第7回(4月)社会批評研究会から/テーマ:「であることとすること」から(丸山真男「日本の思想」岩波新書所収)
- 2021年 5月 4日
- 評論・紹介・意見
- ミャンマー丸山真男社会批評研究会野上俊明
<報告の記録>
▼和語を使用したこういう表題のつけ方に、鶴見俊輔的なものを感じる。「思想の科学」の鶴見俊輔は、官僚・政治家の後藤新平の孫で父親は国会議員の鶴見祐輔だが、中学時代は不良でアメリカに行かせられ、わずか4年ほどで最後は英語でしか思考できないというほど英語にのめり込んだという。戦争勃発後、姉の鶴見和子と一緒にアメリカからの最後の交換帰国船で日本に帰国。社会学者である姉の和子の業績で忘れがたいのは、色川大吉率いる水俣学術調査団の一員として調査報告を行ない「内発的発展」という新しい視座を打ち出したこと。弟の俊輔は、戦後わずか20歳代前半で「思想の科学」という民間の研究者運動を立ち上げた。アメリカのプラグマテイズムに思想的に依拠して、日本における思想の在り方を批判。日本の思想は一般社会から浮いていて権威主義に深く侵されているとして、そうしたあり方、体質そのものを変えなければいけないという観点で、近代日本の思想問題として「転向問題」の分析解明に集団的に取り組んだ。
丸山眞男も一時期「思想の科学」運動にかかわる。そうした問題意識を共有しているのが分かるのが、「『である』ことと『する』こと」と題する論文である。前近代的な価値観ないし人生態度を表す「である」論理から、近代的な価値である「する」論理への転換を促すことがメイン・テーマとなっている。論文が書かれたのが1959年、60年安保の前年であり、戦後日本が高度経済成長で戦前型の社会構造を激的に変えていく軌道が本格化し始めた時期であった。「日本の思想」は、日本の近・現代思想の在り方、特質、病理的側面などを論じた論攷であるが、最終章の「『である』ことと『する』こと」は、その論旨を平易な語り口で解説したものである。
蛇足であるが、この論文は高校現代文の教科書に採用され、各種の参考書でもたびたび出題され解説されたので、有名になった。右派勢力からは左翼のイデオロギーで高校生を洗脳するものとして、たびたび攻撃された。―ちなみに受験参考書ながら名著の評判が高かった石井庄司・藤岡改造「現代国語の重点研究」にも、出題解説されている。この書では阿部次郎、西田幾多郎、波多野精一、大西祝、三木清などの哲学者の著作から出題され、知的な環境に恵まれない田舎の高校生にとって単に参考書と言えない貴重な文献紹介書となった。旧制高校的な伝統を引き継ぎ、かつ戦後民主主義的観点で日本的な「リベラル・アーツ(教養)」を打ち立てたいという著者たちの思いが伝わってくる。
▼ミャンマーで2月1日にクーデタが起こり、民主主義がすすむと思ったのが突然一夜にしてひっくり返ったことで、丸山が時効制度の問題を取り上げていたので思い出して、再読してみた。
時効とは、たとえば債権者が債務者に返済を請求せずに放置したままにしておくと、法律的に時効がきてその権利を失ってしまうという法理である。要は権利の上に漫然とあぐらをかいて、たえず権利を守ろうと努力しなければ、いつか権利を失ってしまうことがあるという警告の意義をもっている。
ミャンマーのクーデタの教えるところは、民主派勢力にやはり一種の油断があり、そのすきを突かれたともいえる。私はスーチー氏の民主主義の考え方にやや疑問を持っていた。民主主義とはつまるところ人民の自己統治、共同支配という理念であるが、彼女の発想にはひどく権威主義的なところがあり、それがむしろミャンマー人仏教徒の感覚に合っているところがまた問題だと感じていた。
