古代中国史を逍遥する(3)
- 2021年 2月 23日
- スタディルーム
- 合澤 清
参照文献:『都市国家から中華へ 殷周春秋戦国』平勢隆郎著(講談社:中国の歴史02 2005)/『黄河の水』鳥山喜一著(角川文庫1963)/『新十八史略』駒田・常石ほか著(河出文庫1,2 1993)・・・[上からそれぞれ、『シリーズ02』、『黄河』、『史略』と略記]
閉じこもりの単調で、陰鬱な生活を送っていると、あちこちと気ままに拾い読みしながら過ごす時間つぶしも満更でもない。その道の専門家になろうとするのでもない素人のわれわれにとって、たとえ知識が頭の中を素通りするだけにしても、少なくとも読んでいるその時点では、歴史的事象に重ね合わせて自分の想像力も膨らんでいるというものである。
「酒池肉林」
前回(2)で、殷王朝の崩壊について少しだけ触れてみた。暴虐無道な殷の紂王は周の武王に攻められ、なおかつ自国の民衆に愛想をつかされた挙句、金銀宝玉を身に着けて鹿台に火を放ち焼身自殺を遂げ、その寵妃妲己は周の武王によって誅殺されたという物語であった。
今回はそのような物語に絡めながら、興味深い話題をつまみ食いしてみたい。
『黄河』や『史略』で紹介されているいろんな諺や格言、名言などにまつわる話もなかなか興味深いし、一々の由来を知ると数倍楽しめる。先刻ご承知の事と思うが、いくつか掲げたい。
「酒池肉林」は、司馬遷の『史記』「殷本紀」にある「以酒為池、懸肉為林」に由来するといわれている。もっともこれには異説があって、殷の前の「夏」王朝(夏は大きいという意味だともいわれるし、また「文明的なことを表す象形文字」で、「華」と同じだともいう)の最後の天子となった桀王が豪華な御殿で行った乱痴気騒ぎを指すともいわれる。
『アラビアンナイト」の中でも、これと同じような破天荒なシーンが描かれていたように記憶しているが、どうも中国人の想像力はとてつもないようで、桀王は家臣3000人を集めてこういう狂乱を連日連夜やらかしたというのだから、桁が違う(日本の太閤秀吉のお遊びなど、向こうから見れば「児戯」に等しいものにすぎなかろう)。
このような易姓革命を正当化する逸話に対して、殷王朝から周王朝への権力移動は、実際にはこんな形ではなかったのではないかという別説がある。藤堂明保は次のように述べる。
「…してみると『酒池肉林』の話はたぶんウソである。事実は華北にはじめて地上最大の権力をうちたてた紂王が、さらに多くの奴隷と財宝とを手に入れようとして、南に手をのばしたのだ。その遠征に失敗した虚をつかれて、殷は滅亡したのである。だから紂王は、世間で言う意味のバカではない。むしろ『聞見に敏くして』、貪欲この上ない野心家であった」(『中国名言集』上 朝日文庫)
往々にして史実とそれにまつわる逸話・物語との関連とはこういうものなのかもしれない。敗者が無残にたたかれ、けなされるのは今日でも珍しくない。
そして私見では、藤堂がこの後で紹介している「殷の頑民」の話は、この説の正しさを証明しているように思える。
藤堂によれば、殷と周とでは文化程度に開きがあったという。殷墟(山東半島の付け根辺り)からは「『蚕の神をまつる』と解読される甲骨卜辞が見つかっており、絹地の断片と思われる遺物も出てきている」「単に養蚕だけではない。青銅器・陶器・漆器なども、東の殷のほうが西方の周よりも進んでいた。だから征服した周の側が、敗残の殷人よりも文化的に立ち遅れていたことは言うまでもない」
それ故、周としては、殷の巻き返しを恐れるとともに、先進の殷文化を取り入れ、自国発展のために役立てたいと考えるのは当然である。ここに成王の摂政で叔父にあたる周公旦の活躍の場面がある。
周公は、殷の紂王の遺児を探しだし、殷の初期の根拠地であった華中の宋の国に領地を与え、そこに殷の遺民を集め、祖先の祭礼を行うことも許した。しかし、もちろん辺鄙な場所に転封された殷人たちがそれで満足するはずはない。かといって、武力で周を打倒する力もない。「宋に移ることを肯んじない反骨の殷人(職人)は、自分の製品をもって行商することとなった」「『殷』とは、周人の側から名付けた通称であり、殷の人たち自身はその国を『商』と呼んでいた。その商の遺民が考えた新しい生活の道なので、それを『商人』の『商業』と呼ぶのである」。因みに「商」とは、平原の中の明るい高台を意味し、殷人はそこに集落を作り生活したため自分たちを「商」と自称したといわれる。
『書経』によると、周公は、殷の役人を周の都洛陽に招き、「わが小国」を助けてもらいたいと呼びかけているという。「殷の頑民(頭を丸めた奴隷ども)」という言い方は、それから30有余年後の三代目の康王の時になって言われ始めたようで、そのころから商業は四民(「士農工商」)の最下層に位置付けられるようになったという。
