二十世紀文学の名作に触れる(13) アンリ・ベルクソンの『笑い』――「人間とは何か」を巡る省察
- 2021年 10月 4日
- カルチャー
- アンリ・ベルクソン文学横田 喬
フランスの哲学者アンリ・ベルクソン(1859~1941)は1927年、ノーベル文学賞を受けた。「美しい文章を諸々綴った」功績が高く評価されての榮譽である。前回取り上げたトーマス・マンの小説『魔の山』には、ベルクソンの「生の哲学」を体現するかの印象の偉丈夫が登場した。私は大学(仏文科)の卒論のテーマに、ベルクソンの著作『笑い』を選んだ因縁がある。岩波文庫版『笑い』(訳・林達夫)を基に、その核心を私なりに紹介してみよう。
ベルクソンはこの著作巻末の付録に執筆の意図について、大略こう記す。
――私は喜劇や笑劇や道化役の曲芸等々の中におかしみのいろんな作る手順を探った。私は笑止なるものを作る手順を規定しようと思ったと同時に、社会が笑う時その意向はどういうものであるかをも探求した。おかしみの原因の中には、社会生活に対する軽微な侵害的なものがあるに違いない。社会はそれに対して防衛的反作用らしい一つの身振り、軽く怖気を抱かせる一つの身振りを以て応酬するからだ。
目次は第一章:おかしみ一般、第二章:状況のおかしみと言葉のおかしみ、第三章:性格のおかしみ、の三部立て。第一章は形のおかしみ・運動のおかしみ・おかしみの膨張力という三つの柱立てから成る。先ずベルクソンは「笑いの根底には何があるのか?」と問いかけ、「本来的に人間的であるもの以外におかしさはない」と言い切る。
そして、おかしさを引き起こす三要件として①人間的であること②心を動かされないこと③他人との接触が維持されていること、を挙げる。ちなみに②は傍観者だからこそ笑える(憐みや感動などが伴うと笑えない)、③は仲間意識に由る「共犯関係」が伴う(孤立していれば笑いはない)意。以上を一括すれば、
――おかしさとは、集団を成す人々が自分たちの感性を沈黙させ、ただ知性のみを働かせながら、全員が仲間の一人に注意を向ける時に生まれる。
彼は笑いを呼ぶのは「ぎこちなさ」だとし、こう指摘する。
――人間としての注意深い柔軟性と活き活きした屈伸性があって欲しいところに、いわば機械のぎこちなさが見られるからだ。
このぎこちなさは惰性のせいであり、事情が他の事を要求している時に筋肉は同じ運動を続けた。その失策を人は笑うのだ、と言う。
精神における固定観念のぎこちなさが「放心状態」を呼ぶ。現実離れしたことに捉われての確信的な放心状態の典型はドン・キホーテだ。人は何故ぎこちなさを笑うのだろうか。
――社会が人々に求めるのは、ぎこちなさや放心とは対極の緊張と弾力、常に目覚めた注意力である。精神のぎこちなさや放心は、その社会的成員の活動力が眠り込んでいる標、と懸念される。笑いは(その眠り込みから目覚めさせるための)ぎこちなさへの処罰なのだ。
また、ベルクソンは「性格のおかしみ」に関し、こう規定する。
――厳粛であり時には悲劇的でさえある他人の人格が我々を感動させなくなった場合に、喜劇は始まり得る。それは社会生活に対するこわばり(硬直化)から始まる。他人と触れ合うことを心がけず、我が道を自動的に辿っていく人物(典型がドン・キホーテ)は滑稽だ。笑いはその場合、彼の放心を矯正するために存する。
人の欠点はその不道徳性よりもその非社交性のゆえに、我々を笑わせる。滑稽は人間の純粋理知に訴える。笑いは情緒とは相容れない。「心を動かしてはならぬ」が必要な唯一の条件だ。身振りは思わず発するもので、自動的なものであり、いくらか爆発的でもある。我々の注意が人の行為に向かわず、身振りの方に向かうが早いか、我々は喜劇の領分に入る。一つの性格が非社会的(例えば「世間知らず」)でさえあれば、それは滑稽になり得る。
人物の非社交性と観客の無感動性、これが笑いに必須の本質的な二条件だ。そして、第三の要件が自動現象。本質的におかしなものは自動的に為された事柄だ。欠点に於いても、美点に於いてさえも、おかしみは人物が知らず知らずにやってしまうものだ。
――全て放心は滑稽なものだ。放心は根の深いものであればあるだけ、喜劇性は高いものになる。ドン・キホーテのように筋立った放心は、この世で一番滑稽なものである。
己に対する不注意、他人に対しての不注意、それは非社交性と一体となっている。こわばり(硬直性)の一番の原因は、人間が己の内部点検を怠ることだ。こわばり・自動現象・放心・非社交性、その全ては相互にもつれ合っている。そして、その全てに依って、性格の滑稽味が作り上げられている。
喜劇の表題そのものが意味深長だ。『人間嫌い』『守銭奴』『粗忽者』・・・。それらは皆、種類の名だ。そして、性格喜劇は表題に『女学者』『才女気取り』『退屈する人々』・・・と複数名詞か集合名詞が採られる。同種の奇人は、ある見えない引力によって同気相求めているのか。悲劇はハムレットのように個に執着し、喜劇は女学者というジャンルに執着する。
人間の身振りや動きが、機械仕掛けであるかに映るものが笑いを呼ぶ。演説者が熱弁を揮っている時、身振りが周期的に同じ動きをすることに気づいた聴衆は失笑する。笑劇では、このパターンを意図して作る。人の仕草を真似る時に起きる笑いも、これと同じだ。
喜劇は生活を真似た遊びだ。舞台から引っ込んでは性懲りもなく出てくる喜劇役者は、ビックリ箱の遊びを応用している。当人は自身で立派に生きている気でも実は他人の掌中で玩弄されているケースが、操り人形。言うならば、おかしさとは人が「もの」に似ることだ。
言葉による笑いは、機知と滑稽に区分できる。ある観念の自然な表現を別の異なった調子に移調すると、笑いが生まれる。荘重さを平俗さに、小さなものを大きなものであるかのように、下劣な行為を敬語で扱ったり――これらはイギリス的ユーモアの範疇に属する。
喜劇は社会生活に対する硬化とでも言えるものを扱う。他人との接触を心がけず、ひたすら我が道を辿るドン・キホーテの様な人物は滑稽の典型だ。それに対する笑いは、その硬化を矯正するよう促す。喜劇が悲劇より現実生活に近い処を舞台としているのはそのためだ。
――芸術の基本は個別性にある。喜劇はその逆で、登場人物は類型的だ。喜劇作家は人物の内面には深く入らず、現れる行為や身振りに観客を注目させる。その類型が社会性からの放心であったり、自動機械を連想させるぎこちない性格である時、笑いを呼ぶ。
喜劇の題材となる代表的な性格は虚栄心だ。自己賛美に根差すこの性向は、どんな人にも自然に内在する。それに気づき~矯正することにより、後天的に獲得する性格が謙虚さ。虚栄心を直す特効薬は笑いだ。フランスの喜劇に度々登場する職業人的虚栄心がある。教師や医師などの勿体ぶりや職業的無情さとも呼ぶべき言動は笑いの対象となる。すなわち
――笑いは社会の自然として発せられ、有用な機能を果たしている。
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