにありつく。交番の巡査が意地悪く言いがかりを付け、引き倒されたり散々な目に遭う。が、くじけず、今度は雪野共々渋谷の街頭で同様のバイトへ。午後四時から八時まで立ち、日当が三百四十円。そういう細々とした収入で二人はぎりぎり食いつないでいく。
サンドイッチマンの同輩は、よそで食い詰め、落ちぶれた人がほとんどだ。プラカードを持ち、ただ佇んでいる仕事は、恥ずかしさと卑屈さを伴う。物乞いにまで落ちる寸前のふうな不安と焦り。「私」と雪野は、投げやりで自堕落な気分に次第に染まっていく。いつしか美校には通わなくなり、終にはやめてしまう。
時には露悪的なほど、ご両人の「青春残酷物語」はあからさまに語り継がれていく。「私」は帰省先の名古屋で酔余、中村遊郭で童貞を失う。それを聞いた雪野も、負けじとばかり新宿二丁目で遊んで同様に失ってくる。生身の自らを材料に当時の意識や心理の克明な観察~分析を図り、彼は己の作品を「超私小説」と呼ぶ。「私」の心理描写は人間性の微妙な内奥にまで際どく迫り、ただの通俗小説とは明白に一線を画する。
赤瀬川さんは当時の心境を、こう振り返る。
――文学賞を受けて気が楽になり、いろいろ書くのが面白くもあり、次々と小説にした。自分は本当は絵描きだという自意識があり、小説は所詮ひやかしで、おまけ。ちょっとした実験の気分で原稿用紙に向かっていた。
――でも三~四年すると、書くものに定型みたいなものができ、思うように筆が進まなくなり、ほかの方面に関心が向かう。焼き畑農業みたいに、その場所での活力が尽きたら、すぐ別の所へ移動していくという原始的なやり方です。
その走りが七二年。舎弟格の南伸坊・松田哲夫と四谷を歩くうち、ただ昇って降りるだけという意味不明な階段を見つける。「四谷怪談」に引っかけ「四谷階段」と命名。これは階段としては極めて純粋、ある意味で純粋芸術に似ている、と興奮する。たまたま当時、高額契約で入団したプロ野球・巨人軍のゲーリー・トマソンという外人選手がろくに役に立たなかったことから、「超芸術トマソン」と名付け、話題を呼ぶ。
写真雑誌の連載物などを通じてPR活動に乗り出し、役に立ちそうにないマンホールの蓋や類似の工作物などを次々に発見。建築史家・東大教授の藤森照信らと遊び半分に考察を重ね、「路上観察学会」という集まりを旗揚げする。全国の同好の士から数々の観察結果が寄せられ、八七年に著した『東京路上探検記』は講談社エッセイ賞を受ける。
極め付きが読書界で大ブームを呼んだ九六年刊行の『新解さんの謎』。三省堂発行の『新明解国語辞典』を擬人化して「新解さん」と呼び、その内容の新奇さを論った。そして、九八年の著作『老人力』は筑摩書房が始まって以来のベストセラーとなり、「老人力」という言葉はこの年の流行語大賞を受ける。人は老いて衰えるわけではなく、ものをうまく忘れたりする力つまり「老人力」が付いた、と老いを肯定する逆転の発想だ。高齢化社会が進む折から、老人への新しい視点を提供したとも言えよう。
赤瀬川さんは二〇一四年、敗血症のため七十七歳で亡くなった。
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