2月23日「<歌会始>と天皇制」について、報告しました(4)
- 2021年 2月 28日
- 評論・紹介・意見
- 天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく
(穂村弘1962~)(『短歌研究』2006年10月) - ゴージャスな背もたれから背を数センチ浮かせ続ける天皇陛下(穂村弘)
(『短歌往来』2010年2月) - 天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ
(吉川宏志1969~)(『短歌』2011年10月 『燕麦』2012年所収) - つまりなるべくしずかに座っててください 察しますから、察しますから(国民統合の象徴でいただく為の文化的貢献こそ、われわれ歌人にしか不可能な、超政治的貢献である)
(斉藤斎藤1972~)(『短歌研究』2021年1月)
7.平成の天皇夫妻の短歌における「平和祈念・慰霊」というメッセージ
つぎの平成期の天皇夫妻の短歌を見ていきたいと思います。さきに、沖縄へのこだわりは強く、11回の訪問とともに、多くの短歌や「おことば」を残し、その背景については述べました。沖縄への思いと同様なスタンスで、さらに広く、「平和祈念・慰霊」のための短歌を多く詠んでいます。ここでは、主なものを資料として配っていますが、さらに、しぼった形で、触れてみたいと思います。多くは、天皇・皇后の慰霊の旅の訪問先で詠んだ短歌なので、天皇・皇后の同じ体験のもとに詠んだ短歌が残されていますが、やや異なる視点であることに注目しました。優劣というわけではなく、二人は、デュエットのように歌い続けてきました。
天皇は、おおらかというか、大局的な、そして儀礼的な短歌が多く、皇后は、人間や自然観察が細やかで、情緒的な短歌が多いように思います。天皇の短歌には、明治天皇や昭和天皇の作かと思われるような次のような短歌もあります。
⑰ 波立たぬ世を願ひつつ新しき年の始めを迎へ祝はむ
(天皇)(1994年 歌会始 「波」)
⑱ 国のため尽くさむとして戦ひに傷つきし人のうへを忘れず
(天皇)(1998年 日本傷痍軍人会創立四十五周年にあたり)
1994年に硫黄島で詠んだ短歌では、天皇は、「島は悲しき」と歌い、皇后の作は、兵士たちの最期を「水を欲りけむ」と歌っています。
⑲ 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき
(天皇)(1994 硫黄島)(終戦50年)
⑳ 慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲りけむ
(皇后)(1994 硫黄島)
1995年、広島を訪れた折には、同じ「被爆五十年」の作ながら、皇后は「雨の香」に着目しています。「黒い雨」を浴びた被爆者たちはどう思われたでしょうか。
㉑ 原爆のまがを患ふ人々の五十年の日々いかにありけむ
(天皇)(1995年 原子爆弾投下されてより五十年経ちて)
㉒ 被爆五十年広島の地に静かにも雨降り注ぐ雨の香のして
(皇后)(1995年 広島)
2005年、サイパンを訪れた際には、皇后は、次々と崖から飛び降りて自決していった女性たちの「足裏」に思いを至らせた作になっています。
㉓ サイパンに戦ひし人その様を浜辺に伏して我らに語りき
(天皇)(2005年 サイパン島訪問)
㉔ いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし
(皇后)(2005年 サイパン島)
また、皇后の次のような短歌には、戦争や内乱における加害・被害の認識についてやや屈折した思いを詠んだ短歌もあります。
㉕ 慰霊碑は白夜に立てり君が花抗議者の花ともに置かれて
(皇后)(2000年 オランダ訪問の折りに)
㉖ 知らずしてわれも撃ちしや春闌くるバーミアンの野にみ仏在(ま)さず
(皇后)(2001年 野)
こうして、天皇夫妻が発するメッセージは、国民にどう届いているのでしょうか。その検証は難しいのですが、少なくとも、ジャーナリストや史家、歌人たちからマス・メデイアを通じて流れてくる鑑賞や解説は、国民を思い、平和を願い、護憲を貫くメッセージとして、高く評価する人たちがほとんどです。さらに、2015年戦後七〇年の「安倍談話」と8月15日全国戦没者追悼式における天皇の「おことば」とを比較し、政権への抵抗さえ感じさせるという声も少なくありませんでした。
このようにして、平和や慰霊をテーマにした短歌に限らず、災害や福祉、環境などをテーマに短観を詠み、国民に発信することによって、政治・経済政策の欠陥を厚く補完し、国民の視点をそらす役割すら担ってしまう事実を無視できないと思っています。
現在の徳仁天皇夫妻の短歌は未知数の部分がありますが、もっぱら被災地訪問や視察先の歌が多く、雅子皇后は、皇太子妃時代から、わが子の詠んだ短歌が多くなっています。短歌での発信力は、平成の天皇時代とは明らかに違い、自然や家族を歌い、ときには、行事での儀礼的な短歌が多くなるのではないかと思っています。
以上、主として昭和天皇と平成の天皇夫妻の短歌を紹介しながら、どんなメッセージが託されているか探ってみました。天皇たちの思想や気持ちを推し量り、それによって歴史を語ることの危うさをひしと感じています。「短歌」は、短い文言で成り立っているので、わかりやすく、「考え方」や「お気持ち」や「心情」が端的に表現されて、人々の心にも届きやすいとして、マス・メディアや歴史書には、幾度となく登場してきました。
皇室は、「国民に寄り添い、平和を願い、家族や自然をいつくしむ」人々として語られ、「国民統合の象徴」「家族の在り方のモデル」としての役割を担っていますが、今後のゆくへを注視しなければなりません。「短歌」もそうですが、人間の残した日記やインタビューなどで語られたことをあまり過大評価してはならない、と感じています。
