重い旅立ち ―椎名麟三著『深夜の酒宴』論―
- 2011年 7月 3日
- 評論・紹介・意見
- 『深夜の酒宴』椎名麟三藤倉孝純
【目 次】
はじめに
Ⅰ 閉塞の状況
(一) 暗いアパート
(二) 状況の内面化
(三) 「僕」の過去
Ⅱ これ見よがし
Ⅲ 甘い囁き
Ⅳ 二人きりの酒宴
(一) 娼婦の聖性
(二) 随分エロだ
(三) 「出ませんよ」
はじめに
今、わが国の読書界は史上幾度目かのドストエフスキー・ブームに沸いている。『カラマーゾフの兄弟』の新訳が大きな人気を得た。『罪と罰』も新訳が刊行中であり、『白痴』は近じか新しい訳出が予定されている。『地下室の手記』はすでに新訳が出版された。たとえば『カラマーゾフの兄弟』について言えば、われわれは米川正夫、小沼文彦、原卓也の訳本を持っており、それらに加えて今回、亀山郁夫訳を読むことができるのである。ドストエフスキーの作品はこれまでも新しい翻訳の刊行により、新しい読者を得て、読み継がれてきた。新訳と新しい読者層は相互補完の関係にある。両者によってドストエフスキーの作品は新しい解釈、読み方を得て、文学としての生命が途切れることなく発展してきた。
これまでの経験に照らせば、ドストエフスキー・ブームはその時代、その時代の状況を忠実に反映してきた。1930年代にブームがあった。日本が日中戦争、太平洋戦争へ突入した危機の時代に、ひとびとはなにがしか生きる指針を求めて、ドストエフスキーを読んだのである。1970年代初めにもブームがあった。71年はたまたまドストエフスキー生誕百五十周年という区切りの年で、海外で新しい研究成果が多数発表された。わが国でもバフチンの「ポリフォニー論」を中心にして、多方面にわたる議論が展開された。この時のドストエフスキー・ブームは、日本の高度経済成長期が終わりを迎えつつあった時で、経済成長に代わる新しい社会ヴィジョンが求められた。
このように、ドストエフスキー・ブームは時代の転換期に現れる。時代とドストエフスキーの結びつきは、単なる偶然の現象ではないし、文学史家による恣意的な位置付けでもない。敗戦直後のブームがそのことを如実に証明している。軍国主義・神格天皇制の崩壊、米軍による本土占領という未曾有の社会状況は、ひとびとに深甚なる挫折と絶望を与えたが、他方、開放感と新しい生き方を要求した。敗戦直後のひとびとがドストエフスキー文学のなかに、喜びや慰めだけでなく、人生の指針を求めたとしても不思議ではなかった。
今般のブームはどのような社会背景を持ったものであろうか。識者によって、「喪われた十年、とか「喪われた二十年」とか喧伝されて、すでに久しい年月が流れた。われわれの社会は、経済成長に代わる敗戦直後の混乱目標をいまだに定着できないでいる。ひとびとは個々人の生き方をそれぞれ追求して、一見、小さな“仕合わせ”に自足しているかのように思える。しかし、その生き方に確信を抱いているわけではない。ひとびとは他者によって自己の生き方を規制されたり、侵犯されたりするのを恐れている。個人主義的な生活を維持したいのである。他者からの干渉を嫌うである。そのため、一見矛盾しているようなのだが、他者を傷つけまいと極度に神経を使う。相手と物柔らかに接し、相手の主張を穏やかに聞いて理解しようとする。相手にたいするこうした対応は、実は自己の個人主義的な生き方を保持しようとする所からきている。この対応は、他者に対する真の優しさから出たものではないし、真の思い遣りでもない。このような個人主義的な生き方に、ひとびとは永くとどまる事はできないであろう。“もっと人間らしい生き方がどこかにあるはずだ”、という思いがひとびとを捉えずにはおかない。
1945年の敗戦以降、既に65年が経過した。その間、われわれはいくつもの大きな社会の転換期を体験してきた。その際、われわれは必ず、敗戦直後の混乱した時代を振り返り、そこから何事かを学び取ってきた。敗戦直後の混乱は、戦後史の原点である。日本の社会が今後どのような社会ヴィジョンを提起するにせよ、戦後史の点検なしにはすまないであろう。原点の再検討は、むろん戦後文学の場合にも不可避な作業ある。われわれは第一次戦後派、あるいは第二次戦後派といわれた文学者の業績をいまだに充分消化しきれていない。
戦後文学の一翼を担った作家に椎名麟三(1911~73)がいる。椎名は兵庫県姫路市の出身で、少年時代母親と極貧のなかで生活を送った。中学の時、別居中の父親を大坂へ訪ねた折、そのまま家を飛び出して、果物店員、飲食店員、見習いコック、町工場の工員等職を転々とした後、十八歳の時宇治電気電鉄部に入社して、車掌として勤務するかたわら、その職場で日本労働組合全国協議会(日本共産党系)傘下の組合を組織した。それと同時に、日本共産党宇治電細胞のキャップとして活動を始めた。1931年椎名(二十一歳)は治安当局の検挙を逃れるために東京へ逃亡したが、まもなく逮捕されて、神戸地方裁判所で懲役四年の判決を受けた。非転向のまま控訴した。その間未決囚として一年近く独居房にいて、たまたまニーチェの『この人を見よ』を読み、自己のそれまでの生活を深く内省するに至り、当局に転向の上申書を提出して、懲役三年、執行猶予五年の判決を受けて、出所した。出所後、キェルケゴール、ヤスパース、ハイデッガー等を読み、また文学への関心を深め、ドストエフスキー、チェーホフ、リルケから大きな影響を受けた。
1947年、椎名(三十七歳)は『深夜の酒宴』を発表して、戦後派作家としての第一歩を踏み出した。その後、『重き流れのなかに』、『深尾正治の手記』、『永遠なる序章』等を発表して作家の地位を不動のものにした。この時期の椎名の作風は、貧困、混乱が続く敗戦直後の社会不安を表現したもので、大きな反響を得た。しかし、51年(四十一歳)ころから思想、創作面で行き詰まりを来たし、キリスト者として洗礼を受けた。入信後、『邂逅』、『神の道化師』、『美しき女』等キリスト作家として精力的に活躍した。57年心筋梗塞で倒れ、以後療養を続けながら、小説、戯曲、エッセー、講演等多方面の活動をしたが、73年、脳出血のため死去した。六十三歳であった。『懲役人の告発』が彼の最後の作品となった。生前より刊行されていた『椎名麟三全集』(冬樹社)二十三巻がある。
敗戦直後、絶対天皇制と軍国主義から民主主義と平和憲法を根幹する政治体制への一大転換に遭遇した日本人、特に若いひとびとは「なぜ今、生きなければならないのか」、あるいは逆に「なぜ今、死んではいけないのか」という生の根幹に関わる大問題に直面した。戦前の価値体系の崩壊と無秩序に入り込んでくるアメリカの物質文明の氾濫の中で、若い世代は孤立無援のまま、身ひとつで生の意味を探求せざるを得なかった。このようなきわめて特異な社会状況を背景にして、椎名の初期作品は読まれたのである。
一方、椎名自身も同じテーマをかかえていて、永い間精神の彷徨を重ねてきた人物であった。彼が未決の拘置所でマルクス主義から離反した点は記しておいた。彼は、いわゆる「転向者」であった。しかし、彼は特高警察の拷問に屈して転向したのではなかった。ンーチェを読み、それまでの自己の生き方を批判して、改めて「革命とは何か」、「人間らしく生きるとはどういうことか」を深刻に考えるに至ったのである。出所後彼は多くの思想所、文学書を読んだが、なかでもドストエフスキーの『悪霊』が彼の文学開眼につながった。晩年、椎名はその出合いを『私のドストエフスキー體驗』として残した。
椎名麟三は今日キリスト教作家としての研究が主要で、入信以前の作品は入信へ至る一過程と見られがちである。しかし、彼が初期作品で示した「いかに生きるか」という重い問いかけは、トータル・ヴィションを欠いた現今のわれわれの社会に、必ず大きな示唆を与えてくれるであろう。なぜならば、新しい社会ヴィションの創設は究極の所では、われわれ一人一人の深い内省に裏付けられた自覚による以外にはないからである。ここに初期の椎名麟三を考察する理由がある。
Ⅰ 閉塞の状況
