私が出会った忘れ得ぬ人々(41) 「斎藤一族の人々」――超個性的な面々がずらり
- 2020年 12月 25日
- カルチャー
- 北杜夫斎藤茂吉斎藤茂太横田 喬
私は『朝日新聞』記者の振り出しが仙台在勤だった。今から六十年ほど前の一九六〇年代初めのこと、夏場の休日に東北の霊山・蔵王山へ日帰り登山を試みた。気が立っていたせいか、最高峰・熊野岳(一八四一㍍)に思いのほか容易に登頂できた覚えがある。山頂付近には、地元・山形県出身の歌人・斎藤茂吉のこんな一首を刻む歌碑が建っていた。
――陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ
私の感懐そのままで、歌詠みとしての凄みと偉大さをまざまざと知り、さすがはアララギ派大歌人と感じ入った。独自の写生理論を唱え、万葉語も時に駆使し、生涯に一万八千首、歌集にして十七冊。学士院賞や文化勲章の誉れに輝く人だけはある。
それから二十年ほど過ぎ、茂吉の生誕百年を迎える八二(昭和五七)年、その業績をしのぶ催しが関係方面で盛大だった。幸いにも、私は未亡人・輝子(敬称略、当時八六歳)をはじめ、長男の精神科医・茂太(同六六歳)、次男の作家・北杜夫(同五五歳、本名・斎藤宗吉)を取材する機会に恵まれる。
輝子は、亡き夫・茂吉について
――カンシャク持ちの暴君だったけど、純粋で自然な人でしたね。
と、追憶した。
斎藤家は輝子の父で山形県の金瓶村(現上山市)出身の紀一が興し、一代で東京・青山に大きな精神病院を構える。代議士にまでなったその父の血を引き、輝子は少女時代から男の子のように活発だった。紀一は同じ村の貧家の出で秀才の誉れ高い茂吉を引き取り、輝子と娶せ養子にするが、茂吉はお譲さん育ちで自由奔放な輝子とそりが合わなかった。
輝子の好奇心と行動力は高齢になっても衰えを知らず、取材した当時も盛んに海外へ旅立っている。同年秋の中国行きは、その年六回目。なんと約六十年前の第一回から数えて通算九十六回目という足達者ぶりだ。世界中を歩いての結論をこう述べた。
――陽光を浴びる南極の氷山の神秘的な輝き、文明に汚されていないアフリカ奥地の無垢で簡素なたたずまい。桂離宮の寂がすばらしいたって、大自然の生の魅力には、そりゃあ敵わないわよ。
他人の思惑など気にせず、自分のしたいようにする流儀から、養子の夫・茂吉とはずいぶん衝突した。茂吉を文学の世界に沈潜させたものの一つに、妻との軋轢~鬱屈を挙げる向きがあるが、当たらずと言えども遠からずと感じた。
医業と文学という茂吉の二足のわらじを、医業は長男・茂太が、文学は次男・北杜夫が継いだ格好だ。精神科が専門の茂太は一族の血を分析して、
――祖父・紀一と母はそっくり。山形出身では珍しい軽躁・外向的な自己顕示型です。父は正反対で、粘着的・内閉的で神経質だった。僕は両方の血が半々、弟は内閉性で躁鬱質だから親父の血が勝ってるかな。
と言った。
精神科三代目の彼は当時、日本精神病院協会会長。臨床医として感じるのは鬱病化時代の到来と指摘し、こう説明した。サラリーマンの八人に一人くらいが鬱病に陥る危険があり、十年前に比べて四、五倍も増えている。鬱病になるのはきまじめで融通の利かないタイプで、都市の工業化社会すなわち競争社会に多い。
――鬱病防止には趣味を持つのが一番。仕事、仕事と自分を追い込まず、たまには別世界に遊んでみることです。
と茂太さんはアドバイスした。自身も時には欝々となるが、大好きな飛行機の雑誌を眺めるか、ペンを執り心のもやもやを雑文にまぎらせて、対処しているそうだ。
そして、次男坊・宗吉こと高名な作家・北杜夫さん。この人のことを思い出すと、それだけで胸の内がもうポッと温かくなる。
取材を申し込んだところ、「鬱症状のため、昼夜が逆転。夜の七時過ぎにお越しを」とあり、世田谷のご自宅には暗くなってから伺った。応接間では、のっけからウィスキ-で一杯やれる構えである。初対面でのこんなあしらいは、ほかに記憶がない。
私は一策を案じていた。北さんは虎キチすなわち阪神タイガースの熱狂的なファンとして知られている。うまい案配に「巨人・大鵬・卵焼き」はノー、生来アマノジャクの私も根っからの虎キチだ。阪神贔屓の話から入れば二人して盛り上がり、彼の気分も高揚するはず、と当て込んだのだ。ただし残念ながら、当時の阪神タイガースは久しく成績が低迷しっ放しのダメ虎で、パッとしなかった。
筋金入りの虎キチぶりを示すべく、戦後まもない頃に活躍した「猛人」藤村富美男を始めとする「ダイナマイト打線」の昔日の栄光を私が口にすると、北さんは相好をくずして言った。「当時の優勝メンバーがごっそり大毎へ抜けてった時は、ホントに悲しかった。でも、タイガースが勝ちだすと何も手につかなくなるから、弱い方が仕事はできます」
私も、そっくりだ。「同病、相憐れむ」。互いの胸の内は手に取るように分かる。北さんはうんとリラックスし、動作や話しぶりに少年のような瑞々しい趣が加わった。
話題は目下は「鬱状態」にある自身の躁鬱症へ移る。躁病は六六(昭和四一)年春、不惑にさしかかる年頃にいきなり発症した。
――躁病は祖父・紀一から母・輝子へ、そして母から僕へ遺伝して強烈になったようです。母は鬱には決してならない、もう完全な軽躁病です。母は堂々と夫・茂吉と渡り合っていた。普通の女だったら、へたばってるところですが。
長くなるので、以下のくだりは次回(「北杜夫」)に譲る。
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