私がスーチー女史の民主主義観に疑問を感じたきっかけのひとつは、NLDが2011年に合法化され、世界各地からスーチー詣でが始まったときである。デンマークの女子学生のグループがスーチー女史の住まいを訪れ、懇談したときのことであった。スーチー女史の権威、威光に臆せずに、女子学生らは堂々と議論をした。彼女らはミャンマーの政治課題や困難な問題やNLDの取り組みなどを訊いていたのだが、あまり芳しい答え方ではなかったように記憶する。日本の学生や市民も含め、たいていはスーチー女史を崇めるような態度が強かったのに対し、デンマークの女子大生たちの臆せず問題提起する姿勢を好ましいと感じた。デンマークは600万人くらいの人口の小国だが、内村鑑三の『デンマルク国の話』に書かれてあるとおり、プロイセンとの戦争に負けて国土の半分を失い、残ったユトランド半島も不毛の土地であった。そこにダルガス親子らは木を一本一本苦労して植えて緑野にかえ、酪農王国にした。現在農工業生産性は極めて高く国際競争力もあり、ユニセフのような国連機関の備蓄基地にもなっている。ユグノー派(プロテスタント)の人々による国造り努力のすばらしさを内村鑑三は伝えたくあの本を書いたのだ。小学5年生のとき国語の教科書で読んで、私は感動したことを憶えている。
▼ミャンマーはこの10年で都市は変わった。私が日本に帰ってきた2010年ころは経済もどん底、社会は閉塞感に満ちていた。そこから、外資の力を借りて経済も発展して街の人の洋服もよくなっている。街頭で抗議行動する若者たちが、おそろいのヘルメットやカラー刷りのプラカードを掲げているのに驚いた。デモ隊がみなスニーカーを履いるのにも驚いた。私がいたころは、スニーカーを履いているミャンマー人などほとんど見たこともなかった。ただそれも一つの側面。外資の恩恵を直接受けない層は、6%を超えるインフレによって実質的な可処分所得は増えておらず、昨年来のコロナ禍の影響でクーデタ以前にすでに貧困層は増大していたことも事実である。
2011年以降の限定的であれ民主化の進むなか、その中で成長し自由の味を知っているZ世代がいま前面に出ている。私の知っているミャンマー人とはちがって、この世代は自由のために本気で死んでも良いと思っている。次世代のために自分の命を捨ててもよいと集団的に決意している姿をみて驚いた。かつて同じ時期ミャンマーにいた友人たちとメールのやり取りをしたとき、みんな若い人の姿を見て泣けて泣けて仕方がないと異口同音にいうのだった。催涙弾や実弾の飛び交うなかでも、女性の姿も多い。どれだけ軍政のおかげでくやしい思いをしてきたのか、人々の半世紀以上の怨念を背負っているのだ。
▼政治は権力闘争だから、力関係を自分に有利に変えていかなければならない。民主化するためには力関係を変えることに徹底しないといけないが、スーチー氏はこの点ではためらいがあったようにみえる。一度若い人が軍を批判する寸劇を政治集会でしたとき激怒したことがあった。軍を怒らせない範囲で、民主化を進めよ、これが彼女の政治的メッセージとなった。若い人々の創意や抵抗精神を上手に育てず、自分に従えという態度が丸見えだった。またロヒンギャ問題でマイノリティに冷たいというか、仏教徒ビルマ族としてのナショナリズムの傾向が強い人であることも判明した。自宅軟禁中は、彼女を現代のガンジーに見立てる人もいたが、それは過大評価であろう。ミンコーナインのような1988年の闘争世代との間には隙間風が吹いていた。しかしこうした人々も今回はNUG(臨時統一政府)で一緒にやろうとしている。これは大きな変化だ。とくに暴力の嵐のなかではひとつ間違えれば犠牲が大きくなるので、熟議をして集団的な知恵が必要だ。スーチー氏のような独り決めでやるやり方は通用しない。公務員、医者、看護師、鉄道、Z世代、農民、少数民族がまとまりつつある。国軍は2008年憲法の枠組みの中で丸く収まっていたのを自ら壊してしまった。新しい枠組みを作りだそうとするグループが台頭している。成功するかどうかは分からないが、スーチー氏流のつつましやかな民主化路線が乗り越えられつつあることは確かだ。