(一)暗いアパート
この小説の主人公、「僕」なる青年は、戦後東京両国の川沿いに奇跡的に焼け残った倉庫をアパートに改造した一室に、半年前から暮らしている。そのアパートは「僕」の伯父にあたる「仙三」の持ち物で、建物の中央に廊下が通っていて、その突き当たりに、共同便所と共同炊事場が並んでいた。そこに、数家族が暮らしていた。「僕」の年齢は、前後の文脈から推して、二十歳台後半、独身者である。この小説は「僕」の一人称告白文を主調にしているので、本稿では以下簡単に「手記」とだけ記す。時代は太平洋戦争の敗戦直後である。だから、作品にはバラック、食糧配給、外食、露天商等今日ではとっくに死語になってしまった、当時の混乱した世相を偲ばせる言葉が随所に出てくる。それらのなかでも、たとえば「金融緊急措置令」(昭和21年2月発令)は、戦後経済についての知識がなければ、大方の人にはその内容が理解できないであろう。この法令は悪性インフレを断ち切るために、いわゆる「新円切り替え」を政府が強行したものであった。過剰流通していた旧紙幣を国民一人当たり百円だけ新紙幣と交換し、その他の旧紙幣は強制的に金融機関に預金させた。この措置のために、ひとびとは生活物資を苦労して探し当てても、支払いに窮する事態が続出した。ひとびとは明日のためではなく、今日一日を生き延びるのに、必死の努力を払わなければならない時代であった。
だが、「僕」は敗戦直後のそのような社会的、経済的混乱にはほとんど関心を示さなかった。
「金融緊急措置令がどうなろうが、食糧の配給が遅れようが、そのような話題は僕の一番無意味な話題だ。」(『椎名麟三作品集』Ⅰ 50頁 講談社 以下頁数のみ記す)
---といって、「僕」は生活必需品を特殊ルート、たとえばその頃「進駐軍」と呼ばれた米軍から「横流し」できる闇ルートを持っていたわけではない。「僕」という男はそんな事のできる才覚はなかった。したがって、「僕」もまわりのひとびとと同じように、いや彼ら以上に窮乏生活、というよりはむしろ飢餓寸前の暮らしに耐えていたのである。「僕」の飢餓生活の様子は後に触れる。
食糧配給の遅延なんぞは「一番無意味な話題だ」と断言する「僕」にとって、それでは一体何がもっとも重要な話題だった、と言うのか。日本史上一度もなかった外国軍隊による国土の占領という事態に、思考回路を失った一部の天皇制論者や軍人が割腹自殺する一方で、占領軍を「解放軍」と取り違えて、日本の社会主義革命を怒号する政治家も出現した時代であった。「僕」は「手記」のなかで政治、経済等について、正面きって論じていない。その種の大状況については語らない。そのかわり、「僕」の感覚を通して身の回りの事--住まいの様子、周囲のひとびと、伯父の仙三など--を丹念に記している。「僕」が住んでいるアパートの様子を引用してみよう。
「全く部屋にいると、井戸の底にいるようなのである。僕の部屋は四畳なのだが、押入れも戸棚もない。そして天井が思い切り高いのだ。ただ一つの明りが、手の届かないほど高い小窓からやママつ(以下同じ)と部屋のなかに流れ込んでいるだけなので、昼間でも薄暗い。しかもその二尺四方の小窓には、驚いたことには、鉄の格子がはまつているのだ。」(49)
「どこから外を眺めることが出来るだろう! 二尺四方の窓は手を伸ばしても届かないのだ。僕は最初のあいだ気が狂いそうになつて、窓というものがあるとすればここになければならないと、そのあたりを思いさま手で痛くなるほどたたいた。」(50)
押入れも戸棚もない四畳一間には、明り採りの小窓がひとつあるだけで、しかもそこには鉄格子がはまつている。これは、アパートと言うよりは、むしろ刑務所の独居房にそっくりだ。
この部屋の陰惨な情景は、敗戦直後の住宅事情の危機的な様相の一端を記したものであるが、同時に、そこに住む「僕」の心象風景とも重なっている。「僕」はこの部屋でただ一人、ひっそりと板壁に頭をもたせて、黙然のなかに暮らしている。どこからも外を眺めることができないこの閉塞感が、「僕」の心象風景なのである。「僕」はこの閉塞のなかで、自己自身と対峙している。だが、この「閉塞」という概念は、自ら選択したにせよ、他から強要されたにせよ、対象世界とのひとつの関わり方を含んでいる。閉塞感は、他者との関係概念でもある。「僕」がこの閉塞感の下に自己と対峙していることは、そのまま、他者と対峙している関係でもある。換言すれば、「僕」は敗戦数ヶ月の日本の社会を、戦時中の軍国主義の崩壊とも、米国型デモクラシーによる「解放」とも捉えないで、閉塞の状況と認識していたのである。
以下この「手記」を論評するにあたり、筆者なりの作業仮説を予め示しておこう。筆者は、「手記」を「個我の確立」を目指した青春の一書として読みたい。個我の確立、これはあまりにも古いテーマである。二葉亭四迷以来すべての日本の文学者が扱ってきた大事な主題のひとつである。個我の確立は一方に自由の拡張をはらみ、他方に神の存在いかんという難問を含んで、現今のわれわれにとっても切実な問題である。個我の確立というテーマは、古くて、しかも常に新しい、人類永遠のアポリアのひとつである。本稿の主人公「僕」がどのようにこの難問と取りくんだか、その軌跡を追体験してみたい、これが筆者の意図である。
先に触れた「僕」の閉塞感は、個我を確立するうえで不可避な一プロセスをなす。自我の目覚めは通常、まず自己と他者との距離の意識として始まり、やがて自己ともう一人の自己との距離感覚、つまり自意識の分裂へと進む。閉塞感は自己と他者との、さらに自己ともう一人の自己との対話を意味している。自我の目覚めは青春の到来を告げる。---はたして、「僕」の青春はどのようなものであったのか。
(二)状況の内面化
「僕」はわずかに血の繋がりのある仙三を、「手記」で「仙三伯父さん」とも「伯父さん」とも記さず、単に「仙三」と呼び捨てにしている。ここに、仙三に抱く「僕」の屈折した感情が露骨に出ている。「僕」はその仙三が銀座で刷毛を売る露天の売り子である。「僕」はその店の売り上げの一分、つまり一パーセントを毎月の給料として仙三から貰って暮らしている。その給料ではやっていけないから、「僕」は常に飢えに苦しんでいる。「僕」の飢えは尋常ではない。
「僕は一昨日から殆ど何も食べていなかつた。そして昨夜から僕はひどい飢餓感に苦しめられていた。飢えはまことに重い。それは全身へ鉛のように蔽いかぶさつているので、動くのも大儀だ。」(62)
それほどひどい飢えに苦しんでいるのであれば、仙三に頼みこんで月給を上げてもらったらどうなんだろう、と考えるのが普通である。現に、露天仲間のライター屋は、どんなに少なくとも手数料は一割が相場だと憤慨して、はなはだ民主的じゃないからストライキして店主と交渉したほうがいい、と勧める。ところが「僕」は気乗りがしない。飢えはだれにとっても、まことに重い。特に「僕」の場合上に見たように、三度の食事が二度になるといった程度の飢えではない。完全な絶食状態が続いているのである。生命維持のデッドラインを越すか、越さずにすむかの危険な状態に陥っている。それでも「僕」は「手記」にこう記す。「---今晩米がないと言われても僕にはどうしようもない」。
すると、「僕」という男は、人生のすべてに絶望した末の性格破綻者なのか。それとも、敗戦がもたらした未曾有の社会混乱へ適応できなくなった生活無能力者なのか。さもなければ、奇人、変人の類でもあるのか。「僕」が生活無能力者でないのは、銀座の繁華街で売り子を続けていることで証明されるだろう。では、変人か。アパートの住人は、
「僕が昔共産党員であつてしかも在獄中気が狂つたという理由によつて、アパートの人々は僕の顔やひとり言を薄気味悪そうにしている---」(50)
のだが、仮に「僕」が奇人だとしても、飢えが死に直結するほどの深刻さになれば、食の手当てに動き回らざるをえまい。もしそれができないのであれば、「僕」は奇人ではなくて、「狂人」と言わねばならない。「僕」の危機的な飢えについて、もうひとつ例証しておこう。「僕」という人間を理解するうえで興味深い。