孔子が仁や礼などと礼賛する周公旦の統治は、きれいごとではなく、全くの懐柔策であったことがわかる。
少々横道にそれた話をしたい。ここに引用した本の著者、藤堂明保は、1969年の東大安田講堂攻防戦の時、600人の学生を7000人の機動隊が取り囲み、暴力的に排除したことに抗議して文学部教授を辞したという経歴の持ち主である。彼は1915年生まれで、旧制中学三年の時に満州事変を、また大学一年の時に2.26事件を、そして大学三年の時には日中の全面戦争突入を経験している。しかし、東大の中国学は、そのような時にも江戸時代以来の「漢学」を講じていたという。
彼が東大を辞めた大きな要因には、このような「干からびた」学問の在り方への怒りと、古代と現代、日本と中国をつなぐ絆を中国史を通じて明らかにしたいという心情があったように思える。
「三千年の変動を経ても中国は一つであり、トータルな統一体として彼らの『物事の考え方』に筋が通っていることを明らかにしたかった」(はしがき)
「宋襄の仁」
さて再び諺、格言、名言にまつわる話に戻り、それらの歴史的な根拠を探ってみたい。
殷王朝が華中の宋に封ぜられ、数百年の時が立ったころ、周王朝もすでに衰え、世は群雄割拠の様相を示すに至った(春秋戦国時代と呼ばれる)。もちろん「春秋」という名前は、孔子が編集したと伝えられる『春秋』に由来してつけられたものといわれている。
この時代に至るもまだ「殷人」としての沽券を保っていた、宋の襄公にまつわる故事に「宋襄の仁」というのがある。普通には「お人よし」「無益の情け」と他人をあざけるときに使われる言葉である。
そのいわれは、宋の国の襄公が、紀元前638年冬、南から北上してきた楚の大軍を泓水で迎え撃った時の話である。宋は陣を構えて待ち受ける、その面前で楚軍が川を渡り始めた。まともに合戦しても到底勝ち目がないほどの軍勢である。宋の参謀、子魚(しぎょ)が献策し、「今、この時こそ攻めかかる時です」というが襄公は返事をせず、敵が川を渡り切った時に初めて「かかれ」の下知を下したが、時すでに遅く、宋軍は壊滅し、襄公は深手を負って逃げかえるありさまとなった。そして不平を言う部下たちに曰く、「君子は傷つきし者を重ねて傷めず。頭白き者を虜にせず。…われ亡国の子孫なりといえども、列をなさざる敵に向かいては鼓を打たず」と。
子魚は腹を立てて言う、「戦うことは相手を殺すことであり、傷ついた者に情けをかけるのなら、最初から傷つけなければよい。老人を虜にしないつもりなら、最初から降伏すればよい」と。
藤堂はこのドン・キホーテは「何とも憎めない」という。宋人は亡国の民の子孫だということで、周囲の人からバカにされていた。そのために、ことさらにプライドを刺激されたのかもしれない。
しかし今日、五輪そのほか、いろいろな名誉職を身に着けて、かつての碌でもない家柄を誇り、偉ぶってふんぞり返っている輩を見るにつけ、つくづく「阿呆につける薬はない」と思ってしまう。「阿呆律儀」なら藤堂が言うように、まだしもご愛敬だと思うのだが。
大盗賊盗跖と聖人孔子―本当の盗人はどちらか
さて、春秋時代に入る前にまた少しわき道に入る。
岩波文庫に『荘子』という4冊本がある。その「第四冊雑篇」の中の第29は盗跖篇という。
この盗跖(とうせき)とは、実は春秋時代の伝説的大盗賊で、手下が9000人もいたといわれている。ここでもわが邦の熊坂長範や石川五右衛門と比べて、彼我のスケールの差を思い知らされるのだが、しかも彼はなんと聖人孔子と同郷で同時代人であるというから面白い。
盗跖の兄は柳下季(りゅうかき)といい、孔子の友人である。しかし実際には、柳下季は孔子よりも80歳も年長で、『論語』の中でも称賛されている人物であるという。もちろんこの『荘子』の中の話は架空噺である。また、この話(盗跖と孔子との架空対話)の本当の作者が荘子ではなかったとしても、なかなか興味を引くお話である。
ここで詳細に述べることは控えたいが、大筋だけかいつまんで言えば、孔子が柳下季に、「父が子を戒めるように、兄は弟を導くべきである」というのに対して、柳下季は「そんなことはできない。人間誰でもそれぞれの性情があり、弟は決してあなたの言うことなどに耳を傾けることはありませんから、説得しようと出向くことはおやめなさい」と答える。それでも孔子は聞き入れずに、弟子の顔回と子貢を伴って盗跖のところに行く。そしてこういう問答をする。「あなたは体躯も容姿も並外れて立派である。それを良い方向に向けて使えば、一国一城の主にも簡単になれるのではないでしょうか」。盗跖はそれに答えて言う。「やたら人をほめて言葉で釣ろうとするのは、バカな俗物のやることだ。俺の肉体や容姿は、俺の両親からもらったに過ぎない。俺は一国一城なんて望んではいない。堯舜は天下を取ったのに後世の子孫は絶滅したではないか。お前は俺を盗人というが、お前も口先三寸で大名どもを手なずけて、富貴を獲得しようとしているではないか。お前こそ俺以上の盗賊である」・・・云々。
