短詩型文学にとって〈1956年〉とは何か ――〈戦後短歌〉をめぐるある匿名批評によせて――
- 2021年 7月 25日
- スタディルーム
- 大田一廣
短詩型文学にとって〈1956年〉とは何か――このような設問が成り立つかどうかはわからない。
そうではあるが、〈1956年〉が“世界史的な”画期と見做される根拠はないわけではない。1956年2月のいわゆる「スターリン批判」および10月の「ハンガリー革命」が戦後の政治秩序と社会意識、社会的言説と政治理論、あるいは文学と思想に価値の選択を迫る深刻な衝撃を与えたとすれば、〈1956年〉問題は戦後の精神史にとって慎重な検討を要する結節点のひとつと言えるだろう。そしてこの観点に立てば、短詩型文学、とりわけ〈現代短歌〉の一部に、“世界を震撼させた”「スターリン批判」を自己実現の「鏡面文字」であるかのように見立て、それを反面教師として短歌表現の限界閾を突きとめようと図る「匿名批評」が、ささやかなケースに過ぎないとはいえ、歌壇の根強い旧習の政治支配による “時流のタブー”に抗って提出されていたことが注目される。
私の考えでは、〈1956年〉は戦後における〈現代短歌〉の道行きとその方向を試金にかけ、応分の自己点検を要請し、やがて〈現代短歌〉の表現構造を旋回させる転向点としての歴史的な意義をもっていたのである。そしてそこで問われていたのは、Ch.ボードレールにしたがえば、歴史的記憶の累積を否応なく負わされた韻文定型詩としての短歌〔和歌〕にとって「モデルニテ」(modernité)とは何か、あるいは短歌における「現代性の態度」(M.フーコー)はいかにして可能かという論点にほかならない。やや大袈裟に言えばそれは、フーコーの言う“われわれ”の時代の「批判的・歴史的存在論」の一端を耕すことにも繋がるはずである。
とはいえ、短詩型文学界では〈56年〉問題を、そうした〈現代短歌〉についての反省と転回を施すべき厳しい試練として捉えこれに真摯に応じえたのは一部の慧眼においてであって、一般の歌壇では〈56年〉問題の受容と批判は限定的なものだったと言える。もっとも、戦後の精神を“主導”したと見られる一般的思考の枠組みをかりに〈方法としてのモダニズム〉と呼べば、近代派/反近代派/反・反近代派〉を問わず、総じて〈56年〉が齋らした“政治的事件”の深刻な衝撃とともに、〈方法としてのモダニズム〉はモダニズム自体に内在する論理によって自らの思考の“停滞”をさらに深めていったようにさえ思われる。桑原武夫の「第二芸術」(1946年5月)論によって“前近代性”ないし“後進性”の烙印を捺され、さらに〈調べ〉なるものを「奴隷の韻律」(1948年1月)と規定する小野十三郎によって短詩型文学の“形態的根拠”とされる三十一音律の安定した秩序、いわゆる〈七五の魔〉の呪縛を告発された挙句、果ては“短歌の滅亡”(『短歌』1955年8月)という致命的な死亡宣告を受けて満身創痍に塗れた〈現代短歌〉もその大方は、これらの批判が必然的に要請していた“短歌存立の根柢”、延いては言語そのものへと遡及して自己―反省に就くこともなく、ほぼ在来の型式の埒内に留まって〈自足〉していたのである。そのような作歌姿勢の典型的な短歌を「匿名批評」は「七五調の宣傳ビラ」などと扱き下ろしているほどだ。
ここに紹介するその「匿名批評」は、「〈日本人靈歌〉流産記」という短い文章である。歌壇の総合雑誌『短歌研究』の当時の編集長杉山正樹が1956年9月号で新設した「匿名批評 方舟」(第一回)に掲載されたもので、筆者は「鳥熱地」となっている。「文學界の時の問題」をめぐって「假面の下からのみ告げ得る義人(ノア)の聲」を「方舟」に乗せて伝えるというのが、この匿名批評を設けた編集長の趣向であった。