「もう歩くことが困難なくらいだつた。それに胃のあたりが急に気持が悪くなつて来て、遂に堪えることが出来ず、焼けた電柱につかまりながら吐いたのだつた。しかし粘液質の水ばかりで何も出て来なかつた。僕は幾度も吐いた。」(64~5)
胃袋には吐こうにも消化物がない。「僕」の胃は粘液を吐くだけなのだ。餓死が現実に迫っている。「手記」には、栄養失調が因で死んだ少年の話が出てくる。敗戦直後餓死は希な死因ではなかった。この危険な飢えに直面しても、「僕」は仙三にマージンの値上げを求めない。飢えからの脱出を図ろうともしない。そして、「全く僕が飢えているということがそれほど重要なことなのだろうか!」(58)と揚言して、暗い、カビ臭い部屋で、一人黙念に終始しているのだ。飢えもここまでくると、「僕」がいまだ生きているという事実を実感させてくれる唯一の感覚、という皮肉な解釈も不可能ではなかろう。
ところで、このように飢えについて「僕」の見解を調べてくると、そこにはなんらかの「僕」の意思が働いているのが分るであろう。「飢えているということがそれほど重要なことなのだろうか」と断言する「僕」には、たとい死に遭おうとも、ある目的の達成のためには、あえて死を避けるを潔としないという意思が働いているように、筆者には思えてならないのである。換言すれば、飢えに耐える「僕」には、求道者の面影がある。「目的」がいかなるものであるかは、「手記」の結語に相当するので本稿終節で触れるが、ここでは次の点を確認しておきたい。飢えに耐えるという「僕」に固有の小状況が、戦後社会を閉塞と捉える「僕」の大状況の認識と重なっているのである。小状況と大状況とは「僕」の精神の内部で、「僕」自身の問題として把握されている。状況を内面化して認識する「僕」の生き方を、哲学用語で、「実存」と表現しておこう。戦後の一時期、日本の思想界をリードした実存主義を「僕」が識っていたかどうかは、「手記」からは確認できなかったが、ひとつの生活スタイルをとことん突き詰めてゆくと、日常生活は哲学の次元へ到ることを証明している。
上のように、「僕」について少し調べれば、「僕」が生活無能力でも性格破綻者でもないのは納得がいくだろう。
さて、同じアパートに住むひとびとは、「僕」が昔共産党員で在獄中に発狂した、と気味悪がっている。この話はどこまで本当なのであろうか。「僕」の過去は仙三の口を通して、少しずつ、明らかになっていく。
(三)「僕」の過去
「僕」の父親が死んで窮乏した一家の暮らしを見かねた仙三は、子供のいない自分の事情も考え合わせて、「僕」を引き取って中学まで卒業させてくれた。卒業後、「僕」は仙三の店で手伝いを始めた。事件はここで起こったのである。仙三は次のように証言している。
「だが中学を卒業して店で手伝いをして呉れるようになつたが、すぐ店の者へ妙な宣伝をはじめるようになつた。そうだ、それは妙な宣伝だ。だがわしはそのお前に何か文句を云つたことがあつたか! わしはだまつていた。そしてきつととんでもないことになるだろうと覚悟していた。そして満州事変が始まつて、これからやつと店が楽になるというときに、お前がひつぱられ、店の者までひつぱられて、わしの店は一度につぶれてしまつた。」(71)
この引用には2~3の補足が要るだろう。冒頭の「店」はむろん仙三の店である。「店の者」は中村と言って、「僕」と仲のよい友人であった。中村君についてそれ以上の事、何歳で、どんな事情で仙三の店で働くようになったか等は、「手記」には記されていない。「満州事変」は註は不要であろうが、1931年日本軍の謀略によって奉天北方柳条湖の鉄道が爆破されて、それを機に日本帝国主義の中国東北部への侵略が始まった事件である。「妙な宣伝」、これはなんであろうか? 文脈の流れから推して、仙三の店で一緒に働いているうちに、「僕」が中村君へ共産主義や反戦思想を語りかけたのであろう。昔共産党員であった「僕」と上の引用を重ねると「僕」と中村君は治安維持法違反の疑いで逮捕されたのであろう。そのあおりを受けて仙三の店は潰れたのである。
仙三の証言によって、「僕」が過去を背負って生きている人間であるのが明らかになった。既に触れた「金融緊急措置令がどうなろうが、食糧の配給が遅れようが、そのような話題は僕の一番無意味な話題だ」と確信する戦後の「僕」と、戦時中のこの事件とは、「僕」の心のどこかで繋がっているのではあるまいか。同様に、「僕が飢えているということがそれほど重要なことなのだろうか!」という、空腹についての求道者風の態度とこの事件とは、どこかで関連しあっているのではあるまいか。それと言うのも、「僕」の飢え、いや飢えに象徴される日常生活全般にわたる無頓着さには、常識を超えたものがあるからである。言い換えれば、餓死を覚悟で対決すべき課題が、「僕」の精神の深部に棲まわっているのではないのか。「僕」をとりまく暗くて重い閉塞の状況は、戦後の社会的混乱が「僕」へ押しつけただけでなく、「僕」自身が選択した状況であると、筆者には思えてならない。「僕」と仙三との関係を追跡しながら、さらに「僕」の過去を明らかにしよう。
次の引用は、前の引用文と切れ目なしにつながっている。
「そんな目に合いながらも、やはりわしはだまつて辛抱して働きつづけて来た。そのあいだにも、わしはお前の母親やお前と一緒にひつぱられたお前の仲のよかつた友達の家の面倒まで見て来たのだ。だのに、見ろ! 毎日の新聞を! 何でも攻撃だ。何でもデモだ。そして何をしてもいいのだ。それがお前がさも立派そうに見せかけて来た思想なんだ。中村をおだててさそい込んで牢で殺し、わしにひどい苦しみを味わせるだけの値打のあつた思想なんだ。死んだ中村が可哀そうだ。---わしらはだまされたのだ。(中略)
さあ、見ろ! ひとり息子を失つた老夫婦はお前をうらんでいるぞ。それに食うに困つているのだ。わしはお前の儲けて来る金は、このようにちやんと中村へ送つてやるのだ。お前は人をだました罪を償わなければならんのだ。人をだました罰を受けなければならんのだ。わしの眼の玉の黒いかぎりは、お前に自分の罪を償わせてやるのだ。」(71~2)
これで「僕」の過去がだいぶ明らかになった。右の引用にある「わしはお前の母親やお前と一緒にひつぱられたお前の仲のよかつた友達の家の面倒まで見て来たのだ」という仙三の話はどこまで信用できるであろうか。この男の言動からして、あまり信用度は高くないと思われるのだが、この話は「僕」の飢えと密接に関連している。「僕」が仙三の露天の売り子で、売上げの一パーセント分しか給料として貰っていないのは、先に記しておいた。仙三は「僕」の手取りの少なさについて、「お前の儲けて来る金は、このようにちやんと中村へ送つてやるのだ」と言っている。この「中村」は獄中で死んだ中村君の両親を指しているのだが、奇妙なことに、「僕」は仙三のこの話を確かめようともしないし、また、仙三に感謝しているわけでもない。「僕」は一方的に自分の意見を押しつける仙三に威圧されて、反抗できないでいる。仙三はその「僕」の一番弱い所を的確に衝いてくる。中村君が獄中でどのような死に方をしたのかは、「手記」はなにも明らかにしていない。拷問死であったろうか。それとも自死、病死であったろうか。
それはともあれ、仙三の批判それ自体は、真っ当な内容である点に注意しなければならない。「それ自体」と筆者が限定をつけた理由は、仙三が戦前から引きずっている権威主義的な態度や、「僕」に対する恩着せがましい対応の検討を抜きにしては、その批判を額面通り受け容れるわけにはいかないからである。仙三という男の評価については、次節で触れるが、仙三の一応筋の通ったこの批判を、左翼革命運動の内部でよく見受ける政治主義的論法によって糊塗してはならない。その論法とはたとえばこんな調子であろう。
