「性の商品化社会」を批判しうる思想とは?(Ⅲ)
- 2021年 10月 2日
- 時代をみる
- 性の商品化池田祥子
鈴木涼美理解の困難さを超えて
私は、8月、9月の月初めの投稿で、上野千鶴子・鈴木涼美の往復書簡『限界から始まる』(幻冬舎)の紹介をしながら、「性の商品化」とは何か?を考える緒口を探りたいと思った。
しかし、1999年に女子高生になった鈴木涼美が、東京渋谷という界隈を中心にして、「日常の地続き」のようにして、「ブルセラ少女」となり、やがて「AV女優」になっていく前半の自分史を反芻しながら、「私がブルセラ少女だった時、大人たちはそれを禁止したり戒めたりこそすれ、禁じられるべき明確な理由を教えてはくれませんでした」とこぼしている箇所で、私は思わず、「もう高校生でしょ!他人の責任にしないで欲しい。当たり前に生きて行けば、<お金を貰えば恥ずかしいこと>くらい、分かるようになるではないか!」と非難めいたことを言葉にしてしまった。
当時の女子高生の、P(パンツ)8000円、B(ブラ)9000円、L(ルーズソックス)7500円、S(尿)2万円、D(唾液)1万円、という相場を知った後も、そういう値段を知って「ラッキー!」と思う前に、経済的にどん底でない限り、「止めてよ!」と拒否反応が出てくるのが「当たり前」と思ってしまう私なのだ。
また、男性からは見えているが女性からは見えていないはずのマジックミラー越しに、自分の渡した「パンツを被って、ルーズソックスを首に巻き、ブラジャーの匂いを嗅ぎながら自慰行為をする」男性の姿・・・それが鈴木涼美の「初めての性体験」。そこで彼女は、「私は16歳で、下着と尊厳を『どぶに捨て』ました」と書いている。
しかし、そこでも、ちょっと待って欲しい、「自慰行為」というのは、男性にとっても女性にとっても、極めてプライベートな次元のことだ。にもかかわらず、その世界を「女子高生」を使って商売に仕立てあげている世界、ショッキングな舞台なのに・・・それに乗っかってしまった自分を棚に上げて、「下着と尊厳をどぶに捨てました」と、簡単に言わないで欲しい!とも思った。
しかも他方では、鈴木涼美は、「単品としてのセックスは日常から切り離して刹那的に売り物になる便利なものです」、「セックスを大切に保管している女性に対して、それを粗末に扱える自分は優越感を持っていられます」、「私にとっては、慶応生や東大院生をしながらAV女優であるということで、取り急ぎ『可愛がられるし尊敬もされる』を文字通り体現していることが重要でした」とも述べて、「どぶに捨てた」はずの自らの尊厳を、別のところで打ち立てて、そこでバランス取りながら生きてきた軌跡を正直に語ってもいる。
しかし、私には、「尊厳をどぶに捨てた」鈴木涼美も、「優越感」を保持して「笑顔を保って」生きてきたであろう鈴木涼美も、どちらに対しても、違和感とともに理解しがたい危うさを感じてしまうのである。
そう思いながらも、例えば、次のように社会の「性の商品化」の実態そのものが、男性にとっても女性にとっても「大いなる虚構」であることを見抜いてもいる鈴木涼美。そこに見られる「賢さ」は大事にして欲しいと思ったものだ。
「女性の売春が成立する社会の条件は権力や経済的資源が男性に偏っていることだというご指摘に異存はないのですが、その現場では女性の自尊心だけでなく男性の自尊心も紙一重の危機に曝されるように感じます。お金をもらっているからオモチャにされなくてはいけない女性側も、お金を払っている間だけ相手をしてもらえる男性側にも、そこには厳しい条件付きの愛しか与えられません。
パパ活や援助交際とすることで、男性はプロのオネエサンにお金を払って相手をしてもらっているのではなく、あくまでも素人の女性との付き合いの中で、こちらに経済力があるから助けている、という虚構を生きられるし、女性の方も、自分は売春婦ではなく、セックスをした相手がお金持ちで、あくまで自分の魅力に評価をしてくれていると勘違いができます」(往復書簡p.146)。
しかし、その世界の「虚構性」や、そこに生きる人間の「勘違い」に気づきながらも、鈴木涼美はその世界から逃げようとはしなかった。なぜなら、「麻薬のように気持ちの良い昂揚を与えてくれる」特殊な世界であり、「今更『魂に悪い』の一言で納得してやり過ごす気にもならないし、その魅力が他に代えがたいものだという経験的な実感もあります」(同上)と語っている。この限りでは「確信犯」でもある。
とは言え、その確信も揺ぎ無いものではない。
その世界の「虚構性」や「勘違い」に気づいている以上、そこに無邪気に安住できるものではないだろうからである。ただ、これまでの多くの論者の「性の商品化」批判の言説が、杓子定規だったり高踏的だったりで、鈴木涼美の世界や実感にピッタリ触れるものではなかったのだろう。
ただ、今回の上野千鶴子との往復書簡を通して、最後に次のように述べているのは、私にとっては「希望」である。彼女自身も又、「性の商品化」に対して、どこかしら違和感を持ち続けていることが分かるからである。
「私が個人的に自分に課している、売春や自分の性の商品化を否定するとしたらどんな言葉が紡げるか、という問題にも光が少し見えました」、「『どうして身体を売ってはいけないのか』について、答えを出すのが、私の物書きとしての一つの大きな仕事だと、考えています」。
私の立場からすれば、「どうして性の売買が、‟差別と偏見”を温存したまま、金銭的には高額なやりとりを伴って、ここまで広まっているのか」、という問いの立て方になるだろう。さらに、問題への切り口も異なるかもしれないが、テーマとしては鈴木涼美とかなり重なるだろう。その意味では、今後とも鈴木涼美に注目していたいと思う。
『「AV女優」の社会学』への違和感―「AV女優」という詐称?