結局孔子は彼を説得できないどころか、逆に言い負かされるのである。まさに儒家の礼教主義に対する強烈な批判である。
今流の議論からすれば、孔子は世間の常軌を踏み外すことなく、体制に順応して出世すべしと説くのである。それに対する盗跖の答えは、体制=権力が勝手に決めた「正義」を振り回して富貴を得るなど、まっぴらだ。口先三寸で体制にすり寄って偉くなろうとするお前こそ、俺以上の大泥棒だ。(私には、「正常」と「異常」をめぐるミシェル・フーコーの会話のようにも思えたのだが、少々強引な深読みであろうか…。それにしても《口舌の徒》ばかりがはびこる世の中ではある)。
後から創られた「春秋時代」にまつわる伝説
かなり手前味噌に抜書きしたお話を、いつものように平勢隆郎の『シリーズ02』からの引用でまとめて、この回の報告を締めくくりたいと思う。
「春秋時代といえば、孔子であり、この人物ほど歴代の尊崇を集めた思想家もいない。尊崇を集めたが故の理想化もかなりある。われわれが目にすることが多い孔子像は、宋明理学(朱子学・陽明学など)とまとめられる学問体系の中で語られたものである。士大夫(したいふ)の理想としての孔子像である。これとは別に、後漢から唐にかけての注釈を通してうかがえる聖人としての孔子像がある。更に、後漢時代にさかんに作られた『緯書』の孔子像である。
孔子は弟子をたくさん育てた。その弟子たちもさらに弟子を育てた。そうして増えていった孔子の後継者たちが、戦国時代には、各国で活躍するようになる。その過程で次第に形を整えるのが原始儒教である。その儒教はわれわれが知る儒教とは異なっている」
「太子公自序では『春秋』(孔子の作だといわれているが、実際には戦国時代の斉で作られた)だけでなく、屈原の離騒(『楚辞』戦国時代の楚で作られた)、呂不韋の『呂覧』(『呂氏春秋』戦国時代の秦で作られた)などに言及する。『春秋』は材料の一つにすぎない。『史記』孔子世家は、『春秋』は孔子が作ったと明言した上で、さらにこう述べる。「後に王者が現れ、『春秋』を読んでその義を行うことになれば、天下の乱臣賊子は懼れることになる」。…太子公の言によれば、『春秋』の義は今、すなわち武帝の御代に議論されているわけである。「その義を行う者」とは武帝であることが示されているのである。孔子が王者だと予言したのは、武帝のことを言っていたのだと、漢の武帝の時には考えられていたわけである。それをほのめかしているのは『春秋』ではなく『史記』である。戦国時代の斉で『春秋』の義が議論された際には、王者は威宣王を指し、前漢末では王莽を指すことになっている。その度に孔子は賢人として利用されたわけである。孔子の利用の意図は書物ごとに復元しなければ、矛盾がかすんでしまう」
「歴史は夜つくられる」などという言葉がもてはやされた一時期があったように思うが、時の為政者によって孔子は様々に利用されながら「聖人君子」の代表に祭り上げられていく。ジョージ・ワシントンが黒人奴隷を所有していたこと、エブラハム・リンカーンが先住民族に対する抑圧者であったこと。当然、歴史は後世になって修正されることがなければならない。
「キリスト教の理念は時代によって違った捉え方がなされ、現代には現代なりのキリスト教観がある」とヘーゲルは『哲学史講義』の中で書いている。ここまで講義で話をするヘーゲルの頭は柔軟である。
『ヘーゲルの時代にはまだ異端審問が残っていたはずで、彼はかなり発言に気を付けたはずだよ』と、かつて廣松渉先生が言われていた。実際にもヘーゲルの助手を務めていたことのあるブルーノ・バウエル(「青年ヘーゲル派」としてマルクスに批判された当人)は、匿名で、ヘーゲルの『宗教哲学講義』をもって、「無神論者ヘーゲル」と告発したほどであった。
また横道にそれてしまったがご勘弁願いたい。
2021.2.23記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1157:210223〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。