---中村君の死は勝利へ向かって雄々しく立ちあがって、志半ばで斃れた尊い犠牲である。われわれは中村君の死を無にしてはならない。彼の遺志を引き継ぎ、その死を乗り越えて、勝利の日まで闘い続けなければならない。その勝利の暁において、中村君のご両親のご無念も晴れるであろ---
その論法の核心はすりかえにある。こんな空疎な内容によって慰められる者はどこにもいないはずなのであるが、しかし、この論法は戦前、戦後の日本共産党によって幾万回となく使われて来ている。日本共産党の綱領を批判して一時代を画した新左翼諸党派によってもたびたび繰り返されてきた。
その論法が責任逃れのごまかしであるのは見易いであろう。現実に起こった中村君の死という個別の事件を、未来にあるであろう「革命」--よしんばそれが望ましいものであったとしても--の実現によって正当化しようとする。その論法が責任回避であるのは、自己変革の芽を摘み取っているからである。「中村君事件」に即して言えば、彼の死は「僕」の「革命運動」へのかかわり方を、根本から見直すべき事件であった。「僕」には、この事件を機に中村君への接し方、事件の真相の追求、彼の両親への応接等々を、一般的に言えば革命運動と社会や政治との関係のあり方を、真摯に反省することが要請されていたのである。このような自己への厳しい問い詰めの末に、なおかつ革命運動への参加を続けるとき、「僕」は革命運動を己が身に引き受けて生きてゆくことになる。簡単に言えば、中村君の事件は、「僕」の責任を明確にして、「僕」の自身の自己変革への一歩を踏み出すべき事件であった。社会変革が主体の変革と切り離されたとき、どれほど大きな悲劇が発生したかは、ソ連、東欧、中国等の「社会主義革命」の無残な結果が実証している。
「お前は人をだました罪を償わなければならんのだ。人をだました罰を受けなければならんのだ」と「僕」を非難する仙三の言い分には、世間を納得させる常識論がある。「僕」を激しく非難する仙三に対して、「僕」は自己の責任をあいまいにしたまま反論することはしなかった。自己の責任を不分明にしたままの反論が、所詮、自己弁護にしかならないことを、「僕」はよく知っていたのだ。だから、その非難に対して、
「僕は眼を落してだまつたまま仙三の言葉に堪えていた。そのほかにどうすることが出来たであろう。」(72)
そうなのだ、「僕」はあの事件に得心がいくまで堪えねばならないのだ。そして既に記したように、「僕」はさまざまな事態に実に辛抱強く堪えている。「堪える」とは、常に自己の内面へ向けた孤独な作業である。提起された課題を感受し、課題の意味するところを納得いくまで、自己の精神の内部で辛抱強く反芻する。
さて、ここまで「僕」をフォロウーしてくると、「僕」の「堪える」という姿勢には、ある意思の選択が働いているのが分るであろう。「僕」はあえて仙三の安月給に堪えている。あえて仙三の叱責に堪えている。仙三から逃げだすことも可能なのだが、あえて仙三と縁を切らないでいる。これが、今の「僕」の生き様なのである。この「あえて」と言う表現の中には、「僕」の自責の念が付随している。「僕」の過去の行為について、自責の念をもって「僕」はいまを生きているのだ。たびたび引用する「食糧の配給が遅れようが、そのような話題は僕の一番無意味な話題だ」という断言は、「僕」の自責の念と関連させなければ理解できない。「僕」は餓死を覚悟で、自分の過去と対決している。中村君の死に対していかように責任を取るのか---、死者は語らない以上生き残った者が、その生き方を通して責任を果たす以外に途はない。
「僕」が自責の念にどのような回答を用意したのか、その経緯は、「僕」と同じアパートに住む「加代」という若い女性との交渉の中で展開される。だが、加代について語るには、先に仙三に若干触れなければならない。
Ⅱ これみよがし
仙三が倉庫を改造したアパートの所有者であるのは先に記した。アパートには数家族が住んでいた。後述する「加代」を除けば、住人たちは一様に貧困と病苦と深い劣等感にさいなまれて、絶望的な日々を送っていた。仙三はそこに事務室を置いていたが、彼自身はそこには住んでいなかった。仙三は近くの橋の傍に作ったバラックに一人で住んでいた。住人たちは周辺のひとびとから疎外されたような形で、アパートという閉ざされた空間で暮らしていた。外部とのつながりといえば、仙三との交渉くらいのものであった。仙三がこのアパートの内で暮らしていないという事実は大事なポイントである。仙三は家主という特権をもった外側に住む人間として、また時には外部の社会を代表する人物として、アパートの住人と関係をもったのである。
仙三は思いがけない時にアパートへやって来ては、あれやこれや説教じみた話をして帰ってゆく。そのうちのひとつを紹介しよう。この男を知る上で興味深い。
ある日の夕刻、共同便所に隣りあった炊事場は、おかみさんたちの夕食の支度で混雑していた。おかみさんたちはまとわりつく幼児の面倒見をほったらかしにして、忙しく立ち働いていた。そこへ突然仙三が現われた。仙三の身なりがひときわ奇異に目立つ。フロックコートを着て、胸には勳八等の勲章を下げていた。そして顔をしかめ、威厳のある声で話を始めた。
「あんたはその大根の葉つぱを捨てるのかね? 大根の葉つぱにはヴィタミンが根より多くふくんでいるのだ。それを捨てるのは全く命を捨てるようなものだ。わしは先刻も云うように単なる経済から云うのじやない。食生活の合理化のために云うのだ。全く大根の葉つぱは枯れたものさえ干葉と云つてな、漬物にしてもうまいもんだ。それにわしは沖仕をしていたとき足を挫いたことがあつたが、その干葉を入れた湯を立てて立派に直したことがありましたよ。」(59)
炊事場の囲い板はボロボロに腐って、いたるところから水が漏れていた。その側には白カビのはえた厨芥が投げ捨てられていた。炊事場全体が異臭を放っていた。そんな不衛生な所で、時間を惜しんで働いているおかみさんたちを前にして、菜の茹でかげんがどうしただの、フライパンの扱いが下手だのと、家主の威光を鼻にかけて仙三は喋る。胸に吊るした勲章が鍋からあがる湯気にさらされて、鈍く銅色に光りながら揺れる。ヴィタミンが多いとか、食生活の合理化とか、一応もっともらしいことを喋るのだが、内容は些末にして空疎である。夕方の忙しい時間にわざわざ主婦たちに聞かせなければならない急な話ではない。この男にとっては相手がおかみさんたちであろうが、場所が乱雑な共同炊事場であろうがかまわなかった。事実は、この男は自分の威厳を誇示できる相手と場所が欲しかったまでのことであった。この男は家主のわずかな権力を、借家人へ押しつけたかったのである。ちなみに、敗戦数年間の住宅事情は最悪であった。大多数のひとびとは急造のバラックに住んでいた。アパートに住めるだけでも幸運というべきであった。住人は家主から退室を申し渡されると、断ることが出来ず、その先には一家離散の運命があった。
このような仙三を見る「僕」の眼は冷たい。フロックコートを着こみ、胸に勲章を吊るし--わざわざこんな格好をして現われたのだろうか--顔をしかめて説教を垂れる仙三を、「僕」は醜悪と看ていた。醜悪の根源は仙三の自己顕示欲にあった。己の威光をなんとしてでも相手に知らしめたいという心性、これが醜悪でなかろうはずがない。威光を示して台所で一場の説教をする仙三のグロテスクな姿は、当人がその滑稽さに気づいていないだけに、ブラック・ユーモアと紙一重のところにいる。
大多数の日本人と同じように、仙三は今次大戦の被害者であった。仙三は空襲で妻を亡くし、家を焼かれ、家業を失った。そのうえ、彼の右脚は足首からなかった。そのため仙三の歩行は、大きく太い杖を頼りにしても極めて不安定であった。仙三の跛行はいわば敗戦日本の異常事態を象徴したものであった。戦争被害者の一人であった仙三は、しかしながら、神格天皇制や軍国主事の崩壊から何ひとつ学んでいなかった。たびたびみせる権威主義や「僕」を非難する恩着せがましい語り口が、それを証明している。
