ヘーゲルと、信仰、カソリック批判 ヘーゲルの現代史的意義
- 2011年 7月 8日
- 交流の広場
- 高橋章子
ヘーゲルは一般の信徒であれ聖職者であれ、神の真理を自力で知ることが大切で自らの行動は自己の意思と良心に基づいて決定せねばならないという。主体は神と向かわなければならないという。精神的内面と法と正義、共同的精神と良心責任の能力、義務の理念を問う。
しかし、ヘーゲルのこの言葉は間違っている。私は四谷のイグナチオ教会でチェコのイエズス会のアルムブルスター神父様から洗礼を受け長町神父様から謙信礼を受けたが、どうしても人を許せなくて長町神父に自力で許すことは可能でしょうか、と相談したら、優しく厳しい誠実そのものの彼は「あなたは間違ってます。祈り神に委ねるのです」といわれ葉っぱの季節にお戻りになるアルムブルスター神父様に、私のサポートの編集者に「カトリックは気楽だね。左翼はみんな重荷を背負って生きていくんだ」といわれたことを話したら、アルムブルスターは珍しく色をなして「神父は大変ですよ。マルセイユから日本の戦後の焼け野原の四谷に着いたとき、私は最愛の母の死の電報を受けとりました。その日本 人の神父様の 言うことは正しいです」と。
ヘーゲルには魂の救済という発想もないし、人間的悩みや弱さを軸として宗教を考えていない。
しかし人間はみな弱く悩む。
ヘーゲルはそうではなくキリスト教には近代世界に相応しい役割として自由を求める強く大きな近代世界を開く可能性を求めた。つまり人間に「強く大きな精神たれ」という。
馬鹿なことにヘーゲルは、悩み苦しみ涙を流し「死」を考える人間に、神を前にして自然体で自由で自立した精神たれと要求する。「法と正義、共同体と良心、責任能力と義務」の精神を人間に要求する。
ヘーゲルはこれらを「宗教的徳」という。そして聖職者に最も必要な徳だと言い、プロテスタントはこうした徳に力を入れるからカトリックよりいいという。
私から言わせればプロテスタントなどお気楽です。
ヘーゲルはここまでとことん現実と理性にひっぱって来る。ヘーゲルは宗教の思想的帰結、世俗家は、宗教が哲学に包括されると帰結したが、私の恩師フランクフルトで、アドルノについて学びカント、ヘーゲル、をドイツ語で教えて下さった不良神父はどう考えるだろう?
現代、ヘーゲルの現代的意義はどのように生かされているだろう。考えられるのは、ちきゅう座と教会と生協運動である。個人の内面的主体を堅持しつつ自分の生きる集団や社会に対して開かれた目を持ち「共同体的精神Sittlichkeit」を堅持すること。矛盾と対立が現代、ヘーゲルの現代的意義はどのように生かされているだろう?個人の内面的主体を堅持しつつ自分の生きる集団や社会を、ヘーゲルの目指す共同的精神で、地震、津波、原発、政治を、労働運動、生協活動、地域集団、闘争、運動、革命で乗り越える精神的支柱になる。頑張ろう。
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