その「流産記」の冒頭で「鳥熱地」は、「ソヴェトでもスターリンの厳めしい肖像が次々に引下ろされていると聞いて些か落膽している」とやや沈痛な趣きで「三題噺」を話し始めている――いまや〈56年〉の「スターリン批判」を契機にして「半永久的に短歌の本質的な蘇りのチャンス」が喪われてしまったと慨嘆し、あまつさへ「平和革命」なるものを志向する「ミコヤン演説」が「短歌のルネサンスの夢をぶちこわした。萬一平和革命があったところで、短歌は形の變った愚民政策の手段となって津々浦々に七五調の宣傳ビラを撒くことだろう。そして私の夢の中の類い稀な美しい靈歌もアボーションの憂目を見ることとなった」と口を極めて弾劾する。
ここで「鳥熱地」が「短歌の夢をぶちこわした」と言う「ミコヤン演説」とは、「ソ連共産党第二十回党大会」(1956年2月14日~25日)で行われたミコヤンの「演説」のことであるが、その「演説」に盛り込まれたミコヤンの「平和革命」論を詰る匿名子の「鳥熱地」は、“音写”どおりにそのまま移せば“トリアツチ”と読める!恐らく「鳥熱地」は当時のイタリア共産党書記長P.トリアッティ(P.Togliatti)を想定した“捩り“であろう。彼はイタリア共産党代表として「第二十回党大会」に出席しフルシチョフの「一般報告」と「ミコヤン演説」を聴いていたが、いわゆるフルシチョフの「秘密報告」(2月24日~25日)は直接現場で聴いていない。「秘密報告」を読んだとすれば、その「編集版」(フルシチョフの当夜の“発言”を加筆した1956年3月1日編集版)であろう。匿名子がこれらの政治過程にどの程度通じていたかは不明であるが、ことばと“実-人”とを批評の〈主題〉に合わせた「鳥熱地」という命名の流儀からすれば、彼(あるいは彼女)は当の事情にかなり精通していたに違いない。例えばトリアッティには当時、『平和論集』(国民文庫編集委員会訳、大月書店、1955年1月)があるから、これを読むことはできただろう。なお、単なる妄想に過ぎないが、「鳥熱地」の〈鳥〉は “空から墜ちる小鳥の、震える舌”( 田村隆一『四千の日と夜』1956年3月)のイメージを連想させる……。
このようにスターリンをめぐる言動を“弾劾”する「〈日本人靈歌〉流産記」が、1956年2月の「ソ連共産党第二十回党大会非公開会議における演説」でフルシチョフが行った「スターリン批判」(党内公表用のタイトルは「個人崇拝とその結果について」)と、一般党大会でミコヤンが行った「ソ連共産党第二十回党大会における演説」(「ミコヤン演説」)を念頭において書かれているのは明らかであろう。極秘とされた政治情報の制約のなかで「鳥熱地」がとりわけフルシチョフの「秘密報告」をどの程度内在的に把握していたかは別にしても、この匿名批評が“スターリン・ショック”に対するかなり速い時期の“反応”であったことは間違いない。
実際、党大会報告が『ソ同盟共産党第20回党大会 フルシチョフ報告 ミコヤン演説』(野中昌夫・橋本弘毅・山田茂勝訳)として青木文庫特装版で4月に刊行され、問題の「秘密報告」はアメリカ国務省英語版に依拠した内外情勢調査会編『国際情報資料』6月に“暴露”されている。そして『中央公論』8月号(「フルシチョフ秘密報告全文」)がこのアメリカ国務省版“資料”を、「本物か偽物かについて異論がある」としながら、ソ連側のノーコメント、フルシチョフの「口癖」を思わせる文言、なによりも「演説内容が捏造をゆるさぬ材料を含んでいること」などと断ったうえで一部修正を施して転載していたから、その気になれば、一般に公開されたこれらの“基本文書”を読むことはできたのである。念のために確認しておけば、『短歌研究』巻末の奥付は、「昭和三十一年八月二十七日 印刷 昭和三十一年九月一日 発行」とある。この日付を前提すれば、「鳥熱地」の匿名批評はおそらく1956年8月か、遅くとも9月はじめに書かれたものだと思われる。ただしこの種の匿名批評は事柄の性格上、埋め草扱いの戯れ文という可能性もないわけではないが、仔細に見ると、それは単なる放言といっては済まされぬ〈短歌の動向〉を伝えている。
