二十世紀文学の名作に触れる(14) 『笑い』のアンリ・ベルクソン――人間の生は飛躍を含む純粋持続と捉えた哲学者
- 2021年 10月 5日
- カルチャー
- アンリ・ベルクソン文学横田 喬
フランスの哲学者ベルクソンは「科学で解明できることには限界があり、その意味を問うことはできない」と、科学万能主義に対し異を唱えた。特に「精神が頭脳の活動によって生み出される」とする生理科学の主張は誤っている、と説いた。私は学生(仏文科)当時、彼の言い分に直感的な共感を覚え、それは六十余年を過ぎた今も変わっていない。
ベルクソンは1859年にパリで生まれた。父はユダヤ系の作曲家・ピアニストで、母は英国人。高等中学で古典学と数学を修め、特に数学に非凡な才能を発揮した。当時ほんの一握りの人しか理解できなかったアインシュタインの相対性理論における時間に関する論究を成す。パリ大学で人文学を専攻~パリ高等師範に転じ、実証主義や社会進化論を研究する。
高等中学で教師として教える傍ら学位論文執筆に励み、88年ソルボンヌ大学に『時間と自由』を提出。翌年、文学博士号を授与された。この著作で彼は、従来「時間」と呼ばれてきたものを深く検討。空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続」と呼び、人間の自由意志の問題について論じた。
96年、哲学上の懸案である心身問題を扱う著作『物質と記憶』を発表する。失語症に関する研究を手掛かりに、物質と表象の中間的存在として「イマージュ」という概念を採用し、心身問題に取り組んだ。実在を持続の流動と捉え、心(記憶)と身体(物質)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」と定義。心と身体の双方が持続の律動を通じて相互に関わり合うことを立証しようと試みる。
三年後、『パリ評論』誌に三回にわたり、論説『笑い(おかしみの意義についての試論)』を発表する。翌1900年に単行本として出版されると、たちまちセンセーションを巻き起こし、学究らによる「笑い」に関する本格的研究の出発点となる。
同年、パリの国立高等教育機関コレ―ジュ・ド・フランス教授に就任。04年から同校の近代哲学部門を担当する。同校は広く一般市民にも開かれ、彼の講義は大衆的な人気を呼び、本人自身が辟易するほどだった。聴講者の中にはイギリスの高名な詩人T・S・エリオットや作家プルースト、人類学者レヴィ=ストロースらの名があり、後にベルクソンに師事するに至る後進哲学者ハイデッガーやサルトル、メルロ=ポンティらもいた。
07年に第三の主著『創造的進化』を発表する。当時広く知れ渡っていたスペンサーの『社会進化論』から出発し、意識の流れとしての「持続」を提唱した。ダーウィンの進化論における自然淘汰の考え方では、淘汰の原理に素朴な功利主義しか反映されていない。だが実際に起きている事態は異なり、はるかに複雑で不可思議だ。生を肯定し、生をさらに輝かせ進化させる力、種と種の間を跳び超える「縦の力」「上に向かう力」が働き、突然変異が起こる。そこで生命の進化を推し進める根源的な力として、彼は「生の飛躍」を想定。ここで普遍的なものが実在するという大胆かつ前科学的な立場を肯定した。
国内外で名声が高まった彼は公の場に引っ張り出される。第一次大戦中の17~18年にはフランス政府の依頼でアメリカを説得する使節として派遣され、非常にデリケートで困難な職責を見事に果たす。大戦後の22年には国際連盟の諮問機関として設立された国際知的協力委員会の委員に任命され、初会合では議長として敏腕を揮った。このためフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を、そして27年には幾多の著作に対しノーベル文学賞を授与されている。
彼はマルクス主義の一過性を見抜き、人間社会は閉じた社会と開かれた社会を行きつ戻りつしながら開いた社会を目指して進む、と説いた。彼が見抜いた通り、ソヴィエト政権はその閉ざされた性質ゆえに一世紀と保たずに崩壊していった。
73歳を迎えた32年、最後の主著『道徳と宗教の二源泉』を発表。これまでの主張を踏まえ、人間が社会を構成する上での根本問題である道徳と宗教に関し、「開かれた社会/閉じた社会」「静的宗教/動的宗教」「愛の飛躍」といった用語を駆使し、独自の省察を加えている。
さて、前編で取り上げた論考『笑い』について少々補足する。私の学生時代の恩師(かのノーベル賞作家・大江健三郎氏の恩師にも当たる)のフランス文学者・故渡辺一夫先生はユーモアを大層愛される方だった。先生はよく「僕は家ではいつも女房を笑わせようと努力している。笑いは健康の元だから」と口にされていた。
実は「笑う門には福来る」の好例がある。広島の原爆孤児たちへの支援活動でも知られるアメリカのジャーナリスト・作家の故ノーマン・カズンズに『笑いの治癒力』(岩波現代文庫)という著書がある。同書が伝える経緯は大略こうだ。
――彼は1964年、重度の膠原病を発症。医師から「全快の見込みは殆んどない」と宣告された。彼は医師の勧める「薬漬け治療」を辞退し、人体に元々具わる自力回復力に賭けようと決意する。マルクス兄弟のどたばた喜劇映画を立て続けに見たり、笑わずにはいられない傑作ジョーク集の本に読みふけったり、彼流に抱腹絶倒の日々を重ねた。
開始して八日目には目に見えた効果が生まれ、日を追うごとにめきめき健康を回復。まもなく、雑誌の編集長という職務に復帰するという奇跡が起こる。この難病克服のニュースは当時アメリカの医学界に大きな衝撃をもたらした。彼自身その後UCLAの医学部教授に迎えられ、笑いの治癒力について研究を進めた。米国各地で研究の成果が採り入れられ、82年には「笑い療法学会」が発足。日本でも94年に「笑い学会」が誕生している。
本題のベルクソンに戻る。晩年にはカトリック信仰に傾きながら、進行性の関節リュウマチを患い、苦しんだ。清貧の生活を送る中、39年秋に第二次大戦が勃発する。翌々年初頭に凍てつく寒さの中、風邪をこじらせ、ドイツ軍占領下のパリの自宅でひっそりと世を去った。寂しい葬儀に参加したフランスの高名な詩人ポール・ヴァレリーは、弔辞の中で故人をこう偲んだ。「大哲学者・大文筆家であり、そして偉大なる人間の友でした」。
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