リハビリ日記Ⅳ 41 42
- 2021年 2月 9日
- カルチャー
- 河野多恵子阿部浪子
41 小説家、河野多恵子は悪人か
黄色い果実をつけたカリンの木の下に、白いスイセンの花が咲いている。ほんのり香ってくる。楚々たる姿はうつくしい。冬の白い花は冷たい感じがするけれど、花の中央の黄色い部分は春のあったかさを想わせる。
〈クリエイトへ行くの〉〈いや、すずかけセントラル病院に行くんです〉。会館前で予約のタクシーを待っていた。自転車の女性が、にこにこしながらたずねてくる。どこの人だろう? きょうは定期の受診日である。
後日わかるのだが、彼女は、ドラッグストア、クリエイトでわたしの姿をときおり見かけていたようだ。別居していた夫と同居するようになり、食事の支度がたいへんだという。老いて愛のかたちもさまざまだ。彼女の朝の自転車散策は、充電のひとときだろうか。
〈脈拍数が多いですね。血圧はいいです〉横山徹夫先生の指摘があった。
ミニストップでほかほか肉まんを食べる。外出先での間食はのん気でたのしい。くらべれば、ファミリーマートの肉まんのほうがずっとおいしいと思った。
正午すぎ、リハビリ室による。理学療法士、T先生は、あいにく休みだった。H先生に少しだけわが近況をしゃべる。ここの先生たちの評判はとてもよい。わが町内のあちこちで耳にする。先生たちは患者の、こころとからだと直に向きあう。マニュアルどおりにはいかない。専門知識と日々の経験と個人の才覚とが問われる仕事であろう。T先生は、後輩たちを導く立場にある。
*
年末から年始にかけてポケットラジオを愉しんだ。NHK第1放送の、インタビュー・対談・座談会を聴く。作家の高樹のぶ子、法政大総長の田中優子の発言が感銘ふかかったが、とりわけ、元日夜放送の「高橋源一郎の飛ぶ教室」が印象にのこった。高橋の切り口あざやかな書評の時間だが、この日は特別企画。98歳の作家、瀬戸内寂聴が電話出演した。
瀬戸内に『いのち』(講談社)という、自伝的長編小説がある。長年親交のあった作家、大庭みな子と河野多恵子との思い出、70年の人生で出会った男たちとの出会いをつづったもの。さらに95歳の瀬戸内は、自らの老いと対面しつつ人のいのちを見つめる。
本書には、高橋によれば、こう書かれてあるという。河野多恵子は悪人です。お気をつけあそばせ、と。大庭が編集者にいったそうな。本書は小説だが、現実にも、そういう場面はあったのではないか。
わたしは1度だけ、瀬戸内晴美(寂聴)の元夫と会っている。くわしくは、拙著『本と人の風景』(ながらみ書房)を読んでみてください。
そのとき、はたと気づいたことがある。瀬戸内は、対象をかなり忠実にリアルに描く作家だと思ったのである。
大庭発言は、たしかに存在したのにちがいない。大庭の率直な思いは、あるいは、瀬戸内がいだく偽らざる思いだったのかもしれない。
文芸評論家、平野謙の告別式を待つ最前列で、瀬戸内と河野がいかにもたのしそうに話していた。以来わたしは、2人は仲良しと想ってきた。そこに大庭がくわわる。3人は互いに文筆を競いあってきた。ライバル意識をはげしく燃やしてきた。きれいごとばかりではなかったはずである。
そうだ。ひとつ書き忘れた。わたしは女性作家について多くの人に取材した。そのなかで〈河野多恵子は、ワルだよ〉と語った人がいた。
42 河野多恵子はノーベル賞受賞を画策していた
「桜を見る会」にかんしては、ヤフーニュースによくでてきた。前夜の夕食会の費用をめぐり、当事者の安倍前総理大臣が記者会見をした。言いたい放題の弁明だ。「全部秘書がやったことで私は知らなかった」「責任者が私に真実を話していたら」などと。すべて責任を秘書になすりつける。秘書としては憤懣やるかたない。卑怯なやり方だ。ずるい男である。他人をあざむく自分をどう思っているのだろう。安倍自身の生き方にかかわる問題だ。使い捨てを平然とできる人なのかもしれない。
何年か前のこと。わたしは、ある女性からこんなことを聴いた。彼女は、高齢者の住まいを訪ねては食事の支度をしていた。東京区内のアパートの1室に、安倍の元私設秘書がいた。1人住まいで、車椅子を利用していた。安倍の遠縁にあたるという。彼女からとつぜん、そんな話を聴かされたのだ。わたしはとっさに、元秘書は使い捨てにされた人ではないか、と思った。
週1回のリハビリ教室にでかける。女先生のでっかい声で2021年度の授業はスタートした。通所者9人。うち男性が2人。みな、おとなしい。
3時間の体操は気晴らしだ。いや、通所しなければ、わが後遺症は回復にむかわない。からだは正直者。動かせば動かすだけ円滑になる。柔道整復師、山田好洋先生の開発したイーフットをつけて、室内を歩行する。右の患足がたかくあがる。大股にも歩ける。わたしは、わかいころから小股でせかせか歩いていたものだ。
教室の外は暮れていく。おやっ? すずなさんが帽子をかぶって、ジャンパーをはおっている。まだ、授業は終わっていないぞ。80代の男性だ。その姿に、わたしはなぜか、もの哀しくなった。かれは内面で帰宅をせきたてられたのかもしれない。
1月9日。思いがけないプレゼントがあった。町内39軒のつどう新年会が、コロナ禍で中止になった。その代わり、会員に品物と金券をくばるという。自治会支部長、安杖さんの粋な計らいである。
所定の会館前には、りえこさんもはるひこさんも、来ていた。役員の、安杖さんとまさこさんがてきぱき対応している。みな、ちょっぴりうれしそうだ。贈り物は、アルコール無添加のしょうゆ2本と3000円の金券。金券は町内の、フランス料理店・中華料理店・居酒屋・八百屋でつかえる。さーて、どの店から行こうか。
*
河野多恵子は、平林たい子記念文学会の理事長をしていた。師で長老作家の丹羽文雄と〈唯我独尊〉の女理事にうまく取りいって、トップの座を獲得したのだった。文学者が強い力をほしがるとは。
数年前、わたしは、拙著『書くこと恋することー危機の時代のおんな作家たち』(社会評
論社)の冒頭に書いた。ある女作家がニューヨークでノーベル文学賞受賞を画策していた、と。この情報を提供してくれた編集者は〈ぼくの名を書かなければ、この話は書いていいよ〉といった。しかしわたしは、きょうまで、女作家の名前も、書いてこなかった。
いまここに明かせば、女作家は、河野多恵子だった。自己顕示欲のつよい人。政治的な、エゴイストだ。当時、河野は1年の半分をニューヨークに滞在していたのである。
ついでに書こう。死刑囚で作家だった永山則夫は、日本文藝家協会に入会を申請したが拒否された。このとき河野も、永山の入会を反対した1人であった。そういう人が自分のよこにきたら怖いわ、といったそうだ。
河野多恵子には、文学・文学者への愛情がほしかった。公平な目配りがほしかった。
なぜ河野は、平林たい子文学賞を存続させなかったのか。
なによりも、たい子の文学観と遺志を尊重してほしかった。たい子は、努力して報われない文学者への受賞を切にねがっていたのだった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture0970:210209〕
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