▼2007年の「サフラン革命」のとき、ヤンゴン日本人会の会報で、イェーリンクというドイツ人の法学者の「法と権利をめぐる闘争」をとりあげ、重要なのは普段の生活の中でこれらを守る態度=法感情・正義感情(レヒツゲフュール)が息づいてないと、社会や国が憂き目に遭っても放置してしまうと書いたー私の書いた原稿は、軍を刺激するという理由で没になった。ドイツは上から近代化していったので、どうしても一般の市民生活では遅れたものが残る。それと同じことを丸山真男が、明治の自由民権運動は「よしやシビルはまだ不自由でもポリティカルさえ自由なら」と謳い、私的領域における自律、社会底辺における近代的人間関係の確立よりも参政権獲得に熱中したと指摘している。上から近代化した国は市民社会で通常の一定の自由のレベルに届かない。昭和の初めに「共産党、家に帰れば天皇制」という川柳があったが、みごとに左翼の弱点を突いている。市民社会や家族のレベルで自由をいわないと本当でない。市民生活における日頃の感覚が重要で、その意味では現代のいじめは典型的な人権侵害で、先生たちがこれに敏感に反応するようでないと民主主義に将来はない。
▼法の支配がないということはどれだけひどいことか、ミャンマーにきてはじめて知った。喧嘩しても俺は軍の誰々とつながっているぞと云えば終わりだった。日本の借地借家法では賃借人を勝手に追い出せないが、ミャンマーでは内装が終わってさあ開店という日に大家が来て「出て行って」と言われても抵抗できない。逆にカネと権力を持つものはどんな無理なことでも可能な国である。なにか国軍の行事や治安関係の動員があると、地域の飲食業者に無償で食事の提供を強要することがある。私のレストランは、近くに様々なスポーツのナショナルチームの合宿所があり、スポーツ大臣が視察にきた時、うちの店の裏側の煙突が汚いから修理しないと営業停止だと脅されたことがある。不景気で大変ななか、泣く泣く大金をかけて修理した。キリンビールが提携したミャンマービールは、軍関係の企業で威張っているのでいずれまずいことになると思っていた。税金は、税務署が勝手に売り上げを算定課されるので売り上げがなくても払わされる。仕方ないのでわいろを渡し、かつ食事をご馳走してまけてもらう。レストランでも女性の接待は一般に禁止されているが、秘密警察関係のところだけは、ホステス付きのキャバクラすら許されているので絶対繁盛している。しかも税金は払わなくてよい。だから軍が関与するものは最高のビジネスになっている。
今後のために法の支配について一言。は、英米系と大陸系ではコンテクストが違うことに注意。単純化すると、「下から上」で支配者を縛るのと、「上から下へ」で民衆をしばるのとで、ベクトルの向きが異なる。大陸系は、上から下への法治国家Rechtsstaatで法により民衆を縛る。認識論としてはデカルト的合理的で、演繹的。英米は法の支配rule of lawで法により為政者を縛る。分権的で王権を制限して議会が強くなった。こちらは経験論・帰納的。
▼ミャンマーに来て、イギリスの植民地支配の実態がどういうものだったかもよくわかった。東京の豊島区から文京区にいたる神田川渓谷は、早大の甘泉園、学習院大学、日本女子大、細川家庭園、野間記念館、椿山荘(もと山県有朋の別荘)などがある超一等地、同じ並びの目白台には田中角栄の家もある(まさに今太閤だった!)。あんな感じでヤンゴンの高台に高級住宅地が広がっている。門をとおって相当歩かないと住居棟に行き着かない。現在フランス人所有の邸など、マンゴスチン・ハウスなどと命名され、100年以上たっても古びていない。みんな見学に行って、英国植民地支配者の豪壮な暮らしを想像してため息をつく。クラブハウスにいたっては、外にはテニス場、ポロ球技場、乗馬施設、内ではボールルーム、ビリヤード室、バー、図書館、歓談室など完備していて、イギリスと全く同じ生活ができるように作られていた。