柳宗悦 (やなぎむねよし)に学ぶ
- 2021年 1月 18日
- 評論・紹介・意見
- 小原 紘朝鮮柳宗悦韓国
韓国通信NO658
平和を愛する者は たえず微笑むだろう
怒号が何時何処で平和を齎(もたら)した場合があろうか
柳宗悦『朝鮮とその芸術』-朝鮮人を想う より
3.1朝鮮独立運動直後の1919年5月、読売新聞で発表された「朝鮮人を想う」は、日韓併合に対する異議と独立運動への同情心にあふれている。当時の文化人としては異例と思える時局に対する抗議の一文である。憎悪と武力に酔いしれた日本が破綻したのはそれから25年後、柳宗悦が隣国への愛を訴えてから102年になる。
<韓国の裁判所の判決は非常識か>
1月8日、韓国ソウルの地方裁判所は日本政府に対して元従軍慰安婦たちの賠償請求を認める判決を下した。コロナ、日本学術会議、桜を見る会の問題では寡黙な菅首相が素早い反応を見せた。首相は怒りをあらわに韓国政府に判決の却下を求め、徴用工問題と同様に「完全かつ最終的に解決済み」と従来の主張を繰り返した。
両国関係は泥沼状態に陥ったとする見方が広がった。
日本政府の対決姿勢に世論も呼応して、「またもや、韓国が無理難題を吹っかけてきた」「解決済みの話を蒸し返した」とあきれ顔の人が多い。
最近、大切な隣国に対する感情的な反発がとみに増えたような気がする。日韓問題の底に一体何があるのか考え込んでしまう。
1965年の「日韓条約」締結に至る過程で問題となった歴史認識の違いがいまだに尾を引いている。最近は「反韓」「嫌韓」「ヘイト」が幅を利かせる日本社会である。首相や閣僚たちの判を押したような「悪いのは韓国、正しいのは日本」発言。これではヘイトという火に油を注ぐようなもの。政治家たちの韓国・朝鮮に対する軽視が日韓関係をますますこじらせる。植民地支配を正当化する彼らの頭では徴用工たち、慰安婦たちの苦しみは理解できない。韓国から加害者が被害者のように振る舞うと批判されても返す言葉がない。
◇昨年10月、ベルリンの公園にある従軍慰安婦を象徴する「平和の像」の撤去を日本が求めた事件については本通信651号でとりあげた。ドイツまで巻き込み、日韓条約ですべて解決済みと被害者顔をしたが認められず、わが国は赤恥をかいた。
◇日米開戦とともに日系アメリカ人12万人余りが敵性市民として強制収容所に送られた。被害者たちの粘り強い訴えに、46年後の1988年にアメリカ政府は全員に公式謝罪とともに2万ドルの補償金を支払った。アメリカは腐っても民主主義国家である。「過ちては 改むるに 憚ること勿れ」を実践して見せた。
<実効性のない判決>
日本政府に対して原告一人当たり1憶ウォンの支払いを命じた判決の実現性は極めて少ない。被告(日本政府)が裁判そのものを認めず、他国からの損害賠償に応ずる必要はない「主権免除」という国際法の常識を主張している。支払いに応ずれば解決するが、日本政府に支払う意思はない。だが判決は「主権免除」の概念を一蹴して従軍慰安婦たちの性奴隷にされた苦しみに対する償いを認め、初めて日本政府の責任を明らかにした画期的判決と原告側の代理人は評価する。
裁判が韓国で行われたことに疑問を感じる人もいる。日本では日韓条約が壁になって、ことごとく敗訴したためやむなく韓国で提訴したという経緯がある。日韓条約で個人請求権が消滅したという主張は間違いだ。個人の損害賠償を認めていた締結当時の日本政府の見解を適用したなら日本で解決は可能だった。徴用工裁判でも同じことが言える。
どのような解決が考えられるのか。政治と外交に疎い私の手に負える問題ではないが、私たちには性奴隷にさせられた人たちとどう向き合うか、改めて問われたのが今回の判決だった。何もなかったように傲慢に振る舞い、責任を問われると「すべて解決済み」一辺倒で逃れる政府に拍手喝采でもあるまい。
奴隷制にまで遡り、非人道的な黒人差別解消を目指す「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」運動が世界に拡がりを見せている。世界各地で植民地の搾取と収奪、権利侵害を明らかにし、改善を求める動きも活発になっている。格差と貧困のルーツの根源を明らかにして全世界が公平に共に生きる道を模索する動きに注目したい。現代に暗い影を残す歴史の検証に時効はない。日本だけが過去から逃れ、かつての「帝国」を夢見る時代ではない。
戦争志向の為政者は、怒号と武力で他国、他民族をないがしろにすると柳宗悦は述べる。個々人の多様性を認め、敬意を払うことが平和をもたらすとも。柳は単なる美術評論家、哲学者、骨董の収集家ではない。心の美を探求し続けた平和の主張は私の心を惹きつけてやまない。
混迷を深める日韓関係を解く鍵は、柳の精神―歴史に対する謙虚さと人間に対する敬意―にあると言っても過言ではない。
柳宗悦が新婚生活を始めた千葉県我孫子の自宅を訪れた浅川伯教(のりたか)が持ち込んだ染付秋草文面取壺との出合いが決定的だった。その美しさに魅せられ、1916年の初訪朝以降、1940年まで柳の訪朝は実に21回に及んだ。今日では飛行機で日本各地から2時間程の距離だが、当時は下関から連絡船、釜山からソウルまで汽車に乗り継ぎ48時間を要する長旅だった。回数と時間に費やした情熱の源は、「涙ぐむ」程に不当な植民地朝鮮への愛だった。朝鮮には妻の兼子をはじめ陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎、富本憲吉らが同行し、彼らによる朝鮮文化の発見はわが国の民芸運動の先駆けとなった。朝鮮人の心を映す陶芸作品などを通して、日本と朝鮮の心の交流を次の世代に託した。柳は常に虐げられた少数の人たちと心をともにした。
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
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