例えば、1956(昭和31)年の短詩型文学界(歌界)の主だった動向をみると、3月に塚本邦雄が〈歌壇的地位〉なるものを確立したとされる『装飾樂句』(カデンツア)を出版し、10月には岡井隆『斉唱』が〈過渡期の苦悩〉を漂わせている。公平にみて短歌表現の限界閾をそれぞれの仕方で拡張しつつあった塚本と岡井の作品に包まれるようにして3月から8月にかけて、塚本邦雄と、前年に『現代詩試論』(書肆ユリイカ、1955年6月)を出版し、詩の言葉における「感動」ないし〈調べ〉を積極的に肯定しサンボリスム以後の新しい表現を志向する大岡信との間で、それぞれ三回にわたって詩歌をめぐる《方法論爭》が行われている(『短歌研究』1956年3月~8月)。この《論爭》が一応の終熄をみた後、続いて「鳥熱地」の匿名批評「〈日本人靈歌〉流産記」が同誌9月号に掲載されたのである。そして翌10月号の『短歌研究』では画期的な座談会「なぜ短詩型をえらんだか――《方法論爭》の總決算」が組まれている。
この座談会には、療養から“社会復帰”したばかりの《論爭》の当事者たる「病気の外交官」(塚本邦雄)は欠席したが、一座には忌憚のない「欠席裁判」を求めたという【座談会の出席者はもうひとりの当事者大岡信のほかに谷川俊太郎・高柳重信・阿騎野志郎・岡井隆。「記者」は杉山正樹】。座談会では「調べ」と「魂のレアリスム」、サンボリスムと喩法、韻律と「語割れ・句跨がり」(塚本邦雄)、憑依とフェティシズム、「円環的世界」(大岡信)の呪縛と克服の条件など塚本―大岡論争で提出されたほとんどの論点をめぐって行われ、短詩型文学・短歌表現の〈モデルニテ〉とその可能性の条件をいかに考えるかを問うものになっている。これらの論点にはここでは直接に触れることはできないが、ほぼ当時の短詩型文学が抱えていた尖端の課題を示していると言えるだろう【塚本-大岡の「方法論爭」は次稿で検討する】。
さらに視野を拡げてこの間の文学界を一瞥すれば、戦後の思考を端的に象徴するというべき作品が生まれている。3月に田村隆一『四千の日と夜』(東京創元社)が「立棺」のなかの垂直の言語こそ「われわれ」の言葉なのだと語り、5月には〈死〉の累積の上に立つ政治権力と軍服のスターリンを逸早く弾劾し、「革命者」の概念の変更を迫った埴谷雄高「永久革命者の悲哀」(『群像』)が書かれている。谷川雁の『天山』(国文社)も5月だ。もちろん1956年の段階でいわゆる〈進歩史観〉に異議を申し立て「戦争」体験の再-定義をせまった竹山道雄『昭和の精神史』(新潮社、5月)の〈視野〉も無視できないだろう。さらに岡井隆・寺山修司らが「青年歌人会議」(1956年5月)なる〈短歌革新運動〉を立ち上げ、7月には塚本・岡井・寺山のほかに阿騎野志郎・相良宏・玉城徹・石川不二子・葛原妙子・中条ふみ子・馬場あき子・安永蕗子・山中智恵子らを含む「戦後新鋭歌人百人集」(『短歌』1956年7月)が組まれるに及んで、〈戦後派〉歌人群像の動向が一挙にクローズアップされたのである。《論爭》の当事者たる大岡信自身も第一詩集『記憶と現在』(書肆ユリイカ、8月)を上梓し、〈青春の息吹〉を瑞々しい感性と新鮮な言語によって印象的に謳っている。
そして「〈日本人霊歌〉流産記」とちょうど同じ9月には、吉本隆明・武井昭夫『文学者の戦争責任』(淡路書房、1956年9月)が「民主主義文学」に孕まれる「二段階転向」という思考の構造を剔抉し、社会構造の制約と「内部世界」の形成といった文学にとっての歴史的世界の問題構制を根柢から問い質すという課題を提出したのであるが、この問いは短詩形文学にとっても避けて通れぬ論点をなしていたはずである。
さて、「〈日本人靈歌〉流産記」の結論部分で「鳥熱地」は、「職場報告でも、日記の書直しでも、文字謎遊びでもない、正に〈日本人靈歌〉が昇華結晶した、唯一の定型詩としての短歌がそこに生まれ、闇黒の中で継承されてゆくだろう。革命の後の疲労困憊した、沈黙を強いられた哀れな人民の心の中に淡黄にうるむ燈として」と、「日本人靈歌」の復位を希求するのだ――もし韻文定型詩としての短歌が〈戦後日本の現代〉に可能であるなら、それは「革命」のあとの、「疲労困憊」し「沈黙」を余儀なくされた「哀れな人民の心の中」に辛うじて潤む「淡黄の燈」としてであって、そこにこそ「日本人靈歌」のクリスタルがいわばアイロニーに充ちた〈匿名の歌〉として「闇黒」につつまれて顕現するに違いないというのである。