現在でも大勢のイギリス人たちは、週末になると公使邸でパーティを開く。往時の名残りを感じさせる光景である。しかしその光景をネガに転換すると、ひどく搾取され虐げられたビルマ人の姿が浮かび上がってくる。そのようなアジアへ、ジョージ・オーウェルはどうしてかパブリック・スクールを出るとオクスフォードやケンブリッジ大学に行かずに、わざわざ警察官として植民地ビルマに赴いた。下級の警察官としてビルマ庶民の日常生活に接して仕事をする。住民監視と取り締まりがその役割である。植民地支配者の末端としての自分に対し、ビルマ人から反感と憎悪の視線を注がれて、若いオーウェルはひどく自尊心が傷ついたのであろう。『象を撃つ』という短編小説は、そのときの経験をもとに書いたものである(オーウェルの英文は平易でかつなかなか味がある、ぜひ高校生や大学生には読んでほしい)。帰ってからは放浪生活に入った。彼の作家として立っていくうえで、ビルマの経験は貴重だったのであろう。私は『象を撃つ』の舞台であるモールメインを訪ねたが、坂のあるその町がすっかり気に入ってしまった。繫栄した植民地都市の余韻がいまでも残っている。町のど真ん中に大きな刑務所があり、植民地支配の残酷さのシンボルとなっている。しかし英国人やアメリカ人が建てた建物が、100年たってもなお今も現役で学校や病院として使われているのには驚いた。郊外には広大なゴム園―これも搾取のシンボル―が広がり、ここを舞台に作家のサマセット・モームはストランド・ホテルに長逗留して、「ジャングルの足跡」などの名作を書いた。
▼恐縮です、ようやく本題に入ります。出来合いの制度を輸入した時にどういう問題が生じるのか。苦労して下から積み上げるようにしてできた制度は在来の精神風土ともなじんで、そう簡単にくつがえらない。ミャンマーのように外から出来合いの民主主義を輸入した場合、定着には時間が必要である。まして民主主義に敵対する勢力が根を張っている場合は、国民に絶えず注意喚起して権力のコントロールを呼びかけないとあぶない。国軍のクーデタは不可抗力であって仕方のないものだったと考えるとすれば、この国には半永久的に民主主義はやってこないであろう。外来の制度を土着化させるとき何か必要なのか。
丸山が問題にしたのは、制度を受け入れて運用するときの人々の精神的態度である。民主主義のような制度を自分たちのものにていくときの価値観の在り方を問題にしているのだ。特に前近代から近代へと体制が移行するとき、価値観はどう変わっていくのか、あるいはどう変わるべきであるのか。
丸山によれば、近代になると身分制の伝統的、固定的な「である」価値から、社会的関係が日々変わって機能・効率重視の近代の「する」価値になるという。封建社会は道徳も固定していて、分に応じてふるまわないといけない。部落内の既知の人間関係中心で、そこでは主語がなくても通じる―日本の中古文学には主語が落ちていて受験生泣かせなのであるのが、それは天皇中心の狭い貴族社会が舞台であるからだ。ところが「する」価値が支配的な社会では、人々の行動は目的合理的で―たとえば会社の利益を上げるという目的に最も適合的合理的な行動をとる―、日々人間関係が動いていく。ネットのように未知の世界が瞬時に全世界に広がる。
またしてもミャンマーのことに立ちかえるが、丸山が指摘する「である」価値から「する」価値への転換を、我々は短期間に日々の出来事として目の当たりにしている。いままで男性である仏教僧侶を中心に堅牢に築かれていた価値体系が揺らぎだしているのである。仏教僧侶「である」がゆえに無条件で尊敬されてきたのであるが、Z世代の若者たちは国軍とグルになっている高僧たちを公然と批判し始めた。世俗世界において僧侶が「なす」行為のいかんによって、彼らの社会的倫理的価値を値踏みし始めたのだ。また男性中心の僧侶世界に倣って一般社会でも女性の地位は極めて低かったのであるが、反クーデタ運動においてジェンダー差別に挑戦するがごとく若い女性たちの活動が目立っている。まさに考え方や価値観の転倒が招来されつつあるという意味で、地殻変動が起こりつつあるのだ。