「満州事変」の時、仙三は店の商売が忙しくなるのを期待した。戦争景気を当てこんだのだろう。おそらく仙三は「満州事変」、「支那事変」、「大東亜戦争」へと突き進んでいった戦前日本の歩みに、賛同し、加担してきた男であったろう。この男が、戦争に反対したために治安維持法によって逮捕された「僕」の行為を批判する資格があるのだろうか。獄死した中村君の死に事寄せて、「お前は人をだました罪を償わなければならんのだ」と荒々しく叱責する資格があるのだろうか。この男は戦争に加担し、未曾有の戦禍を日本へもたらした結果について、なによりもまず猛反省すべき立場にあったはずである。「僕」も中村君も昭和十年代の日本共産党の主張に賛同して活動したために官憲の弾圧に遭った若者だった。仙三が戦前の自分について真摯な反省をしたならば、当然、中村君の死や「僕」についての考えも変わったはずである。しかし見てのとおり、仙三には反省の片鱗すらなかった。この男にとっては、神格天皇が「人間」天皇に替わっても、軍国主事がデモクラシーに換わっても、戦前と戦後は連続していたのである。
筆者は前節で、「僕」に対する仙三の非難は、「それ自体としては真っ当な内容となっている」と指摘しておいた。この非難は、原因と結果かについての仙三の皮相な観察から得たものであった。その限りで一般受けする常識論の一面をもっていた。だが「僕」は仙三とは次元を異にしたところで、中村君の死について深い責任を感じ、自責の念を負って生きてきた。その点は既に記した。中村君が獄中死したのか、それとも釈放後何らかの死に至ったものか、「手記」は口を閉ざして何も語っていない。「僕」が中村君にどんな形にせよ直にかかわったという記述も、むろんない。しかし「僕」が共産党から離反したこと、つまり「僕」の転向問題と中村君の死とはどこかで深くリンクしている、と「僕」はずうっと考え続けてきた。そして永い鬱屈した生活の末に、その問題にようやくひとつの結論を得ることができた。どのような結論なのか? それは、加代という若い女性と深く関連している。
Ⅲ 甘い囁き
栄養失調で十二歳の少年が死亡するほど極貧の生活をしているこのアパートの住人たちのなかで、加代だけは例外だった。加代は仙三の妾であった女性の娘で、母親が仙三と別れて再婚したのを折に親元から離れ、仙三を頼ってこのアパートに住むようになったのである。加代は白い肌がはちきれそうに太っていて、足先まで輝いていた。その健康な体も成程とうなずけた。加代の部屋からはよくすき焼きの匂いがした。加代の部屋には医学生や戦後成金など数人の男が出入りして、賑やかな談笑がもれていた。加代は娼婦であった。だが、明日の食事を心配しないで暮らせるのが加代の唯一の特徴ではなかった。加代はどこか重い、暗い雰囲気を身につけた女性であった。「僕」は加代を次のように観察している。
「加代にはいつも未来への漠然とした不安があつた。彼女はその不安をただ漠然と堪えているだけなのだ。それは彼女の眼を見ればよく判るのだ。彼女の一重瞼は何かひどく重い感じだつた。そしてその瞳には動物的な暗さが沁みついていた。」(54)
「未来への漠然とした不安」、これが「僕」が読みとった加代の特徴である。社会や国家の将来についての不安でもないし、若い娘にありがちな結婚へのもどかしい憧れでもない。ましてや、若いうちに体を張って金を貯めて将来小料理屋でも持とう、といったヴァイタリティーのある女ではなかった。加代が身につけているこの暗い雰囲気は、彼女の精神の深部に由来しているらしいのだ。「僕」は加代の眼を視た。すると瞳には動物的な暗さが沁みついていた、という。それは、相手を斃そうとする鋭い獣の眼ではない。また、相手の殺気を感受して即座に身を翻して遁走する小動物のそれでもない。加代の暗い瞳は、相手との一定の距離を保ちながら、決して相手に隙を見せないところから来ていた。たとえて言えば、飼い主に対してさえも警戒を解かないある種の動物の本能に似ていた。加代の動物的な暗い瞳は、彼女が抱いていた生に対する漠然とした不安の反映であって、彼女の生き方もまた、
「---ただ現実に押し流されているだけなのである。何処へ? それについて彼女は考えたこともないのだ。ただある漠然とした予感だけが終始彼女の生命を蔽つているだけなのである。」(77)
二十五歳前後なのに、加代ははやくも人生をそこそこに見限る雰囲気を身につけていた。こうした態度は彼女の心の動き、体の動きにも表われ、常にけだるい、ものういという印象をひとに与えた。加代をみる「僕」の厳しい観察は続く。
「その加代は甘えた柔い口調で話すので、一層は白痴のような感じがするのだつた。その彼女には強い倫理性というものがまるで感じられないのだ。」(同上)
「漠然とした予感へ漠然と自分を失つているというのが彼女の姿なのだ。そこには強い意志や精神のきらめきを見ることは出来ないのである。」(同上)
加代をこのように批評する「僕」は、精神生活の面では彼女の対極にいた。加代の怠惰な精神とは対照的に、「僕」の精神は自己凝視に貫かれていた。そしてその自己凝視には思想的な意味が付与されていた。その意味を確かめておこう。
ある日「僕」は仙三の商品を背負って駅へ向かっていた。どうした心的状態であったのか、突然時間の観念を失い、それに続いて、この先永く、永く、なんの変化もなく、絶望のなかで、トボトボと歩き続ける惨めな自分の姿を、「僕」ははっきりと予知した。その予知のもつ意味を「僕」はこう考えたのであった。
「たしかに僕は何かによつて、すべて決定的に予定されているのである。何かによつて何だ(ママ)――と僕は自分に訊ねた。そのとき自分の心の隅から、それは神だという誘惑的な甘い囁きを聞いたのであつた。だが僕はその誘惑に堪えながら、それは自分の認識だと答えたのだつた。」(73)
「僕」が予知したように、絶望のなかでなんの進歩もなく繰り返されるのが「僕」の人生だとしたならば、その人生はいったい誰が決定したのだ? 「決定したのはだれだ」と問い質したくなるのは当然であろう。そして、決定したのは神だ、との声をその時「僕」は聞いた。カルビンが説いたように、ひとの生涯は神によって予定されていて、それに絶対服従するとき、はじめて神の栄光に浴する、とするならば、そこにはひとの自由な意思も決断も必要としない。もしも、「僕」が自由というものが広大に過ぎて扱いかねると負担に思ったならば、「僕」にとってカルビンの予定説は「甘い囁き」であっただろう。予定説がはたして自由という過重からの解放であったのか、それとも極端なリゴリズムに基づいた専制への途であったのか――、時間の観念を喪失したその時の「僕」が那辺まで考えたのか、「手記」は明らかにしていない。しかし、ともかく、「僕」は甘い囁きに堪えた。甘い囁きを斥けた「僕」は、自分の人生を決定するものは、自分自身の認識だという答えをひきだした。このとき「僕」は、神に依らずに、自己の意思により、つまり個我に依って生きようと決意したのである。カルビンに言及したので敢えて引き合いに出すのだが、「僕」の認識はデカルトの「認識」である。「僕」は十七世紀のデカルトにまでさかのぼって、「僕」なりの回答を探し当てたわけである。
個我によって生きようとする「僕」から見ると、加代という女性には「強い倫理性」も「強い意志」も認められない。「精神のきらめき」もない。したがって加代を見る「僕」の眼は実に冷たいのだ。いや、差別的ですらある。先に引用しておいたのだが、「僕」は加代を「白痴のような感じ」と記している。別の所では、「この女と一緒に寝たら動物と寝ている気」がするだろうとか、「何て豚のような女だろう」との感想も述べている。加代に対するこの差別的な見解は、おそらく「僕」の女性観の貧困さに負っているのだろう。「僕」は女性から学び取ろうとする姿勢がない。デカルトの認識に依拠して妥協のない厳しい自己探求に集中している「僕」には、加代は軽蔑の対象でしかなかった。
