日本の左翼は中国をどう見ているか
- 2021年 9月 14日
- 評論・紹介・意見
- 中国日本共産党阿部治平
マルクス経済学雑誌「経済」(9月号 新日本出版社)の特集「中国と日本」にはおおいに関心を持った。私は、自分をリベラル左翼だと思い込んでいるが、他の左翼の人々が中国をどう見ているか、できるだけ広く知りたかったからである。
特集は論文3編と談話、コラムでできている。川田忠明氏の論文「中国の海洋進出」については、すでに「八ヶ岳山麓から341」で検討した。
ここでは高橋孝治氏のコラム「少数民族の懐柔と刑法の適用」と、久保亨氏の談話「中国をどう見るか」について感じたことを記したい。
まず高橋氏のコラム「少数民族の懐柔と刑法の適用」を私なりに要約すると下記のようになる。
最近の報道では、中国では漢民族が少数民族を弾圧しているように見えるが、それは一面的で、都会の漢民族の中には少数民族は怖いという者もおり、漢民族の方が少数民族を恐れているという側面もある。
なぜなら中国には、少数民族の懐柔策として、「(犯罪者の)逮捕や死刑を少なくし、寛容に処罰する」という「両少一寛」という政策がある。「両少一寛」政策は、警察が犯罪を見て見ぬふりをするという運用の仕方なので、一部の少数民族は、好き放題に犯罪を行っている場合がある。
中国憲法にも法律の前の平等という規定があるが、「両少一寛」政策によってこの原則すら無視されている。
少数民族は漢民族に対して動乱を起こす危険性を持っており、少数民族の懐柔は、憲法より重要ということなのであろう。
中国では1979年に刑法・刑事訴訟法を制定したとき、少数民族の習慣とのあいだに矛盾が生まれることがあった。そのため、「両少一寛」政策が慣習法から現行刑法適用への移行期の臨時的措置として登場した。
たとえばチベット各地では、よほどの悪質なものでない限り刑事上の処罰はせず、殺人・傷害でも「命価」・「血価」という民事賠償でことを決するという慣習があったので、機械的に刑法を適用したとき、チベット人社会に強い不満が生まれたのである。
氏は、警察が犯罪を見て見ぬふりをするのは「少なくとも2013年には行われていたことは、筆者は確認しています」といい、またそのことが、漢民族が少数民族を怖がる原因になっているという趣旨のことをのべている。
氏は、別の論文でもウイグル女性の窃盗を警察官が見逃すなど数例を挙げているが、個別の警察官のふるまいで全体を判断するのは早計である(だから「場合がある」などといっているのか?)。全体を見れば、当時も都市や田舎を問わず、刑法で処理できる犯罪は刑法で取り締まっていたのである。
私が住んでいたチベット人地域では、かなり以前から1995年改訂の刑法・刑事訴訟法による事件処理が基本となっていた。というのは、市場経済の浸透とともに、刑法を適用しにくかった村落共同体間の集団抗争が減ったからである。
7年前の2014年末、中国共産党中央と国務院の文書「新情勢のもと民族工作を強化し改善することに関する意見」によって、異民族間の犯罪はもちろん、少数民族地域の事件も「民族化」つまり「両少一寛」政策を適用するのでなく、法律によって裁くべきことが強調された。
私は念のため高橋氏の見解をチベット人モンゴル人の友人に確かめたが、彼らは一様に驚き、コラムの内容を否定した。彼らもまた「両少一寛」の時代はほぼ終わったと考えている。
ところで高橋氏は、政府が少数民族を「懐柔」しているというが、中共中央は「懐柔」などする気はさらさらないし、その必要もない。中共は漢民族の国民国家を仕上げるために、少数民族の漢民族への同化を断固推進しているところである。同化政策に抵抗する勢力はもちろん、民族主義のにおいがするものは学術研究であれ、衣服であれ、ひげであれ、徹底的に取り締まる。西南地方を含めたいずれの少数民族にたいしても漢化政策を強化して、幼稚園と民族学校(小中学校)で漢語(中国語)を強制している。