▼明治になって日本に欧米から「する」価値は入ってきたが、伝統的な「である」価値と入り混じったままだった。「である」価値の優勢は、政治の派閥がムラといわえるように、特殊、恒常的な人間関係優先といわれるところにまだ残っている。言い方を変えれば、「政策より人」の風潮はまだまだ根強い。いやそれどころか保守政界は二世三世の跋扈で世襲制が復活している。丸山のこの論文は1959年に書かれたもので、安保へ向かっての戦後民主主義の高揚期という背景があるので、いまよりましだったかもしれない。
ともかく丸山は「である」価値は、現在を固定化する「状態」的思考に陥りやすいとしているが、話は政界にとどまらず、日本経済が世界の構造変化についていけず、停滞から抜け出せない現状は、丸山の立論の有効性を示唆している。人間関係の固定化、手法の硬直化を含む既得権益の罠にはまって身動きが取れないために政治や経済の劣化を招いている、このことは間違いない。
福沢諭吉は「門閥制度は親の仇でござる」として身分制度=「である」価値の世界を「野蛮の太平」と喝破し、近代国家の担い手にふさわしく、個人が「学問」によって積極的に自己啓発し、独立した人格になることを奨励した。諭吉は幕末、欧米に三度訪問する機会を得たが、彼の着眼点のすごさは、欧米社会の際立った特質はパブリックなもの――広場、公園、図書館、美術館、病院、学校、研究機関、公民館など――が充実していることだと見抜いたことであろう。大工場制や大都市のすごさならだれでも言ったであろうが、公共性に目を付けたところは卓抜である。丸山は「自発的な集団形成と自主的なコミュニケーションの発達が妨げられ、会議と討論の社会的基盤が成熟しないときどういうことになるか」と問いている。民主主義の再建や強化のためには個人の自立と同時に、いやそれよりもアクセントが置かれるべきは、公共世界の再構築であろう。これはミャンマーのみならず、日本でも欧米でも現代の危機を克服するためになくてはならない条件だと思う。
▼丸山は近代主義者といわれ批判されることはまれではなかったが、しかし近代的価値の限界にも目配りしているので単純な近代主義者とはいえない。歯止めなき合理化、官僚化の「鉄の檻」(ウェーバー)に囚われている点、「である」価値の重要性、目的合理性の抑制の必要性をつとに指摘している。これは今日、大学教育から教養教育(リベラル・アーツ)が失われていて技術合理性に偏り、薄っぺらな職業技術教育に偏している現状があるだけに、丸山を擁護しておく。
素人意見で恐縮であるが、丸山自身も60年安保以降に観点を変え、「である」価値の重要性に立ち戻っているようなところがある。日本人のものの考え方のうちに変わらずに底を流れているものとして「古層」とか「通奏低音」という概念を導入した。見方によっては、戦後民主主義の屈折ともとれるであろう。丸山は「である」価値と同等のものとして、芸の世界の「型」、学問の世界の修業と方法論をあげているが、唐木順三という田辺元の弟子である文芸哲学者が、現代人の病理として指摘した「型の喪失」に通じるものがある。最後期の丸山は、「である」価値は「する」価値のうちにいわゆるアウフヘーベン(乗り越えられつつ、同時に保存される)されるものと考えたのであろう。
▼「である」価値から「する」価値への転換で、丸山は民主主義の必然性をいいたいのだろうが、民主主義を位置づけるにはこの論理だけでは弱いと思う。自我を確立した近代的主体が客体(自然や社会)を対象化して作り変えるという、デカルト的主体を起点とする近代化という意味ではよいだろうが、そのことは民主主義と同義ではない。戦後民主主義の時期には、近代的な個の確立が重要な思想的課題であった―もちろん今でもそうなのだが―が、現代の民主主義の重点は公共世界、公共精神、公共的コミュニケーションといった共同的な契機におかれる。民主主義の発祥の地である古代ギリシアのポリス政治は、部族的な共同体のくびきを脱した市民による公共精神発露の場であったことも思い出すべきであろう。
