現代短歌の”最先端””最前線”とは
- 2021年 3月 4日
- 評論・紹介・意見
- ポトナム内野光子現代短歌
私が会員である『ポトナム』3月号の「歌壇時評」に書いたものです。「無力感」にさいなまれながらもかすかな希望を宿しつつ・・・。いまは、3カ月の時評を終えてホッとしている。
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一月号の当欄では「新聞歌壇」の選者と投稿者の間のサロン化について触れた。時評欄においても、歌人同士がエールの交換をしたり、若手・新人を褒めはやしたりする場になることが多い。
昨年末の『朝日新聞』の「短歌時評」(12月20日)において、松村正直は「違和感を手掛かりに」と題して「雪見だいふくだとあまりにふたりで感なのでピノにして君の家に行く 月」(石井大成、現代短歌社賞佳作)などの若い歌人の作品を引いて、「〈ふたりで感〉とは一体何のことか」と問いながら、二個入りパッケージの「雪見だいふく」が「恋人っぽい感じが強く出てしまう」という感じは「ふたりで感」が「ぴったりではないか」と言い、「違和感を覚えた部分が、むしろ魅力になっていることも多い」と結論づける。また、松村は「水・日でやってるポイント5倍デーそのどちらかで買うヨーグルト」(平出奔)など、短歌研究新人賞作品を引いて、「あてどないくらしの様子が、最先端の時代感覚や気分を映し出している」と評していた時評もあった(「短歌時評・二つの最先端」『朝日新聞』2020年9月20日)。なんとも不安定な「ふたりで感」という造語、ヨーグルトの一首にしても、日常の些細な事実や現象を拾って、読者の自分体験に照らしての「あるある」という共感を誘いはするが、時代感覚や気分を反映した「最先端」の作品と言えるのだろうか。
『東京新聞』の匿名コラム「大波小波」(12月19日)では、「よれよれにジャケットがなるジャケットでジャケットでしないことをするから」「〈ヤギ ばか〉で検索すると崖にいるヤギの画像がたくさんでてくる」(永井祐『広い世界と2や8や7』)の二首を引いて、「独特の脱力したような世界観が、一層生き生きとラジカルになっている」として、「それがどうしたと思うようなことをわざと書いてこの世界の関節を外す作者の得意技」と称え、「現代短歌の最前線」として伝えている。
口語短歌の歴史は、決して新しいものでもなく、口語がいけない、破調がいけないというわけではない。現に、俵万智、穂村弘の短歌をきっかけに歌を作り始めたという歌人も多い。上記の作者たちもその流れを継いでいるのだろう。些細な、新しいものへの着目力、親しみやすい表現力が魅力的に思えることもあり、そんな短歌があってもいいと思うが、現代短歌の「最先端」「最前線」との評価には、いささか違和感を覚えたのである。
さらに、やはり、上記、永井の歌集から「日の当たるあんな大きな階段でお弁当4人くらいで食べたい」「二年間かけて一回お茶をするぐらい仲良くなれてよかった」を引き、永井は、〈人生〉か〈一瞬〉かを捉える「二元論」に抗おうとしている口語短歌の潮流を作り出したと位置付け、「〈人生〉でもない〈一瞬〉でもない広い世界で、〈私〉はのびのびとその世界との関係をたのしむだろう」という時評(「谷川電話『赤旗』12月25日)にも出会った。近年の、二項対立を嫌う「リベラル」な人々のファージーな物言いを見るような気もする。
歌人、永井祐は、一九八一年生まれ、現代のリアリズムの源流を探るいくつかのエッセイも書き、同世代の歌人たちと「短歌のピーナッツ」というブログで、二〇一六・一七年には、歌論や短歌史などの、歌集ではない「歌書」の書評を精力的に書いていた。みずからのリアリズムを求め、世代を超えたコミュニケーション力を持つ歌人でもあるはずである。(『ポトナム』2021年3月号所収)
初出:「内野光子のブログ」2021.3.3より許可を得て転載
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