だが、「革命」とはなにか……。それが、問題である。
――「實は――と「鳥熱地」は言う――私は豫々、共産主義それも極左冒険的傾向の著しかった當時の、凄惨な流血革命によって日本が解放(おお!)された時、その時こそ短歌は、現在の騒然たる堕落現象から脱れ、黄金の針金のように細々と、然し長く永く生きることへの契機を輿えられんことをひそかに期待していたのだ。」
ここで「鳥熱地」が言う「極左冒険的傾向」とは何かと言えば、コミンフォルムの指導下における日本共産党の「五十一年綱領」(「四全協」1951年)――「天皇制の廃止」を掲げ〈軍事革命〉路線を打ち出した「民族解放民主革命」論、いわゆる〈火炎瓶闘争〉に象徴される「革命」の武装闘争を意味すると考えてよいと思うが、「六全協」で武装闘争を“自己批判”した1955年から翌56年当時の日本共産党の周辺にはなお、『球根栽培法』(1951年)の軍事教程論と武装組織による「パルチザン闘争」(中核自衛隊や山村工作隊)の混迷と余殃が渦まいていたはずである。
といっても、「鳥熱地」が「五十一年綱領」を奉戴し「凄惨な流血革命」の完遂に挺身し
てそれに敗北したということではない。短歌の「騒然たる堕落現象」の実態を撃ちその構造をいかにして“克服”するか、すなわち〈七五の魔〉の呪縛に抗し〈近代精神〉なるものに正規に対質すべき方法と理念は何か――これが、1956年の“スターリン・ショック”を反面教師にした「鳥熱地」にとっての問題であった。
「スターリン批判」の衝撃は、近藤芳美の心象にも陰影を及ぼしている。「梅雨ぐも」(『短
歌研究』56年8月)で彼はこの事態をどのように“了解”するか、疲労を滲ませている――。
・スターリン批判はいかに理解せん激しく會場に今日も問う聲
・スターリン批判を立ちて問うことば苦しむ問いにたれも答えず
後年のことになるが、この「梅雨ぐも」を含む歌集『喚聲』(1960年刊)の巻末で彼は、日本共産党の「六全協大会」(55年7月)のあと、「ソ連のスターリン批判」(56年2月)を知り、その年に「ハンガリー動乱」(56年10月)の報道に接するといった一連の事態について「心の動揺」と苦悩を真率に書き留め、この『喚聲』は「苦しい歌集」だったと告白している。「スターリン批判」をめぐって激しい遣り取りがあった「會場」というのは、中野重治『むらぎも』(1954年8月刊)の毎日出版文化賞受賞(1955年11月)を記念して上野精養軒で開かれた祝賀会のようだが、彼我の状況からみて上の二首は「スターリン批判」が一般に公表された1956年3月以降に書かれたものと見られる。
このような近藤好美の誠実ではあるが散文的な“反応”はともかく、「鳥熱地」の見立てでは、「特権階級の玩具になり、つい十数年前には進軍喇叭の役割を相勤め、現在も天皇一家の唯一の御用達詩型」として「ナショナリズムの器」であった和歌(短歌)は「流血革命」の暁には「反革命」の廉で追放され、「旗本面のコンミュニズム歌人」も「共産主義と〈奴隷の韻律〉の奇怪極まる野合」として自己批判を要求されるはずだ。それ自体異質な「エリオットやシュペルヴィエールを親戚扱いにしている無国籍イマジズム歌人も、須く現代詩を専門にするなり叉どこかへ亡命するなりすべきだし」、一方「そこは叉抜け目」なく〈わが身〉を応分に処する身過ぎ世過ぎの輩も出てくるだろう。「採算にも間尺にも合わぬピラミッド式會員雑誌經營事業」は自滅し「結社はさしづめ〈アカハタ〉取次所」になるほかあるまい。そして「短歌以外の何ものか」に奉仕してきた「歌よみ共」は、「見事な、あるいは醜悪な〈歌のわかれ〉」を余儀なくされるに違いない。
「ナショナリズムの器」としての短歌、「共産主義と〈奴隷の韻律〉」の「野合」、「無国籍イマジズム歌人」、あるいは歌壇「結社」の政治支配――事程左様に、「短歌の騒然たる堕落現象」を弾劾する「鳥熱地」の憎悪と怨念は凄まじい。だが、〈現代短歌〉の当面する課題がナショナリズムとモダニズム、解放の論理と従属の韻律、集団の制約と個体の自立など二項関係の対立と相剋にあるはずだという「鳥熱地」の論点は一応窺うことができる。