これに関連して、卑近な思い出話をひとつ。北海道・釧路の私の小学校時代の住まいは、樺太からの引揚者が多い貧困地域だったので、非行も多かった。ちなみに大鵬の家も樺太からの引揚者で、母子家庭で貧困にあえいでいて、ラーメンなどというご馳走は、相撲界に入って初めて味わったというほどである。おそらく日本人と同じく樺太からの引揚者であろう朝鮮の人々も多かった。小学5年生の時、家の前の空き地で木村君という友達とキャッチボールをしていると、かれは突然「おれ来週国に帰るんだ」と言い出した。あれ、国って!?という表情を見せた私に、北朝鮮に帰るんだと言って、私をびっくりさせた。たしかに当時釧路は市を挙げて帰国運動を支援しており、市役所の近くには大きな垂れ幕があった。北朝鮮帰国者のことが話題になるたびに、廃品回収業者として成功していた木村家のことや性格のよかった木村君のことを思い出す。
そんなふうな地域事情を考慮してか、先生も地域の人々も共同で子供たちの面倒をよく見てくれた。非行に走りやすい夏休みには、野球大会、炊事遠足やサマーキャンプ、映画会、盆踊りなどの行事で楽しませてくれた。北教組はたぶん組合方針で取り組んだのだと思う。夏休みには小学校はクラス編成から分団という地域編成に変え、上級生が町会単位の分団を仕切ることになっていた。戦後アメリカからボースカウトやソ連のピオニール少年団などの試みが入ってきたが、そういう影響があったのかもしれない。そうした戦後民主主義の試みの恩恵を受けて育ったという記憶が強くあるだけに、学園紛争で戦後民主主義の欺瞞とか虚妄とか言われるのを耳にして最後まで納得いかなかったのである。
何を言いたいかというと、民主主義の必要条件はひとつは近代的な個の確立であるが、もうひとつは地域社会の再建であるということ。トクヴィルがアメリカン・デモクラシーの原点を東部海岸のタウンシップ・ミーティングにみたのと対照的に、私はミャンマーのデモクラシー欠如の原点を、地域コミュニティの破壊にみた。軍部独裁は地域コミュニティを破壊し、人々を相互監視状態におけば、人民は抵抗できないことをよく知っていたのだ。2008年のサイクロン・ナルギスでヤンゴンが壊滅的被害を受けた時も、人々は隣近所でお互いに助け合おうとはまったくしなかった。ほとんどの街路樹は豪風になぎ倒されていて道路をふさぎ、家々も全壊半壊していてもだれも他人のことには手を出さなかった。人々にマイ・タウン意識がまったくなさそうなので、ミャンマー人救いがたしと、私は絶望的な気分になった。しかしそれは軍部独裁50年の抑圧政治の結果、系統的な愚民化政策の結果であることに私は気づくべきだった。他人事には手を出すな、他人事には無関心であれと、軍部独裁は恐怖政治をもってそういう意識を人々に叩き込んだのだ。
2/1クーデタ以後、私の知っているミャンマー人とは違うミャンマー人が現れた。他人のことを気づかい、未来世代にも深く配慮する新しい人々が現れたのだ。人々の頑強な抵抗は、地域コミュニティの復活と軌を一にしていると、私は見ている。抵抗が持続可能かどうかは、ひとえにそれにかかっているとみている。政治への参加の意欲や公共的な事柄への関心が、民主主義への感度を高める――そういう思いで最後衛の位置から前衛へ躍り出たミャンマー人たちの闘いぶりをみているのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion10825:210504〕
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