「原爆」と「原発」の間で
- 2011年 7月 6日
- 時代をみる
- 姜 海守
昨年、「日韓併合100周年」に際し、日本近代史研究者の成田龍一氏は日本の戦争責任と朝鮮などにおける植民地支配責任を合わせた、「帝国責任」について述べた。「8・15」は韓国では植民地支配・羈絆から抜け出す「光復節」として記念されているが、成田氏のいう「帝国責任」は韓国における歴史認識に応えるものといえよう。実際、「東京裁判」も朝鮮に対する帝国日本の植民地支配は裁くべき議題には入らなかった。江見卓司氏がfacebookに投稿した「戦後、日本が戦争しなかった?」(7月3日)を読み、日本の「戦後」史観と韓国の「光復」史観とのズレが再び頭に浮かんだ。「原発問題」が言論形成の最優先課題となっている今日、広島・長崎のへの原爆投下と原発問題が同一のカテゴリーで、「高効率」を追求した20・21世紀資本主義的な人類文明の矛盾と弊害として批判されている。核とその放射能がもたらす危険性を自覚し、その使用と新たなる原発の建設に対する懸念には全く異論がない。だが、もう少し私見を述べるならば、「原爆」と「原発」には同一の範疇で議論できる点とそうでない点がある。両者の共通点は、放射能の被爆や風評被害などにより人が身体的にも精神的にも大きく傷つけられるマイナスの要素があることである。故意に投下された広島・長崎の原爆は繰り返してはならない悲惨な歴史的事件であり、福島原発についても安全神話は本来あってはならないものであった。一方で、原爆と原発は同じ範疇で論じるには早急な点もあろう。「原爆投下」とはその戦争が帝国主義覇権追求の過程・結果としてある戦争において、戦争の「高効率」遂行を駆使したアメリカの戦略によって起きた未曾有の悲惨な歴史的事件である。したがって日本では、「8・15」とは戦争と平和の分岐点とされ、広島・長崎への記憶は戦争と平和の問題そして核の使用とその実験の問題に結びつけれてきた。「戦後日本」は戦中と戦後を繋ぐ多数の「知識人」たちによって「平和・文化国家」という国家イメージに置き換えられてきた。だが、「戦後」日本の平和教育の問題点は、「南京大虐殺」と「平頂山」そして苦労の多かった植民地朝鮮という現場からではなく、広島・長崎という一国的な範疇から出発したことのように思われる。著名な作家の村上春樹が演説「日本人と『無常』―非現実的な夢想家として」の中で広島の慰霊碑文「過ちは繰り返しませんから」での「過ち」が誰による過ちであったかを問題としていない。たとえ、そこに加害者としての日本を含めていたとしても、その歴史認識はあまり深いものではないだろう。「原発問題」を「原爆」と同一の領域の問題としてだけ扱うのは、「戦後」史観が規定づけた言説ではないだろうか。原爆と原発の二度の悲劇を被ってしまった日本は、むしろ、植民地経験とその遺産を抱きながら生きている隣国とその歴史観を共有したうえの市民的共闘でこそ能力を発揮し、「原発問題」に立ち向かうべきであろう。
(姜 海守氏は近代日韓比較思想史専攻。)
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