他方、加代の方は「僕」を憎からず思う気持ちが育っていた。空腹のため衰弱しきってしまった「僕」へ優しい言葉をかけたり、食事を用意したりした。時には、「僕」の部屋へ入って身の上話しをすることもあった。「僕」の方でも加代の親切心に少しずつ心を開いていった。ある日、空腹のあまり「僕」は部屋で倒れたまま、気を失ってしまった。優しく介抱してくれたのは加代であった。衰弱しきった「僕」に粥をたびたび作ってくれた。またあるに時は、当時としてはまことに珍しい一口もなかを持ってきて、「僕」の横に坐り「お食べになりません?」。めずらしく「僕」は加代に素直に、「いや、どうも。ほんとにあなたはいい人ですよ!」。
---こうして若い二人は徐々に親密さを増していったのだが、このことが仙三とのトラブルの新たな種となった。
Ⅳ 二人きりの酒宴
(一) 娼婦の聖性
仙三は「僕」と加代が仲良くなるのを不快に思った。元の妾の娘という多少は縁故のある加代に対しても、仙三は容赦のない考えを隠さなかった。
「わしは加代にこのアパートから出て貰おうと考えている。全く加代はわしを気違いにしてしまうよ。あいつは云わば社会の毒虫だ。若い青年を病気と堕落につき落す毒虫だ。うむ、あの女を殺したらどれほど世の中を益するかも知れん。」(74)
戦時中からなにかと「僕」に目を掛けてやったつもりの仙三にとっては、社会の毒虫のような女と「僕」が親密さを増すのを見るのは、不快さを越して許しがたい事であった。仙三は、この二人は「できている」と思ったにちがいない。仙三は「僕」に対しても、これまでにないきびしい非難と雑言を浴びせた。
「お前はここで勝手なことをしていていいと思うのか? お前は罪人なのだぞ。ここはお前の刑務所でお前はその懲役人なのだぞ。この間、あれほど云つて聞かせたのに、少しも自分を悪いとは思つていないのだ。少しは恥を知れ!」(78)
「お前は悪いことをしたと思つていないのだろう? 思つているのか? 思つていないのか?」(同上)
これまで、仙三の非難にあいまいな対応で済ましてきた「僕」は、この時はじめてひとつの決断をした、「返事をすまい」と。以前に増して「僕」を激しく攻撃する仙三に対して、「僕」が答えないぞ、と決心した時、実は、彼が新しい生き方を始めつつあった時でもあった。そんな折、「僕」は加代から思いがけない話を聞かされた。
「『昨日白木さん(加代の客 筆者注)が、あなたとわたしがどこかよく似ているというんですの。全然顔も様子も違うけど、全体の調子、とか云つてましたわ。それとも身体全体の調子だつたかしら? そんな調子がよく似ているんですつて!』(中略)
『全体の調子?』、と「僕」は思わず呟いた。だが「僕」はやがてびつくりして叫んだのだつた。『一体そう云つた男は誰なのだね?』、『どんな仕事をしている人なんだろう! 僕の秘密をのぞいた奴は!』」(80)
目つきがそっくりだ、口許が似ているといった外観からすぐ気づく似かたではない。日常生活のなかで自ずから滲み出てくる雰囲気がよく似ている、という加代の指摘なのである。「どんな仕事をしている人なんだろう! 僕の秘密をのぞいた奴は!」という「僕」の咄嗟の反応には、驚きがよく示されている。「僕の秘密」、それは幾度か触れてきた、理知に基づく妥協のない自己探求の生活である。将来について漠然とした不安を抱きながらも、淡々と日を送っている加代は、二人の共通点には気がつかないでいた。加代を軽く見て、精神のきらめきのない女と批判した「僕」も、当然ながら二人の共通点には気づかない。「僕」の心の秘密を覗きこんだ「白木」について、「手記」はなんの言及もない。二人の短い会話は、
「僕はそれなりにだまつてしまつたのだ。全く僕と加代が本質的に同じだとしても、それがどうしたというのだろう!」(81 傍点筆者)
で終わった。
“ちょっと待って欲しい”--、今は筆者が「僕」に注文をつけなければならない。「***と同じだとしても」という文章は、言うまでもなく仮定表現なのだが、実際は相手の言い分を8~9割方認めた場合に使われる。二人が「本質的に同じだとしても、それがどうしたというのだろう」という「僕」のコメントには二人の関係についてもっと、もっと重い内容があっていいはずである。「僕」は加代の話をこうも簡単に認めてしまっていいものなか。二人が本質的に同じであるとは、将来に漠然とした不安を抱きながら淡々と生きるか加代と、自己探求の日々を重ねる「僕」とが、日常生活の現われ方においては相異なるのであるが、しかしながら、心魂のあり方においては、実存の有り様において、二人は同じである事を意味している。もし加代が「僕」と精神の赴く所が同一であるならば、加代の人格にまで及ぶ「僕」の差別的発言は直ちに訂正されねばなるまい。そして「手記」の記録者「僕」は、加代の存在をもっと詳しく記述しなければならなかったはずである。二人が本質的に同じだとしても「それがどうした」で済ますと、「手記」における加代の位置があいまいにならざるをえない。
実は、「僕」と加代との関係のなかには、「娼婦の聖性」というテーマが潜んでいたはずなのだ。「娼婦の聖性」とは、社会から蔑視されながら暮らしている彼女らが、精神的に苦悩している男の魂を救う、というドストエフスキーが好んで用いたテーマのひとつである。『地下室の手記』のリーザ、『罪と罰』のソーニャが特に有名である。二人は社会から差別を受けながら、しかし自己犠牲の精神で強く生きた。二人はキリスト教倫理に支えられていたからこそ、悩める男を救えたのであった。「手記」の最終場面を読むと、加代には、リーザやソーニャの役を期待した節がある。酔いつぶれて加代の膝元に寝こんでしまった「僕」を優しくいたわる加代には、若干ソーニャのイメージとダブルからである。
ところが「僕」は、色白の肉付きのよい身体と甘えた口調で喋る加代しか見ていない。日々を漠然と生きる加代しか認めていない。換言すれば、加代は生活実感の希薄な女性として「手記」に登場しているにすぎない。したがって加代からは、存在の厚みが伝わってこないのである。このような加代がリーザやソーニャの役を果たすのは困難であった。そのために「手記」は、「僕」の個我の確立と、加代による「僕」の救済という二つのテーマにあやうく分裂する知ころであった。加代を逞しく生きる女性として描けなかった原因は、先述したように、「僕」の女性観の貧困さにある。第二次世界大戦の末期に思春期を送った「僕」に、瑞々しい、柔らかい女性観を期待するというのは無理というものであろうか。職場や家庭のみならず、発想や観念においても、男女が対等でなければならないという意識は、戦後社会のなかでもウーマンリブやジェンダーの運動を介して、おおよそ1970年以降にようやくこの社会にていちゃくしたのであった。
(二) 随分エロだ
さて、論点を再び仙三へ戻そう。
仙三は「僕」と加代に我慢のならない憤りを抱いていた。周囲のひとびとに簡単に同調してしまい、将来について確たる見通しを持たない二人に対して、仙三の忍耐は限界にきていた。ある日の深夜、二人はアパートの事務室へ来るように仙三に呼びつけられた。仙三は「深い絶望と憎悪」をこめて、二人に次のように宣告した。
「明日のうちに二人ともこのアパートを出て行つて貰おう。年寄りをからかうなんて不埒な奴だ! ---いいか、必ず出るんだぞ! わしはいつも容赦のない男なんだ。」(83)
だが、「僕」に対する仙三の憎悪は、「出て行け!」では収まらなかった。例の中村君の一件を持ちだしてきたのである。
「『お前は中村を殺したのだ。妙な思想で人をだましたのだ。そしてわしを犠牲にして置きながら事毎にわしを苦しめているのだ。違うというのか?』
『そうです。』と僕はあつさり答えた。(中略)
『そうです? よく白々しく云えたものだ。よし、お前死ね! 死ぬのが本当なのだ。』
その仙三の厚く垂れている唇は、痙攣して笑つているように見え、手は中風のようにふるえていた。それを見ると僕の心は重く沈んだ。僕は呟くように云つた。
『詰腹を切らされるわけなんですね。』