確かに凄まじい。そういう「鳥熱地」はしかし〈堕落した短歌〉の近傍で秘やかに「短歌そのもの」を愛し信ずる「少数の傑れた歌人」の、いわば“純粋短歌”の志向に期待を寄せるのだ。「すめろぎの……」と奉ずる「パラノイア」たる「右翼関係の一味」は論外として、「平和社會でのなまじっかなカトリシャンなど及びもつかぬ〈神〉」を視、それに殉じた信仰熱きキリシタンのように「流血革命」後の「暗黒の下で」彼らは「地下」に潜ってでも自己の信念を貫くはずだ。「短歌一筋に繋がって愚者の一徹と嗤はれたこともある弱々しい幾人かの無名の歌人」は、「あのリーダー気どりだった一群の歌人の遁走」の後に「決然と己を持して黙々と何かを創り始めるだろう。」
ところが、ことはそれほど単純なものではない。――「もう駄目だ」。万が一にもフルシチョフ=ミコヤン流の「平和革命」が“成就”したところで、短歌は「形の變つた愚民政策の手段となって津々浦々に七五調の宣傳ビラ」として撒かれるのが関の山である。バベルの塔はさらに水中に深く没したまま「淡黄にうるむ燈」も低俗で空疎な喧騒に薄れゆくばかりだ……。
こういう「鳥熱地」の脳裡に、歌壇政治や結社支配の実態、歌人や詩人擬きの誰彼がどのように想定されていたかを詮索することは生産的ではあるまい。多少とも戦後における短歌の文字通りの〈革命〉に関心を寄せる者なら、おのずからおおよその見当はつくはずだ。そういう眼で見れば、戦後「革命」の虚妄と短歌の「堕落」に対峙しその〈両面批判〉を通じて「日本人霊歌」の「ルネサンス」を夢想する「鳥熱地」のサティールに満ちたアイロニカルな厳しい、いわば倫理的とさえ言える「孤心」(大岡信)の美学は、〈死〉の累積のうえに君臨するスターリニズムの愚劣な政治=権力の擬制を告発した「永久革命者」(埴谷雄高)の悲哀に響応するといえるかもしれない。
「三十一文字を固執する滑稽な生活短歌」に流れる凡庸な歌声とは別様の、〈現代短歌〉の地平を画すべき「モデルニテ」のスピリチュアルを核にもつ「美しい靈歌」――当時の短詩形文学界にこれを恃むダイナミズムが確かに働いていたことを確認すれば、まことにことは足りる。そして翌1957年、すでに「流産」したはずの「日本人靈歌」と命名された短歌七十二首が『短歌研究』8月号の誌上に“突如”誕生したのである。作者は塚本邦雄であった……。
・石鹸積みて香る馬車馬坂のぼりゆけり ふとなみだぐまし日本
・革命はものうきかな安眠のベッド馬腹のごとたるむとも
・世界の終焉(をはり)までにしづけき幾千の夜はあらむ黒き胡麻炒れる母
塚本邦雄の歌集『日本人靈歌』(四季書房、1958年10月)の巻頭には、初出「日本人靈歌」の掉尾の「黒き胡麻炒れる母」に続くようにして「黙示録的な世界」を想わせる著名な一首が措かれている――
・日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係も
だが、戦後「革命」の幻想に鋭く対峙しうるばかりか、「滑稽な生活短歌」や「七五調の宣傳ビラ」に流れる単に三十一音律を刻むだけの凡庸な言語を相対化しうる「日本人靈歌」はいかにして可能か、「幾千の夜」にわたる分厚い言葉の記憶を背負う短歌形態を〈現代短歌〉として再生させうるモデルニテ、あるいは「今めかしさ」を探り当てその「靈歌」を、定型音数律の限界閾を追い詰めつつどのように表現できるか、翻って記紀万葉以来の〈日本の詩歌〉を根柢から規定してきた言語過程とは何か――〈近代の精神〉なるものと短歌の「命数」(折口信夫)をめぐる問題は、ようやく始まったばかりなのかもしれない。
(2021年7月24日)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1180:210725〕
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