「戦争の語り部」本多立太郎さん死去―外国での「憲法9条手渡し運動」を提案
- 2010年 6月 5日
- 評論・紹介・意見
「戦争体験出前囃(ばなし)」で知られた本多立太郎さんが5月27日に亡くなった。96歳だった。人生最後の仕事として本多さんが意欲を燃やしていた、フランス・パリでの「日本国憲法9条手渡し運動」はついに実現しないまま、その類い希な人生を閉じた。本多さんが終生抱き続けた願いは、私たちに課題として残されたといえる。
本多さんは、1914年に北海道小樽市に生まれた。20歳で東京に出、新聞社に勤務するが、日中戦争下の1939年、25歳の時に召集され、中国戦線へ。いったん帰国するが再び召集され、1945年、千島列島の占守島で敗戦を迎えた。上陸してきたソ連軍に拘束され、シベリアへ送られた。2年間の抑留生活の後、1947年に帰国した。
その後、信用金庫協会に就職し、大阪、熊本などで勤務したが、1975年に定年退職となった。その時、60歳。定年退職後は大阪に住んだ。
その後、日本が次第に軍備増強への道をたどりつつあることに危機感を抱き、「日本は再び戦争を起こしてはならない」との思いから、自らの戦争体験を、戦争を知らない世代に伝えようと思い立った。その間の事情を、本多さんはかつてこう語ったことがある。
「実はたまたまうちの娘が男の子を産みまして、孫という小動物が目の前に現われたということがきっかけでした。孫に軍服を着せたくない、殺したり殺されたりすることを絶対にやらせたくないと思ったわけです」
本多さんが自らの戦争体験を語り出したのは1986年、京都でだった。2、3回やれば終わると思っていたが、「こちらにも来てほしい」と声がかかるようになり、請われれば全国どこにでも出かけて行くようになった。そんな生活が20年も続き、「戦争語り部」としての講演は2006年2月までに1125回にのぼった。「これでやめる」と宣言したが、その後も講演依頼が相次いだため、まもなく再開し、昨年(2009年)暮れまで続いた。本多さんによれば、出前噺はそれまでに1314回、出前先は全国47都道府県に及んだ。噺を聴いてくれた人は約15万人にのぼった。
ここ10数年は紀伊半島南部の和歌山県みなべ町に住み、そこから全国各地へ出かけた。「私が講演を通じて戦争を知らない世代に伝えたことはただ一点、つまり、戦争とは、人間にとって別れと死だということでした」
この間、「戦争中、中国で、上官に命ぜられるままに無抵抗の捕虜を刺殺した」と告白。2005年5月には中国の上海宝山抗日戦争記念館と羅涇抗日戦争烈士墓を訪れ、墓前にひざまづいて謝罪した。
そればかりでない。1980年には、自らが編集長を務める手書きの新聞『わんぱく通信』を創刊し、昨年暮れまで発行を続けた。発行期間はなんと30年に及んだ。
2008年8月、日本国憲法第9条の精神を世界に輸出しようと思い立つ。「日本国民は内向きの傾向が強いせいか、これまで、9条を守ろう、とばかり言ってきた。これからは、9条の精神を世界中に広げてゆかねば」
これを思い立ったきっかけは、中国での体験だった。中国には何回も出かけた。その度に、学生や市民ら一般の人たちと話す機会があった。が、日本に戦争放棄・戦力不保持をうたった憲法9条があることを、ほとんど誰も知らなかった。ショックだった。「これは、護憲派と称してきたわれわれの怠慢であったと痛感した。9条を守るのではなく、むしろ9条で攻めなくては。日本は車の代わりに9条を輸出しなければ。そう思ったんです」
何事も言い出しっぺがやるべきだ、というのが本多さんのモットー。9条を世界に輸出する運動もまず自分から始めようと決めた。最初の訪問地はパリにした。若いころからフランス文化が好きで、パリに憧れていたということもあった。パリの街頭で、仏訳の憲法9条を印刷したチラシをパリ市民に手渡し、「アランスも日本国憲法第9条と同様の規定をもつ憲法をつくってほしい」と訴えることにした。フランスの次は英国と決めた。
昨年(2009年)年初めから具体的な準備を進め、日程は6月1日から10日間と決まった。旅行社との契約も済んだ。在日のフランス人ジャーナリストの協力で第9条の仏訳もできた。パリ滞在中に世話になる通訳のめどもついた。必要な費用も本多さんの壮挙に感激した全国各地の多くの人々からのカンパでまかなえる見通しがついた。同行記者の派遣を伝えてきた放送会社もあった。
ところが、作年4月22日、妻マサさん(84歳)が死去。「生涯正直律義に過ごした妻のために1年喪に服したい」と、本多さんは急きょパリ行きを延期した。
本多さんは、『わんぱく通信』(09年5月号)に「全国の皆さまから身に余るご理解、ご応援をいただき、当人もこれを一生最後の仕事と考えていましただけに非常に残念、また申し訳なく存じております。この上は、来年6月、再度挑戦の覚悟でおります」と書いた。
こうして、今年6月に再挑戦すべく準備を進めてきたが、昨年暮れから、急に心身不調となり、その後も体調は回復せず、ついに命尽きた。
再挑戦を前にしての体調不良は、本多さんにとってよほど残念な事態であったようで、私あての2月12日付手紙には「医師の診断を受けました処、腎臓はじめ内臓器官殆どギリギリの状態に消耗、何時倒れても不思議はない、という状況と説明されました。96歳という歳はそういう歳なのです、と言われ、がっくりしました。とても本年6月のパリ行きも実行不可能。こういうことなら昨年老妻の死にこだわらず実行しておけばよかったという思いしきりです」「何とかこの峠をのりこえ、来年再々挑戦したい」とあった。
病床で最期を迎えた本多さんの心に去来したものは何だったろうか。
海外で「日本国憲法9条手渡し運動」を進めようという本多さんの発案は、日本の護憲運動の中では極めてユニークな提案である。本多さんは、フランスの後、世界各国でこの運動を進めようと考えていたようで、すでに9条の各国語訳を専門家の協力を得てすませていた。それは、仏訳の他、 英語、ドイツ語、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語、中国語、インドネシア語、タガログ語、ベンガル語、マレー語、タミル語、韓国語、エスペラント語の14言語にのぼる。
本多さんの活動に共鳴していた和歌山県在住の女性は「9条手渡し運動は、やろうと思えばだれでもできる運動だ。まして、本多さんが9条の各国語訳を残してくれたので、後は私たちの決意次第だ。私もできる範囲でやってみようと思う」と話している。
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