『詰腹? 馬鹿な! お前は自分の罪を悔いて自分で死ぬのだ。わしはお前の死ぬことなんかちつとも知らんのだ。---お前は首をくくればいい。それが一番楽なのだ。紐はここにある。』」(82~3)
仙三は「僕」の目の前へ首吊りロープを投げだした。それは夏祭り用に仙三が準備した真新しい紅白の綱であった。しかも、ロープの一端には、既に輪が作られてあった。首吊り用の輪が作られてあったという記述には、十分注意が必要である。上に見たように、仙三は怒りに任せて二人に「アパートを出て行け」と怒鳴りつけたのだが、自殺しろという「僕」への強要は、怒りにかまけて思わず口をついて出た暴言とは解釈できない。仙三は、たしかにただならぬ興奮の体で「僕」に、「お前死ね」とは言ったのだが、しかし首吊り輪は前以て用意してあったのである。ということは、この話は仙三が事前に計画したものなのである。仙三は「僕」への憤懣が積もりに積もった末に、「僕」の縊死を願うまでになっていたのである。だから、仙三が隠微な冷笑を顔に浮かべながら、ロープの輪を入念に拵えたという想像は十分に可能である。そうした事情を鋭敏に察知した「僕」は、だから、仙三へ言い返したのである。
「伯父さんは嫉妬しているんだ! それでなければこんなお祭りの綱などを思いつく訳がない。---伯父さんも随分エロだ」(82 傍点筆者)
「手記」の中でもこの部分はとりわけユニークな所である。日本がアメリカの軍隊によって支配されたという歴史上未曾有の異常な事態の許で、われわれ日本人がどれ程歪んだ民族意識を潜在させざるをえなかったのか、そのことを知る上でもこの部分は貴重である。これは、戦後史の歴史的証言のひとつにもなりうるのではあるまいか。
夏祭りの会場で用いる紅白のロープを首吊り用として使う---、むろんここには常識を大きく逸脱した祝儀と不祝儀の不自然な組み合わせがある。祝儀と不祝儀の不自然な組み合わせ、それが敗戦によって引き起こされた既成概念の瓦解によって生まれたものだ、と筆者は主張したいのではない。いかな敗戦直後の混乱の許とはいえ、古くから継承されてきた土着の習俗がひとつの国家体制の変動を前にして、あっけなく崩壊することはあるまい。昔から祝事に紅白を、凶事に白黒を用いるのは日本の伝統である。
先に記したように、仙三は紅白の首吊りロープを、まえもって準備しておいたのである。そして、「僕」は仙三のその秘匿された意図を敏感に見きわめたからこそ、「伯父さんも随分エロだ」と切り返したのである。さて、「エロだ」、これは何であろうか――?
仙三という男が戦後も戦前と同じ考えを持って生きた点は既述しておいた。頑固に戦前の生活スタイルを変えなかった仙三にも、しかしながら、米軍の占領という事態が密かに影響を与えずにはおかなかったのである。晴れの日に使う真新しい紅白の綱で若者を一人縊死させる、このアイディアには仙三の猟奇趣味が潜んでいた。「僕」が伯父さんはエロだと言ったのは、仙三の倒錯したこの趣向を指していたのである。興味深い問題点は、仙三の猟奇趣味が何処から来たものなのかである。ここでは、それを二つの要素に区別してみよう。ひとつは、既に触れた被占領の事態である。もうひとつは、それと密接に関連しているのだが、新しい意識と行動を体現した若者達の登場である。前者を簡単に、「抑圧された意識」、後者を「世代論」として、順次検討しよう。
(三) 「出ませんよ」
占領下での「抑圧された意識」が戦後文学にどういう形で表現を得たのかは、戦後文学史の重要なテーマのひとつであって、その詳細な分析は筆者の能力に余る。ここでは、『家畜人ヤプー』に若干言及するにとどめたい。
周知のとおり、『家畜人ヤプー』の作家沼正三が誰であるのか長い間不明であったが、1982年に天野哲夫氏(1926年生まれ)であることが分った(『作家・小説家人名事典』446頁)。氏は福岡県の生まれで、戦前は「満州」を放浪し、敗戦間際に帰国し、その後さまざまな職業を遍歴した。『家畜人ヤプー』は56年よりSM雑誌『奇譚クラブ』に連載され、70年に都市出版社から単行本として刊行された。三島由紀夫、埴谷雄高らの激賞も与って、発売と同時にベストセラーになった。同書は通常、サディズムやマゾヒズムを描いた官能小説として読まれるのだが、それだけでなく差別・被差別や国家権力の構造を暴きだしている点、また古事記、日本書紀をパロディーとして使っている点等も高い評価を得た(『日本現代文学事典 作品編』171頁)。『家畜人ヤプー』の主人公瀬部麟一郎と婚約者のドイツ人女性は偶然のことから、未来帝国EHSへ到着する。ここは白色人種の「人間」と、それに隷属する黒色人種の「半人間」と、元日本人で家畜にされた「ヤプー」がいるだけの国で、日本人以外の黄色人種は滅亡している。EHSは白色女性が支配している女権専制国家で、ヤプーは肉体を改造されて、女性に奉仕する性の道具になっている。
戦後の奇書のひとつとも言うべきこの長編を、ここでは詳しくフォローする必要はない。筆者の関心は、家畜とされた日本人と白人の支配というこの長編小説を支える基本構想が、戦後史の観点からいかなる意味を持つのかにある。さまざまな視点から読まれるこの小説が天野氏の特異な思想、生活体験、嗜癖等に基づいて創造されたのは言うまでもないが、しかし、ひとつの作品が社会から大きな賞讃をもって迎えられる場合、作家の個人的立場とは次元を異にした、その時代の社会意識を考慮する必要がある。天野氏が『奇譚クラブ』に連載を始めた1950年代中頃は、戦後日本政治史の重要な転換期のひとつ、「五十五年体制」が成立した時期であった。経済の面では、技術革新と消費革命が始まった時であった。敗戦から約十年にしてひとびとは、ようやく米軍占領下での諸制約から抜け出して、「戦後は終った」を実感できるようになった。この事は視点を変えれば、占領下での自国の置かれた状況を客観的に考察できる地点に、日本人が立ったことを意味する。『家畜人ヤプー』はこのような時代を背景にして、多くの読者に迎えられたのである。「戦後は終った」という庶民の実感とヤプーの人気は深くリンクしている。『家畜人ヤプー』では、日本人は、予め服従し、奉仕する歓びを教え込まれ、知性を持った家畜として飼育され、愛玩動物にされている。特に男のヤプーは白人女性の性の用具として使役される。本書のこの構想の中に、占領下での日本人の鬱屈した民族意識の歪みが確認できるのである。
真新しい紅白のロープに若者が一人吊り下がるのを見たいという仙三の猟奇な意識は、どこに由来するのだろうか。広く社会的な視点に立つならば、占領下でわれわれ日本人が一様に体験した被抑圧の意識が、頑固者の仙三にも微妙に反映した結果といわざるをえない。幾度か触れたように、仙三という男は戦後も戦前と同じ考え方、同じ暮らし方をしてきた人物であったが、その男にしてもなお、占領下被抑圧の意識が隠微に作用したのである。紅白のロープに若者一人が首吊りする様子が見たいという可虐の欲情は、占領下で仙三が受容せざるをえなかった被抑圧という被虐意識と表裏をなしている。可虐と被虐は補完の関係があり、また互換性を持っているのは周知のとおりである。両者の関連性は、むろん仙三の理解を越えたものであった。現に、「僕」が言った「エロ」についてさえ仙三には訳が分らずに、「エロ? エロ? 何、エロだつて」と奇妙な声を出しただけであった。
しかしながら、仙三の猟奇趣味は、占領下の抑圧された意識からだけでは解釈しきれない部分が残る。念のために先の引用を再度記せば、「伯父さんは嫉妬しているんだ! それでなければこんなお祭りの綱などを思いつく訳がない。」