8.終わりに~“リベラル派”の護憲と天皇
国民は、天皇の短歌やおことば、振る舞いによって、寄り添われ、慰められることはあっても、決して具体的な解決にはつながらないまま、一種の思考停止に陥ってしまうのではないかという懸念が去りません。天皇制の陥穽ではないかと思うのです。 近年、そうした陥穽への道をくだるのを助長する、いわゆるリベラルと称される識者などの発言がマス・メディアに蔓延するようになり、危惧を感じています。
平成の天皇夫妻の沖縄の短歌や発言による「天皇の沖縄への思い」ついて、右翼と称される日本会議は、2012年に、『天皇陛下と沖縄」というブックレットを出版するようになります。
ところが、日本会議ばかりでなく、天皇の「沖縄への思い」「平和への願い」を高く評価する発言が、いわゆる<リベラル派>と呼ばれる識者から見受けられるようになりました。
矢部宏治(1960~):1975年のひめゆりの塔事件の夜の談話をひいて、「初回訪問時の約束通り、長い年月をかけて心を寄せ続けた沖縄は、象徴天皇という時代の「天皇のかたち」を探し求める明仁天皇の原点となっていったのです」(『戦争をしない国―明仁天皇メッセージ』小学館 2015年)。矢部は『日本は、なぜ基地や原発を止められないのか』(集英社インターナショナル 2014年)の著者でもあります。
金子兜太(1919年~2018年): 金子兜太選「老陛下平和を願い幾旅路」(伊藤貴代美 七四才 東京都)選評、「天皇ご夫妻には頭が下がる。戦争責任を御身をもって償おうとして、南方の激戦地への訪問を繰り返しておられる。好戦派、恥を知れ。」(「平和の俳句」『東京新聞』2016年4月29日)。「アベ政治を許さない」のプラカード揮毫者でもあります.
金子勝(1952~):「【沖縄に寄り添う】天皇陛下は記者会見で、沖縄のくだりで声を震わせて「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と語る。アベは聞いているのか?」(2018年12月23日ツイート✔ @masaru_kaneko)。マルクス経済学者として活動しています。
白井聡(1977~):「今上天皇はお言葉の中でも強調していたように、「象徴としての役割」を果たすことに全力を尽くしてきたと思います。ここで言う象徴とは、「国民統合の象徴」を意味します。天皇は何度も沖縄を訪問していますが、それは沖縄が国民統合が最も脆弱化している場所であり、永続敗戦レジームによる国民統合の矛盾を押しつけられた場所だからでしょう。天皇はこうした状況全般に対する強い危機感を抱き、この危機を乗り越えるべく闘ってきた。そうした姿に共感と敬意を私は覚えます。天皇が人間として立派なことをやり、考え抜かれた言葉を投げ掛けた。1人の人間がこれだけ頑張っているのに、誰もそれに応えないというのではあまりにも気の毒です。」という主旨のことを述べています。(「天皇のお言葉に秘められた<烈しさ>を読む 東洋経済新報オンライン 2018年8月2日、国分功一郎との対談)。『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田出版 2013年)の著者でもあります。
内田樹(1950~):天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、これは古代から変りません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。(「私の天皇論」『月刊日本』2019年1月)
永田和宏(1947~):「戦争の苛烈な記憶から、初めは天皇家に対して複雑な思いを抱いていた沖縄の人々でしたが、両陛下の沖縄への変わらぬ、そして真摯な思いは、沖縄の人々の心を確実に変えていったように思えます。両陛下のご訪問は、いつまでも自分たちの個々の悲劇を忘れないで、それを国民に示してくださる大きなと希望になっているのではないでしょうか」(『宮中歌会始全歌集』東京書籍 2019年)。永田は、冒頭に紹介しました『象徴のうた』の著者でもあり、2004年戦後生まれの歌会始選者として就任してから、現在に至っています。安保法制の反対を主張していましたし、今回の学術会議の会員任命問題でも異議を唱えている研究者です。
美智子皇后との交流を語る石牟礼道子、憲法学者の長谷部恭男は、天皇制は、憲法の番外地というし、木村草太は、天皇の人権が大事というし、加藤陽子は、半藤一利を偲んで、「昭和史」シリーズを大絶賛しています。原武史は、いまの天皇が、元旦のビデオメッセージで夫妻揃って、「国民」ではなく、「皆さん」「皆さま」、と呼び掛けていることを評価していました。言葉だけの問題ではないようにも思います。宮内庁にも物申し、着眼のユニークさと多角的な天皇制論を展開されていることには敬意を表しているのですが。
こうした発言を、どうとらえるのか、どう乗り越えればよいのか、とくに若い世代の天皇制、天皇への無関心という壁にどう対峙していくのかが、今後の課題だと、私は考えています。歌壇では、私に対して、非寛容、視野狭窄、硬直といった声も聞こえるのですが、まだ私の仕事は終わってないような気がしています。
以下は、当日の話には、触れることができなかったのですが、配布資料には収録したものです。現在、短歌の世界、第一線で活躍する中堅歌人たちの天皇観は次のような作品から読み取れると思いますが、いかがでしょうか。吉川、斉藤の両者とは、かつて、論争になりかけたことがありました。
初出:「内野光子のブログ」2021.2.28より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10593:210228〕
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