NHK、ここまでやるのか、五輪開催高揚報道~歌人や短歌まで動員?
- 2021年 6月 11日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子
NHKテレビのニュース番組の偏向が言われて久しいが、まるで政府の広報番組と化してしまったのではないか。近年ますます顕著になってきた。国会の質疑でも、何を質したかは省略して、首相や担当大臣の答弁の「いいとこどり」の答弁を流すのが常套手段である。
いま、コロナ禍の中の五輪関係報道を見てみよう。新型コロナウィルスの感染拡大で、感染症の専門家、医療関係者、市民の間でも、五輪開催が危ぶまれ、開催によるリスクや不安が高まる中でさえ、毎日、毎日、ワクチン接種がスムーズに進んでいる、離島や小さな村などを例に、「よかった」「安心した」の声を流す。ワクチン接種拡大、加速の方針が決まったとか準備をしているというだけで、その自治体や企業の様子をこと細かに報道する。新規感染者がいかに減少したかを強調するが、死者数が高止まりしていることは画面の数字でしかわからない。選手らの出場決定の喜びや練習風景を伝え、聖火リレーも、沿道の人たちの五輪反対の「声」を、文字通り消音の処理をして放送したりするのである。民放の報道番組と見比べてみると、よくわかる。政府の方針や決定は、大々的に伝えるものの、その後の検証がなされないままのことが多い。高齢者のワクチン接種にしても、予約のしづらさ、現場の不具合やミスの多発、打ち手の不足には触れようとせず、実態は依然として厳しい状況なのに、医療体制ひっ迫の報道はすっかり姿を消してしまった。
こんなこともある。6月7日、JOCの経理部長が地下鉄の線路に飛び込んで亡くなったニュースをネットで知った。朝の事故であったらしい。午後には、多くのメディアがネット上発信し、一部の記事では氏名も記されていた(一番の速報は産経新聞の6月7日15時21分、ではなかったか)。NHKテレビでは当日の夜7時のニュースでも、9時のニュース番組でも報道されなかった。8日にも報道された形跡はない。タレントの結婚や自殺などまで報じているのに、とその社会的重要性の判断基準を疑ってしまう。そういえば、NHKに限らず、このニュースの続報が少ないのは確かで、かえって、JOCに何があったのか、その闇の深さを思ってしまう。
また、NHKEテレには「NHK短歌」という日曜の早朝番組がある。私は火曜午後の再放送で、ときどき思い出したように見ることがある。見るたびに思うのだが、選者の歌人が真ん中に、その両脇にはレギュラーの司会とアシスタント、歌人の隣には、ゲストとして、タレントやお笑い芸人、スポーツ選手などが並ぶ。歌人は、ゲストに自分のお気に入りの人を選ぶ特権も一、二あるらしく、番組の冒頭でそんな<ご挨拶>を聞かされることがある。選者の歌人が若くなったこともあり、歌人以外の出演者は、みな、テレビで活躍の人らしいが、私などには、初めて聞く名前や初めて顔をみる人が多い。昔は、アナウンサーと歌人が、入選作の紹介と鑑賞をするのが中心だったが、たった25分間ながら、いろんなコーナーがあり、バラエティのようになってしまった。テレビもあまり見ないという若年層をターゲットにしているとしても、どこか半端な気がしている。新聞歌壇を含めた短歌投稿マニアの作品が出てくることも多い。
そんな「NHK短歌」が、この四月に、選者も変わり、リニューアルをして、4週・5週は、「頑張る人たちを短歌で応援する活動」を「タンカツ」と称する企画が始まったらしい。その直近の5月4週・5週は「タンカツ・パラスポーツ」と称する、パラリンピックを盛り上げる番組にしか思えなかった。歌人とタレントたちがぞろぞろと、ブラインドサッカーや車いすの学生のボッチャを見学したり、一緒にやってみたり、車いすを製作する工場見学に出かけて、短歌を詠んだりという流れであった。オリ・パラ高揚番組に短歌や歌人が動員されているという印象を持つのだった。
写真は東洋学園大学HPより。選者の佐伯裕子さんの判定で、つぎの一首が優秀作とされた。
「腕を振りボールを丸めていざ投球 ボッチャ対決トンシュルルルルー」(井戸田潤)
もっともNHKには、「東京オリンピック・パラリンピック実施本部」なるものが設置されているというのだから、なんと主催者のつもりらしい。これだけ強行しておきながら「私は主催者ではない」という菅首相の無責任ぶりもさることながら、NHKにオリ・パラの実施本部があるというのだから恐ろしいではないか。
それでいて、話はやや飛ぶが、NHKは、かんぽ生命保険の不正販売をめぐっての経営委員会の議事録の開示請求を、報道機関や市民団体が行い、「NHK情報公開・個人情報保護審議委員会」という第三者委員会から昨年、今年と二度も全面開示の答申を出しているにもかかわらず、いまだに開示されてない。市民団体の開示請求には、「開示の判断に時間を要する」と二度の延長通知が来たので、提訴の準備を進めることになったという。全面開示できないよほどの不都合があるに違いない。
この閉鎖性と政府広報化は一体となって、受信料を支払っている視聴者を置き去りにし、公共放送の役割をどんどん失ってしまうのか。
そこで思い起こすのは、とくに、太平洋戦争下、NHKが「国営ラジオ」とまがう、戦意高揚番組を率先して放送していたことである。同時代を生きていなかった者でも、見聞きはしていると思う。戦況はすべて「大本営発表」をそのまま放送し、兵士や戦場の記者たちの声、戦死者の遺族、差別されていた障がい者や病者の訴え、政府や軍部を批判する発言や活動は、すべて封印されてしまったのである。
1938年9月1日発表のラヂオ標語一等入選作は、「挙って国防 揃ってラヂオ」であったし、40年4月3日発表のそれは「明けゆくアジヤ 導くラヂオ」であった。1940年から詩の朗読の時間は、一カ月に一度くらいの特別番組だったが、1941年12月8日の開戦直後からレギュラー番組に昇格した「愛国詩」には、高村光太郎、野口米次郎はじめ、多くの詩人たちが動員され、東山千栄子、長岡輝子、丸山定夫、山村聰らの演劇人によって朗読され、1944年末まで続く。そこには「愛国和歌」として、佐佐木信綱、北原白秋、斎藤茂吉らの短歌も登場する。歌人たちは、ラジオよりは、短歌雑誌はもちろんながら、文芸誌、総合誌、女性誌、新聞などへの起用は目覚ましく、活躍の場を広げ、競うように、戦意高揚短歌を発表するようになってゆく。
初出:「内野光子のブログ」2021.6.10より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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