内田樹『日本習合論』における『君が代』論寸評――「君が代」はフェントン作曲・エッケルト改作ではない――
- 2021年 2月 7日
- 評論・紹介・意見
- 内田樹岩田昌征日本習合論
内田樹『日本習合論』(ミシマ社、2020年・令和2年)を通読して思った。神仏習合、更に神仏儒習合が日本社会生成の内的潜在力によるとすれば、馬克思(マルクス)主義もまた習合されて、神仏儒馬習合が日本の未来かも知れない、と。それはさておく。
ここでは、本書の最終章で論じられている「外来のものを土着のものと習合させて、新しいものを創造する」(p.283)と言う「日本人がずっと昔からやってきたこと」(p.283)の例として著者が国歌「君が代」を提示している事の適切性を考えてみたい。やや長くなるが、関係文章を引用する。
―――日本の国歌『君が代』は、『古今和歌集』収録の「詠み人知らず」の長寿祝歌に、明治三年イギリス人の軍楽隊教官ジョン・ウィリアム・フェントンが西洋的な音階をつけたものを、明治十三年にドイツ人音楽家のフランツ・エッケルトが改作したものです。日本人の多くが、おそらく「日本固有の歌」と思い込んでいるこの曲は百五十年前にイギリス人とドイツ人の手で作られたものです。
これはいわば「習合」の精華です。だから、僕は『君が代』という歌曲はすぐれて「日本的」だと思うのです。フェントンが作曲する前、『君が代』は薩摩琵琶『蓬莱山』の歌詞の一部でした。でも、日本の国歌なのだから薩摩琵琶の旋律で歌うべきだというふうに明治の人たちは考えなかった。ヨーロッパ的旋律に『古今和歌集』を載せるほうが日本的だと直感したのです。――(pp.283-284、強調は原文)
著者が説く通り、たしかに、英国軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンが初代「君が代」を作曲した。しかしながら、海軍軍楽隊教師ドイツ人フランツ・エッケルトがそれを改作して、現行「君が代」を作り上げたのではない。
宮内省の伶人・楽人(雅楽音楽家)たる奥好義(よしいさ)が雅楽音階(壱越調律施)で作曲したメロデーをエッケルトが吹奏楽に編曲して、現行「君が代」は誕生した。イギリス人フェントン作曲の初代は、十年間使われただけで、明治日本人に不評判で捨てられたのである。もっとも、2003年にヘルマン・ゴチェフスキが発表した研究によると、彼は「現行の《君が代》が、雅楽音階に拠りながらもフェントン作曲の《君が代》の旋律の動きをモデルにして作られたことを指摘している。」(塚原康子著『明治国家と雅楽 伝統の近代化/国楽の創作』有志舎 2009年・平成21年、p.185)そうである。CD(『君が代のすべて』キング・レコード社 2000年・平成12年12月6日)でフェントン作曲「君が代」、「君が代 雅楽版」(奥好義作曲、林廣守撰)、そしてエッケルト編曲「君が代」を聴き比べれば、一聴瞭然である。『日本習合論』の『君が代』論は失当であろう。
明治初期における雅楽と西洋音楽に関して、内田習合論の文脈で参考になりうる見識をここに紹介しておこう。
―――宮中祭祀と直結する《元始際》《紀元節》《神嘗祭》《新嘗祭》には雅楽音階をあて、祭祀とさして関わりのない《一月一日》《天長節》《勅語奉答》には西洋音階があてがわれていることがわかる。このことは、宮中祭祀には雅楽種目を配し、天長節など西洋起源の行事には西洋音楽(欧州楽)を配するという、対応する宮中行事に見られる対比的音楽選択が、諸学校で歌われる儀式唱歌においては、音階の選択・折衷という形でなされたと解釈できるのではないだろうか。そして、当時このような選択を音の上で具現することができたのは、雅楽と西洋音楽を兼修し、保育唱歌を創始した雅楽家たちであった。――(塚原康子、p.185)
さて再び「君が代」に戻ろう。私=岩田の極々素人の単なる思い付きであるが、それを述べておく。奥好義が「君が代」作曲の機会をもらった時、あるいは命を受けた時、当然初代「君が代」の「旋律の動き」を参考にしたに違いない。しかし、それが現行「君が代」の主旋律になったのではなく、奥等雅楽家が慣れ親しんでいた国風歌舞の一つ「久米歌」の「音取」の調べにインスパイアーされて現行「君が代」が作曲されたのではなかろうか。多忠麿のCD『古代歌謡の世界』で「久米歌壱具-国風歌舞」の「合音取(あわせねとり)」の59秒間に耳を澄ませているとそう感じる。
但し、「久米歌」は、文正元年(1466年)以来廃絶、文政元年(1818年)に朝廷楽家集団によって復曲された。いわゆる「創造された伝統」であり、彼等の感性に在った原古である。
『日本習合論』の著者は、ヨーロッパ的旋律に『古今和歌集』を載せたと説くが、私=岩田は、『古今和歌集』よりはるかに古く、天平勝宝元年(749年)大仏供養に奏された記録が残る「久米歌」の「音取」に由来する調べに『古今』時代すでに詠み人知らずになっていた古歌を載せた、と想念する。
王政復古、神武創業回帰の建前をかかげた明治近代革命Revolutionに神武東征で歌われた「久米歌」「音取」の調べが日本史の伝統的制度に存在したことがなかった国歌なる新国制に生かされているとすれば、これまさしく新「習合」。
令和3年1月31日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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