この「嫉妬」、これは仙三が体験した被抑圧→被虐意識から理解するのは無理である。嫉妬が「僕」と加代へ向けられたのは言うまでもないからである。若い二人に対する老人の陰湿な妬み心、このテーマは抽象的には「世代論」に属するであろう。文学史から見れば、「父と子」の問題である。「世代」とは、たまたま同じ時期に生まれ合わせたことから、共通した歴史体験、生活体験によって、類似の心理や行動を持つひとびとを指す。したがって、世代間の不和、対立はどの社会のどの時代にも見られる、人類の宿命と言ってもいい。近時の例では、西洋文学で「ロスト・ジェネレーション」が議論された。第一次世界大戦期に青春を過ごした西洋のひとびとは、大戦後、既成の思想、モラル等に不信を抱き、新しい生き方を求め、前世代のひとびとと対立した。第二次大戦後には、フランスを中心にして、「アプレ・ゲール」(戦後派)という言葉が流行った。日本でも一時期大流行した言葉であった。アプレ・ゲールも戦前派世代に対する戦後派の反抗や反逆を意味した。
仙三は二人に対する妬み心から、「僕」に死を強要した。ところで、「僕」に死んでもらいたいのであれば、仙三は夏祭りに使う「真新しい紅白のロープ」にわざわざこだわる必要はない。仙三の嫉妬心を満足させるには白黒のロープでも、使い古したロープでもいいのである。しかし、仙三は紅白のロープをあえて選び、事前に首吊り輪まで拵えたのである。ここに、筆者は仙三の特別な嗜癖を認めるのである。仙三は若い二人をたびたび叱りつけたが、二人は仙三の話に一度も納得しなかった。それだけではない。二人は仙三を無視して、ますます親しい間柄になり、独自の行動を取るようになった。仙三は(したがって仙三に代表される旧世代は)自分の意見や信念が間違っているとは考えてもみなかった。それだけに仙三は二人を理解力の乏しい、軽薄な若者として憎悪したのである。そしてついに仙三の怒りが爆発した、「明日のうちに二人ともこのアパートを出て行つて貰おう」と。怒りのなかで仙三は不自由な足を引きずりながら事務室を出た。残された二人は互いに顔を見あわせた。状況に順応して生きて行く加代は、アパートを出るという。加代は「僕」に訊ねた。
「須巻さんは明日、ここを出られますの?」
「僕は出ませんよ。ここにいますよ。ずつとおそらく死ぬまで---」(84 傍点筆者)
「ここにいますよ」という彼の決断はきわめて重い。刑務所のような閉鎖されたアパート、「僕」を取りまく閉塞の状況、死線をさまよう飢え---、その真っただ中で、「僕は出ませんよ」と宣言したのである。「僕」のこの決断は仙三に対する、旧世代に対する戦闘宣言に等しい。と同時に、「僕」のこれからの生きる方向を決めた決意でもあった。「僕」は長い間、刻苦の中で自己の内面を視つめ続けてきた。自己探求の末に、今ようやく、自分自身が納得のできるひとつの結論に到達したのである。その確かな気持を「僕」は、「ここにいますよ。ずつとおそらく死ぬまで」と加代に言ったのである。
さて、「僕」のその決意を確認して、本稿を終ろう。
仙三が去った事務室に二人は黙って坐っていた。柱時計だけが、深夜の静寂を破って息苦しいほど正確に時を刻んでいた。やがて二人に溜息まじりの短い会話があった。
「『ほんとにつまりませんわね。』
『そうですよ。世の中つて、全くつまらない。それにまた何かが起こる筈がない!』
『何かが?』¤ 『そうです。何かがですよ! 朝ふと眼を覚ますと、世界がすつかり変わつていて極楽浄土のようになつているということですよ!』」(同上)
人類は過去に永い歴史をもち、そして未来にも永い歴史をもつのであろう。歴史は不断の継続であって、時に断絶があるようにみえても、それは継続の一ヴァリエーションにすぎないのではあるまいか。ある日突然世界が一変して、極楽浄土が、千年王国が、世界革命が成就して、それ以降至福の人類史が立ち現れるという考えは幻想にすぎまい。世界が突然一変しない以上、人類史の一瞬間を生きるわれわれにとって、誤りのない変革の第一歩は自己自身である。自己が変わり、自己の周囲を変えて行くしかあるまい。微小で非力な己れ一人の変革に、どれだけの力が期待できるのか、だれもそれを予め知る者はいなかろう。しかし、自己が変わり、自己の周囲を変えて行く一歩、一歩に歴史に対するひとの誠実さがあるはずだ。「僕」の決意をこのように解釈すれば、それは一言で、「個我の確立」と表せるだろう。
「僕」の決意を知った加代は、謎のような微笑をうかべながら、「あなたはほんとにたまらないかたね!」と賛嘆した。「たまらない」という含みの多い表現が、ここでは良く効いている。なにが「たまらない」のか、加代に訊ねても無駄であろう。おそらく「僕」の在り方、生き方に対する全幅の信頼を、加代はこの言葉に託したのであろう。加代は多少の心の昂りを抱きながら、「僕」へ言った。
「お別れにお酒を飲みません?」¤ 「それもいいですねえ」(同上)
二人は深夜加代の部屋で酒を酌み交わした。本「手記」のタイトル『深夜の酒宴』は、ここから採られている。が、酒宴といっても、実にささやかなものにすぎなかった。今日、若者たちが持つ賑やかなコンパとか、飲み会の明るさはない。二人だけの、心の交流を支えとした小さな酒宴であった。酒宴というより、「お別れ会」の方がふさわしい。二人の心の昂りが酒宴という言葉を選ばせたまでだ。そのうえ、「僕」は身体が衰弱していたのですぐ酔いつぶれてしまった。加代は、
「酔いつぶれている僕の頭を子供のように撫でながら、抜けて来る髪を指に巻いては畳の上へ落していた。」(85)
「手記」はここで終っている。
※ ※ ※
「手記」は創作面でいくつかの弱点を持っている。弱点は第一人称告白体という形式に由来している。すぐ気づくのは、作品の世界が狭い点である。舞台となった場所は、倉庫を改造したアパートにほぼ限定されている。登場人物はアパートの所有者とその住人数名である。住人たちはアパート外のひとびとと交渉がない。舞台の背景として、敗戦直後の貧困、飢え、病死等暗い面が重々しく語られる。戦後の物資欠乏は歴史上の事実であるが、他面、旧体制の崩壊に伴ってひとびとのエネルギーが開放されたのも事実である。「手記」にはそれへの言及はない。
総じて、登場人物はいたって実在感に乏しい。その原因は彼らが「僕」の眼を通して描かれているからなのだが、その「僕」自身の存在が希薄なのである。「僕」の過去を仙三が少しずつ読者へ明らかにしていく手法は、映画のフィード・バックに似て成功しているし、中村君の死について詳しく語らないのが、かえって読者の空想力を刺激してくれる。しかし、かろうじて飢えをしのぐ生活を続けながら、その生活から超然として「僕は十分形而上学者の資格がある」と思いこむ現実離れした人物として、「僕」は設定されている。存在感の希薄という点では、加代も同じである。加代については既に触れておいた。酔いつぶれて加代の膝元に寝こんでしまった「僕」の頭を撫でる彼女は、「娼婦の聖性」という大役を果たせずに終った。
六十年前に書かれた「手記」は、このようにいくつかの弱点を持つのだが、しかし、その弱点をうわまわって、今日においてもわれわれの心を打つ大きな魅力を持っている。それは、自己探求を続ける「僕」の潔癖なストイシズムに負っている。一人称告白体のスタイルがここでは長所になっている。「私とは何者であるか---」という重いテーマを、「僕」を取りまく暗い、重い状況に重ねて、最後まで弛みがない。「私とは何者であるか」というテーマはひとにとって、したがって文学にとって永遠のテーマであり続ける。敗戦による日本人の価値観の転換と、「僕」の価値観の転換、このふたつの転換を重ね合わせて作品化したところに、この「手記」の魅力があり、読者の心を打つ力がある。
「手記」は「僕」が「個我の確立」に確信を抱いたところで終っている。「僕」は辛苦の末に、ようやく新しいスタートラインに立ったのである。青春には何がしかの抒情が伴うものなのだが、見てのとおり「僕」の青春は暗灰色に塗られている。果たしてこの先、「僕」に青春に相応した生々の緑は訪れるのか――。
(完)
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〔opinion0534 :110703〕
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