ウイグル・カザフのタリフ(神学生)の抵抗運動も、チベット人の焼身自殺も苛烈な弾圧によって根絶した。内モンゴルのモンゴル人500万は、人口の80%余を占める漢民族の海におぼれている。
ところで高橋氏の「漢民族が少数民族を弾圧している」というのは、「中共中央あるいは中国政府が少数民族を弾圧している」とするのが正確ではないか。また「少数民族の漢民族に対する動乱」という言い方も、漢民族と中共中央・中国政府を取り違えているのではないか。それに、いかに何でも「動乱」はおかしい。ここは編集者の力量が問われるところだ。
つぎに久保氏亨氏の談話を見よう。
久保氏のテーマは多岐にわたるが、以下中国近現代史の碩学がこんなことを言うのかと、違和感があったところだけをのべる。
第一は、氏が「大陸に対して『議会制民主主義が欠如』というのは多分言い過ぎだ」としているところである。人民代表大会について「各レベルの人民代表は多かれ少なかれ支持層の要求実現のために活動しているので、「議会制民主主義も一部機能している」という。
いわでものことだが、中国には三権分立はない。司法も含め、すべて中共が支配する。人民代表というが、一般国民が直接選挙できるのは、県級以下である。全国人民代表の選出は間接選挙である。しかも一般国民に被選挙権は事実上存在しない。県以下の郷・鎮などでも中共が推薦したものだけが候補者となれる。
一般には人民代表大会は議会としては機能していない、「拍手するだけ」といわれている。氏が「共産党以外の政党も存在しています」というに至っては、ご冗談でしょうという以外ない。
第二、久保氏はウイグル問題に関連して、「民族としての『ウイグル』自体が微妙な存在で、近代の安定した国家が形成されていたわけではない、1920~30年代当時の国民党の盛世才がチュルク系の人々を『ウイグル』と呼ぶことにした云々」と語っている。そして、民族的な自立をどこまで、どのように考えるか難しい問題もあるという。
難しくはない。レーニンやスターリンの民族理論によらなくても、ウイグル・カザフには独立の権利がある。8世紀の回紇王国はともかく、ウイグルは清帝国と国民党政権に抵抗する過程で近代民族として完成した。これはインド民族がイギリスに植民地化されたなかで形成されたのと似ていると私は考える。
久保氏は「欧米のウイグルに対するジェノサイドなどという宣伝は根拠が乏しい」という。だが、かりにそれを認めても、新疆でも強引な反イスラム的、人権無視の漢化政策を進めていることを指摘すべきである。私は2年前、アルタイ山麓まで行ったが、ウイグル・カザフに対する苛烈な圧政は一目瞭然、力ずくの民族消滅政策があきらかだった。
第三、氏は「中国では、歴史的に『殺すことは敗北』という意識がありますし、反体制派の人物が殺されることはあまりありませんでした」と語っている。
とんでもない。お題目ではなく、これは事実の問題である。軍閥時代、1927年の蒋介石の上海クーデター、国共内戦、50年代末のチベット叛乱、文化大革命、内蒙古人民革命党事件、それぞれに大量殺人があった。毛沢東は「殺すのは少なく」といったらしいが、大躍進・文革では千万単位の死者を出し、革命の功臣を紅衛兵に監禁・殺害させたのである。
そのほか、久保氏は中国による尖閣領有の可能性に関連して、中国の潜水艦は「性能が低く、音がうるさい」という。中国とかぎらず潜水艦の性能は秘匿性が特に高い。しかも中国の軍事科学は高水準に達している。素人が云々できる分野ではない。
世界中が中国の経済成長とそれに伴う帝国主義化に注目し、批判するようになってから、ようやく左翼も中国の人権問題、民族問題、拡張主義について発言をするようになった。だが、それは西側世論への同調、追随以上のものではない。「経済」の特集「中国と日本」の論文には、すべてではないが、ひいき目に見てもこれと同じレベルのものがあった。残念だ。
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