原発震災の責任を明瞭にさせねばならない ─復興の精神と日本の帰路3─
- 2011年 6月 30日
- 評論・紹介・意見
6月29日
政局をめぐる愚劇と株主総会の茶番劇は日本の政界と経済界のどうしようもなさを僕らに見せつけている。菅首相の退陣と法案成立の取引に内閣人事の絡んだ政争は大震災や原発震災の復旧や復興を後景に退かせ、内閣・議会・政党への人々の不信を増大させる。東京電力(以下東電)の株主総会は企業や経済界の閉鎖的で排他的な構造を露呈させた。何が株主総会だと言いたい。これでは無責任で自己保身的な経営者という企業官僚の実態を露呈させているだけではないか。どこに企業の社会性の自覚はあるのか。政府や東電の動きを見ていると彼らの原発震災に対して取ってきた行動もうなずける。これじゃ、まともなことなんかできるはずがない、と思えてならない。こうした動きを見ていると政府や東京電力に対する責任追及をやめてはならないということを強く感じる。彼らの責任意識と社会性の欠如は一体のものであるからだ。
大震災や原発震災を前にすれば「がんばれ日本」という声が出てくることは分かる。責任追及よりも復旧であり復興であるという思いである。大震災は自然災害という要素が強いから特にそうであるといえる。だが、原発震災はこれとは次元の違う点がある。人災という側面が強いのであり、責任追及をやらなければならない。このことは復興の中で原発をどうするかと深く関係するのだ。「想定外」という言葉には責任を超えている事態という意味を含ませようという意図がある。そうであれば、「想定外」を想定しえなかった原発推進派の人々の責任は問われてしかるべきである。これは一見すると矛盾に聞こえるかもしれない。だが、そうではあるまい。そこにこそ、原子力エネルギーを産業化し、企業化した人々の責任がある。結果責任は企業責任者も負うべきだ。無責任体質といわれる日本の政治・経済制度(官僚制度)を復興過程で変えていくためにも不可欠だ。政府も官僚も、東電の経営陣も次々と入れ替わる。一、二年も立てば事件の当時者たちの大半はいなくなってしまうかもしれない。責任の所在も曖昧化する。しかし、原発震災は続くし被災地の住民はかつての居住地に何年も帰れない事態が続くと考えられる。そして、放射能汚染の被害はこれから時間を経て出てくる。水俣病や薬害などで被害者と企業や政府の関係を問うことの困難さやその歴史を想起すれば放射能汚染の問題で同じことを繰り返してはならないと思う。それは僕らが今、原発震災の責任問題を明瞭にしていくことなのだ。賠償問題を含めて責任問題を明瞭にすることは今後に深く関係する。放射能汚染に苦しむ人たちが孤立した場に置かれるのを許してはならない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0531 :110630〕
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