今回の上野千鶴子との往復書簡を読んで初めて、私は、鈴木涼美の『「AV女優」という社会学』という著作を知った。2013年発行、慶応大学4年生の時のレポートを元にした東京大学での修士論文を発展させたものだという。
読む順番としては逆になってしまったが、先にも挙げた往復書簡での鈴木の言葉―(性の商品化世界が)麻薬のように気持ちの良い昂揚を与えてくれるーという実感を、「AV女優」たちの実態をフィードワークしながら叙述したものである。
2013年から往復書簡発行の2021年7月まで、早くも7年が経っている。その意味でも、ここで改めて詳しく紹介するまでもないだろうが、私の基本的な疑問点だけは指摘しておきたいと思う。
その前に、鈴木涼美の文章を二つほど引用しよう。
「私は売春肯定宣言をする気も売春廃絶論を掲げるつもりもはなからない。ただ、売春の黒い部分ばかりをクローズアップしたり想定したりするだけでは、私たち都心の女子たちについてはわからないんじゃないかと感じていた。私たちの生きる街の売春がややこしいのは、それが黒い部分ばかりであるからではなく、どうしようもなくピンク色だったりキラキラしていたりするからなのである。売春にまつわる悲惨はそのキラキラであるが故の悲惨について描かれるべきだと思うし、売春を肯定する内部からの声もそのピンク色に自覚的であるべきだと思う」(p.301)。
「AV女優の仕事というのは、性産業、性行為をして対価を得る、といった側面の他にも、非常に多くの意味付けが可能である。性産業であると同時に、芸能関係の仕事であり、エンタテインメント産業であり、演技する女優の仕事でも、写真を撮られるモデル業でもある。そして、仕事に多様な意味がラベリングされていることは、仕事の売春的側面を、忘却された付加的部分へと押しやることがある」(p.251)。
私自身、「売春」という歴史的な言葉を用いるのかどうか・・・ここは今後の検討課題にしておきたい。その上で、性が「商品化」されたさまざまな現場が、「真っ黒」とは思わない。昔から、遊廓や花街は「艶やかな色彩」に彩られていたし、そこで働く(働かされる)女性も男性も、常に「鬱屈」していたとは思わない。私が高校時代に住んでいた北九州小倉の「舟町」は、戦前の遊廓の町だったから、戦後も、似たような「性関係」の仕事に従事する人間がひしめいていた。彼女ら彼らが、仕事の無い時間はそれこそ「普通」の顔、「普通」の暮らしをしていたことも知っている。ただ、鈴木涼美のように、その世界の「ピンク色」や「キラキラ」部分をあえて言上げしようとは思わない。しかも、AVに携わる仕事が「芸能・エンタテインメント・演劇」関係でもあると、すんなり同列視して澄ましている訳にはいかない。
もちろん、カメラは廻り、監督も居て、指示された通り(あるいはそれ以上の)「演技」をするかもしれないが、それはどこまでも「性産業」としての枠内でのことではないだろうか。
いつから「AV女優」という言葉が使われるようになったのか・・・私は知らない。しかし、演劇や映画の「女優」ではない者に「女優」という言葉を被せることで、周りにも、当人たちにも、ある種の「錯覚」を意図的か偶然かは分からないが、用意したのではないだろうか。だからこそ、「AV女優」自身が、「私たちは風俗嬢とは違う!」という、これまた差別社会内での「さらなる差別」を作り出してしまっている。「AV女優」とは詐称であることを、あらためて確認すべきではないか、と私は思う。
鈴木涼美は「AV女優」という言葉を前提にして、その世界に携わる女性たちの「努力」と「輝き」を描き出すことに懸命だが、私は、「アダルトビデオ」の世界も含めた「性の商品化」社会を、もう少し全体的・構造的に捉え、そこでの問題性を探りなおしてみたいと思う。
今更ながらではあるが、戦前の「公娼制度」、そこでの男性の「性欲観」、そして戦後の「売春防止法」という法律の曖昧さ・「売春婦」定義の問題性、さらには「家族」と「女性の性」の観念、および現代のさまざまな性産業を規制しつつ支えている通称「風俗営業法」をも、改めて検討していければと考えている。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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